安息日学校部

20220307安河内アキラ解説

2022年第3期「試練を共にされるキリスト」

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第7   不滅の希望   8月13日

 

 

暗唱聖句  「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。 ローマ 5:5

                                                                 

今週の聖句  ヘブライ 1:1~4、ヨブ記 38~41 章、イザヤ 41:8~14、エレミヤ記 29:1~10、    ヘブライ 12:1~13

                                                                 

今週の研究 教会において、微笑みに満ちた人に囲まれているときは、希望について語り、 賛美することは簡単です。しかし試練の中にあるときに希望を語ることは簡単なことではありません。逆境に立たされると、私たちはあらゆることに、特に神の英知に疑問を持ちます。

私たちは常に神を理解できるとは限りません。また神は私たちが予測できないことをなさいます。しかしそれは、神が私たちに敵対しているのではなく、 単に、私たちがまだ神の全体像が見えていないだけなのです。

神のご品性を理解することは、試練の中で希望を持ち続けるためにどのような助けとなりますか。

                                                                 

日曜日:ハバククは彼を取り巻く大いなる悪と、神のさらなる悪の到来の約束との板ばさみにありました。しかし、それは紛れもなく、救済の歴史の中で私たちが置かれている状況でもあるのです。私たちも大いなる悪に取り囲まれていますが、聖書はさらなる悪の到来を予告しています。ハバククがこの時代を生き抜くことができたのは、「絵」の全体を示されたからです。こうして彼は3章で、 神が将来になされる御わざのゆえに、信じがたい賛美の祈りを献げることができたのです。

                                                                 

火曜日:イザヤ41:13はこの箇所で最も力ある表現の一つです。宇宙を統治される神が、「あなたの右の手を固く取って」主の民は恐れる必要はないと言われます。この表現は、私たちの地球からはるかかなたの天の玉座から、地上の出来事をすべて導かれる神の姿を想像させます。しかし同時に、神は愛する民の手を取ることができるほど近くにおられる神でもあるという、主のもう一つの姿を1枚の絵として描いています。

私たちは忙しいとき、神がこんなにも近くにおられることを忘れがちです。 しかし、私たちが、主はインマヌエル、すなわち「我々と共におられる」神であることを思い出すとき、そこに大きな違いが生まれます。神の存在が私たちと共にあるとき、主の目的、主の約束、そして主の造り変える力もまた私たちと共にあるのです。

                                                                 

水曜日:この箇所(エレミヤ書29:1~10)には希望を持つべき三つの重要な理由が強調されています。

第一に、神はその民に、彼らが置かれた状況は偶然の結果でも予測できない災いでもないのだから希望を失ってはならないと言われます。神自ら「わたしは、(ユダを)エルサレムからバビロンへ捕囚として送った」(エレ29:4)と言われます。災いに囲まれてなお、ユダは神の御手の真ん中にいたのです。

第二に、神はその民に、神は彼らが今置かれている困難にあっても働くことができるのだから希望を失ってはならないと告げます。「わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから」(エレ29:7)。

第三に、神はその民に、神は定められた時に彼らの捕囚を終わらせるのだから希望を失ってはならないと語ります。「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す」(エレ29:10)。

神は、彼らの過去、現在、未来に責任を負われることをこのように説明した後、神の民に対する優しい守りの御手を美しく描きます(エレ29:11~14)

                                                                 

木曜日:ヘブライ11章全体を通じて、パウロは信仰の勇者について描写しています。 あらゆる種類の試みに遭いながらも彼らを前進させたのは信仰でした。12章に入るとパウロは私たち読者に向き直って、私たち以前にもおびただしい人々が信じがたい逆境に耐えてきたのだから、私たちも信仰の生涯を走り切ることができるのだと言います。その鍵はイエスから目を離さないことであり(ヘブ12: 2)、彼は時代が変わっても私たちの模範です(同12:3)。12章は私たちにとって眼鏡のようなものです。この眼鏡なしには、私たちの視界も試練に対する理解も常にぼやけたものになります。しかしこの眼鏡を通して見ると、現代の文化によってゆがめられた苦難についての不明瞭な説明の焦点が合うのです。そ のとき私たちははっきりと理解でき、試練に対して賢く対処できるようになる のです。

                                                                 

今週の研究に「神が私たちに敵対しているのではなく、私たちがまだ神の全体像が見えていないだけ」と書かれています。水曜日の引用文はエレミヤ書29章から学びます。わたしが牧師になって駆け出しのころ、ある高齢の女性の信徒の方がエレミヤ29:11を心から信頼していました。彼女は健康がすぐれず、子どもさんもいなかったため将来に不安を抱いていると思われがちですが、彼女は神さまが最善をなさってくださると信頼されていました。

この預言は、ユダ王国が滅亡して、バビロンへ捕囚として移された民に向けて書かれています。彼らにとって、異教の地でこれからの展望が見えない時に、神さまから与えれた希望の約束なのです。彼らには見えていませんが、神さまは全体像が見えているからこそ、希望を語ることができるのです。わたしたちに与えられている預言も同じではないでしょうか。今は様々な苦しみと戦っていますが、最後に神さまが悪の力に勝利される約束です。

木曜日の引用文に「その鍵はイエスから目を離さないことであり」とあります。エレミヤ29章の預言の続きに「一に尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会う」と約束されています。どんなに苦しい時でも、神さまが導いてくださることを信じて求める時に、必ず導きを与えて、苦しみに光を与えてくださいます。