第1課 1日24時間、週7日社会に生きる 7月3日
暗唱聖句
「主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。」 詩編84:3(口語83:2)
今週の聖句
創世記2:1~3、エレミヤ45:1~5、出エジプト記20:11、
サムエル記下7:12、マルコ6:30~32、創世記4:1~17
今週の研究 私たちの生活は、ラッシュアワー、仕事、病院の予約、ネット上の会話、買い物、そして学校の役割などに支配されています。私たちは公共交通機関を使おうと、スクーターに乗ろうと、家族を乗せてミニバンで走り回ろうと、常に本当に大切なことを押し流してしまう、忙しさという時の流れに翻弄されています。こんなにもあくせくとせわしなく動き回る暮らしの中で、どうやって休みを見つけられるのでしょうか。
日曜日:人を創造された神は、私たちの体に休みが必要なことをご存じでした。休むために時間のサイクルを造られました。つまり体を休めるために、夜や安息日が与えられたのです。私たちの命の主としてのイエスを知ることは、休む時を持つ責任を誠実に果たすことにつながります。つまり、安息日は単なる勧めではなく、命令なのです。
水曜日:イエスは弟子たちの体と心の健康状態を心配されました。彼らは2人ずつイエスによって送り出された長い伝道旅行から戻ったばかりでした(マコ6:7)。マルコ6:30には、彼らが興奮して帰って来たことが記されています。彼らの心は満たされていたに違いありません。彼らは、勝利と失敗の体験をイエスと分かち合いたかったはずです。しかしイエスは、それを差し置いてもまず休むようにお命じになったのです。マルコは次のように付け加えています。「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである」(マコ6:31)。神の働きに忙しすぎることは、弟子たちにとっても全く初めての経験でした。イエスは私たちに、計画的に休む時を持つことによって、私たちの体と心の健康を守ることを思い出させてくださるのです。
金曜日:人々は、活動が増し、神のためのどんな働きにも成功するようになると、人間的な計画や方法にたよる危険がある。祈りが少なくなり、信仰がうすくなりがちである。弟子たちと同じように、われわれは、神によりたのむことを忘れて、自分の活動を救い主にしようとする危険がある。われわれは、たえずイエスをながめて、働きをなすのはキリストの力であることを認める必要がある。われわれは、失われた者の救いのために熱心に働く一方では、瞑想と祈りと神のみことばの研究に時間をとらねばならない。多くの祈りによってなしとげられ、キリストの功績によってきよめられた働きだけが、善に対して力のあるものであったことが最後にわかるであろう」(『希望への光』857ページ、『各時代の希望』中巻99、100ページ)。
今期はキリストにある休みについて学びます。わたしは牧師ですが、従業員300名弱の社会福祉法人の経営者でもあります。そこでご利用者やご家族が笑顔に過ごせるために、そして職員の生活を守るために日夜奮闘しています。施設の経営のためにいろいろなことを学びました。その中で労務についても、その入り口くらいまでは勉強させられています。現在は多くの企業は週休2日制で、年間休日は104日が最低限となり、あとはこれに祝日があり、また有給休暇は年間5日以上取得が義務となっています。そう考えると、年間の三分の一は働いていません。そして労働者は賃金や労働環境など、さまざまな法制度が整い、ほんとうに守られていると思います。
企業で減らすことができる経費は人件費です。もちろん人がいなければ仕事はできませんが、機械化やIT化が進んで、一人ができる仕事量が増えています。昔と同じ人員で機械化された現代の時代の仕事をするとしたら、とても楽だと思いますが、機械化によってその分の人は減らされています。
休める日が増えたから、休むことができるとは限りません。かつてよりも精神的には厳しくなっているのでしょう。だからこそ今期の学びであるキリストにある休みが必要となるのです。そこにはほんとうの休みがあるのです。そして神さまは人間の限界を認めて、休むように制度を設けられているのです。ほんとうの休みについて、今期は学んで行きましょう。