安息日学校部

20210108安河内アキラ解説

2021年第1期「イザヤ―わが民を慰めよ」

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第8  わが民を慰めよ 2月20日

 

暗唱聖句
「高い山に登れ/良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ/良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな/ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神」
イザヤ40:9
                                           

今週の聖句
イザヤ40:1、2、イザヤ40:3~8、イザヤ40:9~11、イザヤ40:12~31、イザヤ40:19、20

                                           

今週の研究
イザヤを通して神は、苦しむ者たちに慰めをお与えになりました。その苦難の時代は終わり、神は彼らのところに戻って来てくださるのでした。彼らは失望と困惑から解放され、彼らのためにいつでも創造の力を働かせる用意のある神に信頼することができるのでした。

                                           

日曜日:イザヤ39 章は、ヒゼキヤの子孫のある者たちがバビロンの捕囚となることを予告することによって、続く章へのつなぎとなっています(イザ39:6、7)。さらに、イザヤ13、14、21 章の託宣は、バビロンの陥落と、それがもたらす神の民の解放を予告しています。「まことに、主はヤコブを憐れみ/再びイスラエルを選び/彼らの土地に置いてくださる。……主が、あなたに負わせられた苦痛と悩みと厳しい労役から、あなたを解き放たれる日が来る」(同14:1~3)。この聖句とイザヤ40:1、2 にある、主の民の苦難が終わるという神の約束との密接な関係に注目してください。

                                           

水曜日:この章全体を通じて、神の憐れみと力が織り合わされ、一つに溶け合っていると言っても良いでしょう。それは、神がその民を救うためには、憐れみと力の両方が必要だからです。神は救いたいのです。それは、主が憐れみのお方だからです。神は救うことができます。それは、主が力のお方だからです。

                                           

木曜日:古代の文書によって、当時から偶像崇拝は魅力的なものであったことがわかります。それが物質主義と結びついていて、偶像崇拝者たちは、彼らに豊穣と繁栄をもたらすことができると信じて、その力を崇めていたのです。それはいわば、私たちにも馴染みのある、「御利益」宗教でした。
主が再びおいでになる直前に、エリヤの最終的な和解のメッセージ(マラ3:19~24〔口語訳4 章〕)である主の「道備え」をするために、わたしたちは創造主を礼拝するか、それとも何か他のものを礼拝するか(黙13、14 章)という、エリヤの時代と同じ選択に迫られるでしょう。終わりの時には、それが何であれ、私たちが常に拝むものがはっきりするのです。

                                           

今週は、イザヤ書40章を学びます。多くの教会では、ここから第二イザヤといって別の預言者が語ったと言われています。けれども日曜日の学びから引用しましたが、39章までの苦しみの預言から40章の神の民の解放の預言は続いていると書かれています。40章の預言は、神の民が捕囚から解放された後に書かれたのではなく、苦しみの預言で終わるのではなく、そのあとの希望について書かれた預言なのです。今期の聖書研究ガイドの副題は「わが民をなぐさめよ」です。イザヤの働きは、希望の見えない民に慰めとなる希望の預言を伝える働きだったのです。

暗唱聖句は40章9節です。「声をあげよ、恐れるな」とあります。新しいことを始めようとするときに、だれもが不安になります。けれども恐れずに声をあげるように勧められています。どんな声をあげたら良いのでしょうか。節の終わりにある「あなたがたの神を見よ!」と声をあげるように訴えられています。様々な声に下を向いて恐れてしまうかもしれません。だからこそ天を見上げてほしいのです。

そして40章の26節では、その神さまが天地を創造された方であり、必要なものを備えてくださる方であること。そして40章の最後は「主を待ち望むものは、新たなる力を得て、鷲のように翼をはってのぼることができる」という約束につながって行きます。恐れて羽が縮こまってしまっている方も、神さまを見上げる時に、前に向けて歩くことができます。信仰生活において自ら進むことを選ぶのはあなたです。けれども神さまの守りを信頼する時に、勇気をもって前進することができます。そのために神さまを見上げるように訴えられているのです。