安息日学校部

202101010安河内アキラ解説

2021年第1期「イザヤ―わが民を慰めよ」

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第10  「信じえないこと」を行う 3月6日

 

暗唱聖句
「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎とがのためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」 イザヤ53:5

                                           

今週の聖句
イザヤ50:4~10、イザヤ52:13~53:12、イザヤ53:3~9、イザヤ53:10~12

                                           

今週の研究
神の救世主の出生とその背景、そしてその生涯を語ることによって、イザヤは遂に、私たちに希望を与えるための至高の悲劇の幕を開けます。私たちを含めて失われた者たちに手を差し伸べ、救い、そしていやすために、神の僕は自ら、私たちの受けるべき苦しみと罰を負われたのでした。

                                           

月曜日:イザヤ52:13 ~ 53:1 は、極端な対比からなる予告の詩です。主の僕は栄え、高く上げられますが、その姿は人とは見えないほどに損なわれます。そのようなことをだれが信じることができるでしょうか。
イザヤ53:2、3 は、主の僕の出生とその平凡な容姿から、彼の悲しみと彼に対する拒絶へと続く、その痛ましいへりくだりの描写で始まります。4~6 節は、彼の苦しみは私たちが受けるべき罰であり、私たちをいやすためであったことを説明します。7~9 節は、罪なき僕が墓に葬られる場面へと続きます。
イザヤ53:10~12 では、52:13 から始まる詩の冒頭に予告されている通り、主の僕は報いとして高く上げられ、人々の救いのための彼の犠牲は神のみ心であったとの洞察が付け加えられます。
この詩をフィリピ2:5~11 のキリストの「V字回復」と比較してください。キリストは神の身分でありながら、自分を無にして、人間と同じになられました。彼はへりくだって、十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高め、すべての舌が「イエス・キリストは主である」と認めるのです(イザ49:7 と比較)。

                                           

水曜日:真理を理解しない人たちは、主の僕は「神の手にかかり、打たれた」(イザ53:4)と考えます。ヨブの友人たちが、ヨブの苦しみは彼の罪のためだと考えたように、またイエスの弟子たちが、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(ヨハ9:2)と主に尋ねたように、十字架上のイエスを見た人たちは最悪の罪を想定しました。モーセは「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」と言いました(申21:23、民25:4 と比較)。
しかし、これらすべては神のみ心だったのです(イザ53:10)。なぜでしょうか。キリストが「わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださ」ったからです(ガラ3:13)。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」( 2 コリ5:21)。
「私たちのために何という対価が支払われたことだろうか。十字架を見よ。そしてそこに上げられたお方を見よ。残忍な釘によって刺し貫かれたそのみ手を見よ。木に打ち付けられたそのみ足を見よ。キリストはわれわれの罪をその身に負われたが、その苦しみ、その痛みはあなたの贖いのためなのである」(『神の驚くべき恵み』172 ページ、英文)

                                           

木曜日:これで、イザヤ40:2 に、神がその捕囚の民を慰め、彼らの罪に対する十分な賠償が支払われたと述べている意味が理解できたはずです。
しかし、賠償に続いて犠牲を献げなければなりません。イザヤ53 章はこの犠牲が、小羊の代わりに神の僕が、屠ほふり場に引かれる小羊のように(イザ53:7)、道を誤った者たちのために( 6 節)犠牲となる姿に描かれています。
「命ある者の地から断たれ」(イザ53:8、ダニ9:26 と比較)、私たちのための希望の炎を燃え上がらせる犠牲の供え物となって完全に焼き尽くされながらも、主の僕は、栄光のうちに天に上げられるために、入れば再び戻れないはずの国である死から戻り、その「子孫」を見ることができ、その命をながくすることができるのです(イザ53:10~12、口語訳)。

                                           

イザヤ書の学びもあと数回となりました。39章まではユダ王国やイスラエル王国を含めて神さまに従わない国々への裁きが預言されています。そして40章からはキュロス王による解放と、キリストによる救いの預言が書かれています。そして今週はキリストの十字架についての預言です。今までの流れにおいて、神さまに従わない民を救うために、キリストが十字架に架かってくださるという預言を見ると、神さまの愛の深さがもって伝わってきます。そしてこの流れで、イザヤ書の最後は天国への預言とつながって行くのです。今期の学びは、部分的にイザヤ書の有名な預言を見るのではなく、このような流れの中で学ぶことによって、神さまの愛がより深く伝わってきますね。

「義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。 」(イザヤ51:1) 53章の前にあるみことばですが、わたしたちは神さまに救っていただくために切り出してもらいました。その切り出された場所を、もう一度見てごらんと語りかけています。わたしたちが救われるために、どれだけ大きな犠牲が払われて、そして救われる前のわたしたちの状況がいかに醜く悲惨であったかと思い起こすと、神さまがこんなわたしを救ってくださったことが、いかに大きな愛の働きであるのか再認識できるのではないでしょうか。