安息日学校部

20210109安河内アキラ解説

2021年第1期「イザヤ―わが民を慰めよ」

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第9  仕えること、救うこと 2月27日

 

暗唱聖句
「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。」

イザヤ42:1
                                           

今週の聖句
イザヤ41 章、イザヤ42:1~7、イザヤ44:26~45:6、イザヤ49:1~12

                                           

今週の研究
「救う」ためには「救う者」が必要です。神の僕であるイスラエルの民は、2人の「救う者」によって救われます。1人はバビロン捕囚から解放するキュロスであり、もう1人は、現在もその啓示は進行中である、「メシア」であると考えられる名前のない「僕」です。この僕は公正な裁きを回復し、生き残る者たちの集まりを神のもとに連れ戻します。

                                           

火曜日:イザヤの宣教期間は紀元前745 年頃から685 年頃まででした。イザヤは、東と北からの征服者について述べ(イザ41:2、3、25)、それがエルサレムの良い知らせとなることを暗示した後(同27 節)、正確に名指しでキュロスの登場を予告し、彼が何をするかについても記しています(同44:28、45:1)。確かにキュロスはバビロンの北と東からやって来て、紀元前539 年に征服しました。彼はユダヤ人をバビロン捕囚から解放するという行為を通して神に用いられました。そして、エルサレムの神殿再建を承認しました(エズ1 章と比較)。
この預言を頭に置いて考えてみましょう。イザヤの死から146 年後にバビロンは陥落したわけですから、1 世紀半も後のことを預言したことになります。
キュロスの行動は、バビロニアの年代記、彼自らが記録した「キュロスの円柱」、そして聖書(代下36:22、23、エズ1 章、ダニ5 章、6:28、10:1)を含むさまざまな古代の資料によって十分に立証されているので、イザヤの預言の正確さには議論の余地はありません。

                                           

水曜日:イザヤがキュロスの登場を正確に、名前で預言したという事実は、神によって将来を予告する預言者を信じない人々を当惑させます。彼らは「預言者」に対抗するために、キュロスの時代に生きていた「第二のイザヤ」がイザヤ40~ 66 章を書いたのだという説を認めます。こうしてイザヤ書は、伝統的に彼自身がたどったとされる運命(ヘブ11:37 参照)と同じように「二つに分断」されることになります。
しかしながら、「第二のイザヤ」が存在したという歴史的な証拠は何もありません。もしそのような人物が実在したのなら、聖書がそのことに言及していないことは理解できません。なぜなら、イザヤ書のこの部分〔40~66 章〕は非常に重要であり、その文学的技巧は驚くべきものだからです。最古の聖書写本とされる「クムランのイザヤ書簡」にも、39 章と40 章の間に、別々の著者によって書かれたことを暗示する切れ目は存在しません。
「どんな地上の権力でもなく、ただ真の神とメシアなる救い主に信頼しなさい」。これがイザヤ書に一貫して流れる基本的なメッセージです。学者たちが強調するように、イザヤ1~39 章はアッシリア時代に焦点を当てていますが、
40 章以降ではバビロニア時代に焦点が移っています。しかし、すでに学んだように、イザヤ13、14、39 章はバビロン捕囚をすでに予見しています。イザヤ1 ~ 39 章では裁きが、そして40 ~ 66 章では慰めが強調されているのは事実ですが、それ以前の章にも神の慰めと保証の記述はいくらでもあります。そしてイザヤ42:18~25、43:22~28、48:1~11 など、それ以降の章でも、背信のユダ王国に対する神の裁きについて記されています。事実、イザヤの「将来の」慰めの預言は、同時に苦しみも暗示しています。

                                           

木曜日:ここに初めて、この僕の働きには困難が伴うことが暗示されます。彼は嘆きを口にします。「わたしはいたずらに骨折り/うつろに、空しく、力を使い果たした」(イザ49:4)。この聖句はダニエル9:26 の「油注がれた者は/不当に断たれ……荒廃は避けられない」にも呼応します。しかし彼は信仰にすがります。「しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり/働きに報いてくださるのもわたしの神である」(イザ49:4)。
イザヤ49:7 は衝撃的です。この僕は「人に侮られ、国々に忌むべき者とされ/支配者らの僕とされ」ます。しかし主は彼に言われます。「王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。真実にいますイスラエルの聖なる神、主が/あなたを選ばれたのを見て」

                                           

今週は、先週に引き続いて、イザヤを通して語られた、国家への救いについて学びます。国家が大軍に襲われて存亡の危機にあった時に、神さまが介入されて不思議な力によって救われた例は聖書の中に多く記録されています。けれども今週前半の学びの中の中心人物であるキュロス王は、ユダ王国が滅亡してしまい、その国家が再興するために大きな働きをする王です。彼らはバビロンン帝国によってすべてを破壊されて、そしてユダ王国の主だった人々はバビロン帝国へ連れていかれました。自分たちの力では国を再興して独立することは不可能だったのです。これはモーセの時代の奴隷として苦しんでいたイスラエルの民と同じ状況だったともいえるのではないでしょうか。

神さまは預言者エレミヤを通して70年したら連れ戻すとも約束されています。(エレ25:11,12,29:10参照) これは彼らに価値があったのではありません。神さまからの、めぐみだったのです。わたしたちが信じる神さまは、天地を創造されたお方です。そうだとしたら、当時の人類で最強の国家であっても簡単に倒すことができるでしょう。そしてバビロン帝国を倒して、次のキュロス王に働きかけて、ユダヤへの帰還を果たされたのです。

後半は、わたしたちの救い主であるメシヤ預言です。同じように、わたしたちは自分たちの力や努力で天国へ入ることができません。そして救いはわたしたちの功績によるものではないことを、歳を重ねるとともに、それを突き付けられます。自分が力なく醜いもので、そして怠惰な人間で、その結果が今であることもわかります。こんな人間でも救っていただけるとしたら、そこには神さまのめぐみしかありません。

モーセもキュロスも、そしてキリストも、神さまの大きく深い愛によって、あなたにめぐみを与えてくださっていることを信じるために聖書に書かれているのです。