第1課 なぜあかしなのか 7月4日
暗唱聖句
「これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」 Ⅰテモテ2:3,4
今週の聖句
ヤコブ5:19、20、ルカ15:6、ゼファニヤ3:17、ヨハネ7:37、38、Ⅰテモテ2:3、4、Ⅱコリント5:14、15
今週の研究
あかしとは、すべてイエスに関するものです。あかしは、彼が私たちを救うためにどのようなことをなさり、私たちの人生をどう変えてくださったのかということです。また、彼の言葉のすばらしい真理に関するものであり、そのみ言葉は、彼の人柄と彼の品性の美しさを私たちに教えています。なぜあかしなのでしょうか。イエスとともにあかしをするとき、私たちは、人々が彼の恵みによって救われ、彼の愛によってつくり変えられるのを見るというイエスの喜びを共に味わえるからです。
火曜日:「勝利者になる者は、自分自身の殻から抜け出さねばならない。そして、この重要な作業を成し遂げる唯一の方法は、他者の救いに強い関心を持つことなのである」(『キリスト教育の基礎』207 ページ、英文)。キリストが私たちの人生の中でしてくださったことを人々に伝えるとき、私たちは成長します。キリストによって与えられてきたものを考えるとき、私たちがそれらをほかの人に伝えることを妨げるのは、最も卑しい利己心以外にありません。一方で、もし私たちが自分の信仰を伝えないなら、私たちの霊的な生活は死海のようによどんでしまうでしょう。
水曜日:神は人を救うことに情熱を傾けておられます。神にとって、これ以上に大切なことはありません。「すべての人々が救われて真理を知るようになること」(Ⅰテモ2:4)が、神の心からの願いなのです。神は、「ひとりでも滅びることを望まず、〔しかし(英訳聖書に基づく)〕すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(Ⅱペト3:9、新改訳)。『SDA聖書注解』はこの聖句について、次のような注釈を記しています―「望む」に相当するギリシア語は「ブーロマイ」で、「『望む』とか『願う』といった心の傾向」をあらわしている。続いてこの注解書は、「しかし」というささいな言葉に関して、鋭い見解を述べています―「しかし」に相当するギリシア語は「アッラ」であるが、ここでこの言葉が用いられているのは、「神のご性質に対する誤解、つまり神はだれかが滅びることを望んでおられるのかもしれないという考えと、神はすべての人が救われることを願っておられるという真実との違いを強調するため」(『SDA聖書注解』第7 巻615 ページ、英文)なのである、と。キリストは私たち1人ひとりに、主の愛、恵み、真理のあかし人として宣教に参加するよう命じておられますが、その命令は、すべての人に救われてほしいという主の望みから出たものなのです。
木曜日:私たちは今週、「なぜ、あかしなのか」という問いに答えることに焦点を合わせてきました。そして、私たちが自分の信仰を伝えるとき、この世に対する使命を神と協力して果たせる喜びを得られることを知りました。私たちが神の愛についてあかしすることで、救いの機会をより多く人々に与えることになります。なぜなら、彼らは神の恵みと真実をよりはっきり理解できるからです。同時に、あかしをすることは、私たちを霊的に成長させる神の手段の一つです。キリストが私たちのためにしてくださったことを伝えず、人々に奉仕をしないと、純粋な霊的命が窒息してしまいます。
あかしをすることで、全人類が救われることを望んでおられる方の心と触れ合えます。あかしをすることは、神の命令に従うという応答です。きょうの研究では、あかしをする最大の動機について学びます。
今期は福音を伝えることについて学びます。神さまは福音を、「人を通して」伝えるようにされました。それは神さまから見れば、不完全な、決して美しい器に盛られたものではありません。けれどもその中にある福音はすばらしいものです。(コリント第二4章7節参照) 神さまは、奇跡などの不思議なできごとを通して自らを示すのではなく、神さまを信じる人間を通して神さまの愛を伝えるようになさいました。それはみことばを受け取った人が、自らの意思で神さまに従うことを選ぶためでした。
今期の総題は「神のためにたくさんの友人をつくる」です。見ず知らずの人から、○○はとても良いと言われても、あなたは信じますか? けれども親しい友人から勧められたら、それを使ってみようと考えるのではないでしょうか。逆の場合もありますが。あなたを通して伝えることが最も効果的な人が必ずいるはずです。今期の学びは、みなさんが街頭にたって伝道をしたり、個毎訪問をするように教えているのではありません。あなたとつながりのある方といっしょに天国へ行きたい、この願いを実現するための学びなのです。わたしたちが心から望む時に、神さまは必ずチャンスを与えてくださいます。