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第1課 完全な宇宙における反逆 伊藤裕史
はじめに
今期私たちは「永遠の命」について学びます。神が創造された世界に罪と死が入ることで、この世界のいろいろなところで悲しみが広がっています。でもその悲しみは私たちが「死」の本当の姿を知らないために不安になったり、自分でまちがった希望を作り上げているからです。今期はこの「死」に向き合うことで、聖書の中に示されている神の姿と与えられる希望「永遠の命」を学んでいきましょう。
1.安息日午後
最初に「死」をつくった「悪」のはじまりについて学んでいきます。この悪のはじまりについていろいろなことが言われていますが、聖書は人が悪と関係を持ったのは神が世界を創造された時、つまりアダムとエバの堕落の時だといっています。そうであるならば、この堕落の前に悪は存在していたことになります。それはいつなのでしょうか。
2.日曜日:愛の表現としての創造
神がつくられた世界は「良かった」(創世記1章)のです。しかし私たちのまわりを見てみると「良い」ものと「悪い」ものがあるのを見ることができます。どうして「良い」ものに「悪い」ものが入ることになったのでしょうか。イエスはたとえの中で「敵の仕業だ」(マタイ13:28)と言われました。そうです。神がつくられたこの世界に敵が「悪い」ものとして「罪」を入れてきたのです。
だから本当ならば世界は「良い」神の性質をうつすものであったはずです。神の性質の中でもっとも「良い」ものは「神は愛である」(1ヨハネ4:8、16)です。これは愛する相手がいてはじめてわかるものであり、ずっと変わらないすばらしいものです。その愛する相手として私たちはつくられたのです。私たちが神のつくられたものであるならば、神やお互いの中で、「良い」ものとしてこの愛を見せていきましょう。
3.月曜日:愛の基礎としての自由意志
「神は愛である」ことから、神は愛され、愛することのできるものをおつくりになりました。愛することはロボットが命じられてするようなものではありません。愛を実現させるためには、自由にえらぶことのできる中で愛することをえらぶことが大切なのです。
皆さんはキャッチボールをしたことがありますか。それと同じです。皆さんは神から愛というボールを受け取っているのです。それでは受け取ったボールを誰に投げるのでしょうか。あなたは投げないこともできますし、すてることもできるでしょう。でも神に投げることも、愛する人に投げることも、自分に悪いことをする人にも投げることもできるのです。大切なのは自分の思いで誰かに投げることができるということなのです。そこに本当の喜びがあるからです。この自分の思いで投げることを大切にするために、神はそのボールが自分に返ってこないこともおゆるしになりました。そしてそこから生まれてくるすべての結果を受けとめることを決めたのです。
神の思いとは違ってそれは罪を生むことになりました。しかし神は決して罪をゆるしたのではありません。神は罪の結果生まれてくる苦しみをすべて受けとめることも決めておられたのです。
4.火曜日:神秘的な忘恩
エゼキエル書28章には、神から受け取ったボールを投げ返さなかったルシファーのことが書かれています。天ではだれもが神とキャッチボールをして愛を大きくしていました。ルシファーも最初はそうでした。しかしルシファーは神にばかりボールが投げられていることに不満を感じていたのです。そして神にボールを投げ返すことを忘れ、他の人から自分にボールを集めることだけを考え始めたのです。
完全な存在としてつくられたルシファーがどうしてそんなふうになってしまったのでしょうか。そのすべてを説明することはできません。しかしルシファーが愛するために大切であった自由にえらぶ力を間違って使ってしまったことは確かなようです。
5.水曜日:高慢の対価
火曜日にみてきたようにサタンとなったルシファーが自分にボールを集めようとしたことで、聖書の中には2つのグループが生まれました。
① 一つは、神からいただいたボールを神に返し、他の人に投げて広げていこうとするグループです。
② もう一つは、サタンを中心に神にボールを返すことをやめ、自分たちにボールを集め、それだけでなく神から人々をひきはなそうとする、神中心でなく自己中心の考えに支配されたグループです。
私たちは罪人として生まれ、②のサタンのグループにいました。でも神からボールが投げられていることを知って、②のサタンのグループから出て神といっしょにいること、そして①の神から投げられた愛というボールを愛する人に投げることを広げることを選んだのです。
聖書は②のサタンのグループのつくる世界が長続きしないことを教えています。ダニエル書の大きな金の像でしめされたバビロン、そしてそこから続く歴史を見てください。どんなにすばらしく見えても長続きせず、最後には神によって滅ぼされてしまうのです。それは歴史の中のできごとではありません。これから起こる世界の大きな流れなのです。
6.木曜日:不信の拡大
水曜日の2つのグループは、ちょっと考え方がちがうということで終わりませんでした。黙示録では2つのグループが天で大きな戦いをしたといっています。神に反対する勢力はルシファーと天の御使いの3分の1もの大きなものでした。天全体をまきこんだ戦いが、神のつくられたこの地上にまでひろがったのです。しかし十字架で示された神の愛、キリストの姿がこの戦いで神の勝利を決定的なものにしました。それでもまだ戦いは終わっていません。私たちのいる終わりの時代においても続いているのです。今私たちのまわりで起こっているのは、勝つことのできなかったサタンとサタンにしたがった天使たちが、私たちを神からひきはなそうと起こしていることなのです。
7.金曜日:さらなる研究
神はなぜこの罪のはじまりについて私たちに知らせようとされたのでしょうか。もし意味のないこと、何も解決できないものであれば知らせようとはされなかったでしょう。私たちにとって知ることが、罪や死を解決するために必要なものであり、十字架の本当の意味を理解するために必要だからなのです。言いかえれば神が解決する方法をもっているからであり、私たちがあきらめなくいていいからであり、その先に希望があるからです。分からないことからくるおそれを取り去り、しっかり理解することで希望をいただきましょう。
学びを振り返る質問:
1 神から投げられた愛というボールをあなたはどうしたいですか。手元に置いておきますか。だれかに投げますか。投げるならだれに投げますか。
2 負けが決まったサタンが私たちを誘惑するのはなぜでしょうか。