2022年第3期「試練を共にされるキリスト」
第2課 来るべき試練 仲泊大輔
- 今週のポイント
- 試練や苦しみに遭う時、私たちは驚きます。しかし聖書は、キリストに従う人たちが試練や苦しみに遭うことを否定していません。むしろ、そういうことが起こると言います。そのことを覚える時、私たちは来るべき試練に備えることができます。
- 苦しみに遭う理由の一つはサタンが私たちを狙っているからです。しかしキリストの十字架の勝利のゆえに、たとえサタンからの誘惑や攻撃が来ようとも、私たちは耐え忍ぶことができます。
- なぜ、私たちに罰が下るのかを考えます。それは罪の結果です。遅かれ早かれ、罪は私たちにとって本当に大事なものを破壊していきます。罰が下るのは神様が厳しく、私たちを罰したいと思っているからではありません。神様が悔い改めに招いてくださっているのに、罪を続けるのであれば、その結果を自分で刈り取ることになります。
- 私たちは変化を嫌います。しかし、時としてそのような変化が私たちのうちに起こることを神様は望んでおられます。その時、私たちは苦しみや痛みを経験します。
- 試練の中にいる人を見る時、周囲の人はその人をかわいそうに思います。しかし、神様は切り倒すためにではなく、剪定のために私たちに試練を与えます。それは私たちが決して滅びることがないためです。何も手入れされず、ゆるやかに滅んでいくのと、手入れされることによって自分が整えられるのであれば、どちらを望みますか?
- 用語解説
木曜日のパウロの「とげ」:パウロの目に関する不調のこと。ガラテヤ4:14,15で信徒たちがパウロに自分の目をえぐりだしてでも与えたいと願ったという記述から、おそらくパウロは視力が弱かっただろうと考えられています。
- ディスカッションのためのテーマ
- 平穏な日常と試練の時、どちらがキリストをより近く感じますか? 最近のご自身の経験をシェアしてください。
- 試練がいつ来ても大丈夫なように、私たちはどんな備えができますか? みなさんが行っている備えをシェアしてください。
- 試練に備えることと、キリストの再臨に備えることはどんな関係がありますか?