安息日学校部

第11課 聴覚しょうがい者用 鈴木優人

2022年第1期「終わりの時代に生きる」

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第11課 信仰の創始者また完成者であるイエス 鈴木優人

 

1.安息日午後

ヘブライ11章、12章のテーマは信仰です。著者はクリスチャン人生をレースに例えています。過去の信仰者たちはリレーのように信仰のバトンを次の世代へと渡して来ました。このレースはまだ終わっていません。今その信仰のバトンはわたしたちの手にあります。そしてわたしたちがこのレースの最終走者なのです。ゴールにはイエスさまが待っています。

イエスさまは信仰の創始者また完成者と言われています。イエスさまがわたしたちに、どのように信仰のレースを走り抜けたら良いのか(どのような信仰生活を送ったら良いのか)を教えて下さいました。それだけでなく、わたしたちが走り切ることができるように励まし、応援してくださっています。ゴールの先にはすべての信仰者のための報いが用意されているのです。

わたしたちを含め、過去の信仰者たちもまだこの報いを受けていませんが、神さまの約束に確信をもつことが信仰であると聖書は教えています。今週の学びは過去の信仰者たちの模範とその中心にあるイエスさまの模範を学びます。

 

2.日曜日:信仰によって生きる義

ヘブライ10:35〜39を読んでみましょう。ここには、神さまが約束しておられる報いを得るためには忍耐が必要だと書かれています。忍耐は終わりの時代の神の民の特徴ですから、わたしたちは忍耐するために信仰をしっかりと保つ必要があります。

旧約聖書の時代には、忍耐ができず、信仰が不足したために神さまから約束のものを受け取ることができなかった人たちがたくさんいました。約束を得るには、神の時があるということを知り、その約束が成就する時を待つ必要があります。そのために、信仰を働かせなければなりません。パウロはハバクク書を引用していますが、このハバククの預言はイエスさまの到来のことを表していました。ハバククの時代の人たちは忍耐して待つ必要がありましたが、ついにイエスさまは救い主として来られ、十字架でわたしたちを贖ってくださいました。イエスさま自ら、わたしたちに命を与える者として信仰を体現してくださったのです。そのときと同じように、今わたしたちはイエスさまが定められた時にもう一度戻ってこられる時を待っているのです。

神さまはわたしたちに救い主を与えてくださるという約束を、まず忠実に果たされました。ですから、わたしたちも応答として忠実に信仰を保つことができるのです。

 

3.月曜日:信仰によってアブラハムは

信仰とは「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」だと聖書にあります(ヘブ11:1)。

アブラハムは「信仰の父」と呼ばれています。アブラハムの生き方から、わたしたちは信仰の本質についで学ぶことができると思います。

アブラハムは神さまから、子孫を星の数ほどに増やすと約束されていたにもかかわらず、年老いても子供ができませんでした。しかし、それでもアブラハムは神さまを信じたのです。息子イサクが生まれたのは、アブラハムが100歳のときでした。神さまはイサクを通してさらに子孫を増やすと約束していましたが、今度はそのイサクを焼き尽くすいけにえとして捧げなさいとアブラハムに命じられました。アブラハムは神さまがイサクを通して子孫を増やす約束を必ず果たすためにイサクを生き返らせてくださると信じていたので、神さまの命令に従う決心をしたのでした。その結果、死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる方であると神さまを信じたアブラハムの信仰を評価した神さまによってイサクはいけにえにはされず、約束の通り多くの子孫を残す者となりました。

 

4.火曜日:見えないものを信じたモーセ

モーセはイスラエル人の赤ん坊を皆殺しにするエジプト王の命令から逃れ、王女の養子となりました。モーセの母親が王の娘であったことで、モーセは次のエジプト王の候補者のひとりでもありました。しかし、大国の王になることよりも、新しく解放された奴隷の民、難民であったイスラエル人の指導者となることを選んだのでした。

エジプトの王になれば、豊かな暮らしが待っていたはずです。しかし、モーセはエジプトで与えられる豊かな暮らしではなく、神さまによって「与えられる報い」(ヘブ10:35参照)の見えない約束を見ました。

「ヘブライ人への手紙」を最初に読んだクリスチャンたちはその信仰のせいで迫害を受けていましたが、この「与えられる報い」がわたしたちすべてに与えられるという言葉によって勇気づけられたことでしょう。

キリストによって与えられる報いは、エジプトが与えるどんな富よりも大きいということをモーセは確信していました。

 

5.水曜日:信仰によってラハブとその他の者たちは

11章の信仰者のリストの中に女性の名前は2人しかいません。その一人がラハブです。しかも彼女は異邦人の遊女(娼婦)でした。本来であれば、この信仰者のリストはモーセの次の後継者ヨシュアの名前があるほうが自然だと思われますが、ヨシュアではなく、ヨシュアたちを助けたラハブの名前がここにあることは驚きです。

ラハブは、エジプトから脱出してきたイスラエル人たちが見てきたたくさんの奇跡(紅海が分かれる、岩から水が出る、天からマナが降る、など)を見たことがありませんでした。それにもかかわらず、ラハブはそれらの出来事や神さまの導きを信じたのでした。これは、イエスさまの説教を直接聞いたり、イエスさまの奇跡を直接見たことがないクリスチャンの信仰と同じです。

ヘブライ人への手紙は、信仰者たちが経験した困難のリストを続けます(ヘブ11:35〜38)。

どのような困難を経験しても、信仰者たちはまだ見えない神さまの報いに目を向け続けていたので、忍耐することができました。

 

6.木曜日:信仰の創始者また完成者であるイエス / 金曜日:さらなる研究

イエスさまは3つの意味で信仰の基礎(創始者)です。

①イエスさまだけが信仰のレースを完走しました。リストにあった過去の信仰者たちはまだゴールにたどり着いていません。先にゴールしているイエスさまがわたしたちのことを待っています。

②イエスさまがいたからこそ、わたしたちや過去の信仰者たちは信仰のレースを走ることができました。イエスさまがご自身の生き方を通してわたしたちがどうやって信仰に生きるかを教えてくださったからです。

③イエスさまは神とともにおられる方として、わたしたちに神さまの忠実さを示してくださいました。神さまがわたしたちを愛し、救おうとされるためにまず努力をしてくださったのです。わたしたちが不信仰なときでさえ、イエスさまは忍耐をもっておられました。ですから、わたしたちが忠実に生きるのはイエスさまへの感謝の思いがあるから可能となるのです。

さらに、イエスさまは信仰の「完成者」です。イエスさまはこの信仰のレースを完全に走り抜くために、そしてわたしたちを救うためにすべてを捨てられました。それはイエスさまご自身が神の恵みによって人類が贖われることを報いとして待ち望んでいたからです。だから、イエスさまは十字架に耐えたのでした。

さて、今はわたしたちが信仰のバトンを持って走るときです。自分の力や努力に頼ってもこのレースを走り抜くことはできませんが、イエスにある信仰によって、イエスさまを見つめながら、神さまの約束を信じて、報いを受けるために走り抜きましょう。

 

話し合いのための質問

☆「信じている」と「理解している」は何が違うのでしょうか。

☆どのようにすればわたしたちは忠実さによって信仰を示すことができるでしょうか。