マーク・フィンレイ著
序言
老練な伝道者J・L・シューラー牧師は、ヘンリー・フォードが英国で休暇をとっていたとき、同じように英国で休暇をとっていたオーストリアのフランシス・ジョーゼフ2世王の自動車をどのようにして修理したかという物語をよく話していました。ある日のこと、英国の田舎を歩いていたヘンリーは、彼の工場で作った自動車が故障したまま、道端に止まっているのを見ました。孤立無援の車のまわりを乗客が取り巻いていました。ヘンリーは立ち止まって、「手伝いましょうか」と声をかけました。「ええ、お願いします」と高貴な顔立ちの紳士が答えましたが、ヘンリーはその紳士がフランシス・ジョーゼフであることがわかりました。しかし王の方は、車のボンネットを開けて中をのぞいている男が、その車を作り、隅から隅までよく知っているヘンリーだとは気がつきませんでした。
「クランクをまわしてください」とヘンリーは王の隋行員にいいました。しばらくの間エンジンがガタン、ガタンと音をたてるのを聞いてから、ヘンリーはハンマーを持って熟練した手つきでエンジンをコツンコツンと叩きました。王が驚いたことに、自動車は今工場から出て来たばかりのように、軽快な音を立てて回転を始めました。王はうれしく思い、
「おいくらでしょうか」とたずねました。
フォードは「100銀シリングでございます」と答えました。
「えっ、100銀シリングですか、2分間しか、かかっていないのに」とフランシス・ジョーゼフは信じられないという顔でいいました。
「いいえ、2分間の作業のために2銀シリングで、あとの98銀シリンクはどこを叩けばいいかという知識に対するものです」とフォードはいいました。
シューラーは、どこを叩けばよいかを知っていること、つまり、いつ、どのようにしてキリストのために決心させればよいかを知っていることは、救霊に成功するための鍵であると強調しています。この本は「決心」(決心の科学)について書いてあります。牧師、聖書教師、信徒、また伝道者でさえ、決心の動機に関する基本的な原理を理解しないで、決心をうながすことがしばしばあります。魂を得ようとする者は、人間の心を理解し、彼らがどのように考え、どのように行動するかを知り、どこを叩けばよいかを是非理解する必要があります。
私は決心に関する本を何冊か読みましたが、いずれも小手先のごまかしのように思われました。しかしこの本は違います。これは聖霊との協力と、イエス・キリストとの協力を強調しています。神はご自身の被造物を決心へ導きたいと望んでおられます。私たちは神の働きを妨害することも、手助けすることもできます。
「使命を伝えるだけでは不十分です。また人々に教理が正しいと確信させたとしてもまだ不十分です。わたしたちが伝えている使命の本来の目的は、人々をキリストに従うように導くことです。わたしたちに与えられたキリストの任命は、ただ単に人々に警告するだけでなく、すべての人々をキリストの弟子にし、クリスチャンにすることです。これがわたしたちの唯一の目的であるはずです。ただ警告するだけでなく、人々を救い、ただ納得させるだけでなく、回心させ、キリストがおいでになるという使命を伝えるだけでなく、人々にキリストを迎える準備をさせなければなりません。…… (決心に導くという)この点が弱いため、強いはずの働きが、みじめなほど弱いのです。公衆伝道が失敗しているのは、他のすべての原因を合わせたよりも、この点が原因になっている場合の方が多いのです」 (J・L・シューラー著『公衆伝道』180ページ)。
本書は失敗せず、成功するために提供されています。どこを叩いたらよいかを知ることが鍵です。
第1章 決心のABC
イエスがわたしたちを、人類のためのご自身の働きに召されたとき、主と共にどのように働けばいいかを教えると約束しておられます。「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」(マタイ4:19)。魚をとる漁師も人間をとる漁師も生れつきのものでなく、つくられるものです。それは主の働きを観察することから始まります。
魂のための働きで、イエスは語られたことばと同じようにご自分の生き方そのものを大切なものとみなされました。決心はキリストが語られた事実によってなされるばかりでなく、キリストという方がどういう方であったかによってなされるのです。イエスは真理によると同じように、相手との関係によって人々の心を獲得されます。説得はロゴス(知識)と真理をのべている人に対するエトス(確信)から成り立っています。
しかし、感情は積極的になったり、消極的になったりします。消極的な感情は消極的決心へ導きやすいのです。だから、使命と使命者ばかりでなく、使命を伝える方法が積極的決心の大切な要素になっているのです。どのように真理を語るかが結果に影響をもたらすのです。いつ真理を語るかも同じように影響があります。メシアに関する一節がそのことを次のようにのべています。
「主なる神は教をうけた者の舌をわたしに与えて、疲れた者を言葉をもって(何をいうべきか)助けることを知らせ(方法)、また朝ごとに(いついうべきか)さまし、わたしの耳をさまして、教をうけた者のように聞かせられる。主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは、そむくことをせず、退くことをしなかった(イエスはどういう人物か)」(イザヤ50:4-5)
朝ごとに、み父はみ子の祈りに答えて、積極的決心をさせるために「必要な知恵」をあらわされます。だから私たちは何をいうべきか、いかにいうべきか、いついうべきかを学ぶことができます。
しかしある人はそのことを学んでいません。
ある回心したばかりの人は「先生の獣の像のお話はとても感銘を受けましたので、録音テープをカトリックの友人に貸してあげました」と私にいいました。
この場合使命の内容が適当でないし、タイミングも悪いし、方法も間違っています。確かに失敗です。
パウロは「愛にあって真理を語り(なさい)」とすすめています(エペソ4:15)。美しい真理を献身的な人間が伝えるのが神の方法です。決心は人間と人間の間の関心に根ざしています。使命を伝える人に対して確信を持てば、持つほど、より深い相互の関係ができ、積極的決心をしやすくなります。イエスに従い、彼の方法を観察し、決心のABCを用いましょう。
A 受け入れること
イエスが人々を彼らのいる場所で受け入れられたということはすぐにはっきりわかることです。主は人々を見出された時の状態のまま、彼らに奉仕なさいました。人々と信頼関係ができるまでは変更の働きはなさいませんでした。サマリヤの井戸で女と会われた時の主もそうでした。普通ユタヤの国の人はサマリヤの人に話しかけることさえしないのに、主はサマリヤの女に1つの依頼をすることにより彼女の信頼を得ました。ベテスダの池では、主は決心を求める前にその人の肉体の必要を満たされました。真理を求めているパリサイ人のプライバシーを守るため、主はニコデモと夜個人的に会うことに同意なさいました。もしその接触を非難するならは、あなたは受け入れることに含まれている同意と承認から遠ざかってしまうことでしょう。
(1) 同意
決心を求める場合、最初はたとえ小さいことでも同意を求めることから始まります。小さい点における同意は大きな同意のために道を開きます。「私はあなたの意見に反対です」といいながら決心を求めることは、お互いの「よい」関係ができる前に、その関係を砕くことになります。
ある賢い小柄な女性がこのことを次のように説明しています。
「人々と同意できる点ではいつも同意しなさい。あなたが彼らの魂を愛していることと、できる限りその人と調和することを望んでいることを示しなさい。もしあなたのあらゆる努力のうちにキリストの愛が認められるならば、あなたは人々の心に真理の種をまくことができるでしょう。神はその種に水をそそがれ、やがてその真理は芽を出し、神の栄光のために実をみのらせるでしょう」(E・G・ホワイト『伝道』141ページ)。
(2) 承認
マリヤが価高い香油をイエスの足に塗るのを見て、「浪費」であると人々がマリヤを非難したとき、イエスは彼女の親切を賞賛なさいました。彼女の行為は、主が彼女にいわれたように、愛と親切の象徴として幾世紀にもわたって人々に覚えられました。イエスは百卒長に「イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない」(マタイ8:10)と賛辞をおくられました。またカナンの女性には、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである」と感嘆して言われました。くり返しイエスは可能な場合は同意し、また承認し、賞賛し、感謝して相手を受け入れていることを示されました。
イエスはまた彼に対して隠しだてをしている人にも承認をあらわす道を見出されました。主に質問をした律法学者に対して、「イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、『あなたは神の国から遠くない』」(マルコ21:34)。イエスは長所に目をとめておられます。彼は承認していることを示されます。他人に関することで消極的態度をとることによって拒絶されることのないようにしましょう。あなたが人々を承認するまでは彼らはあなたを承認しないでしょう。ショックを受けたことをあらわさず、本当に受け入れていることを示しましょう。できる限りあらゆる点で相手に同意しましょう。何か賞賛できるものを探しましょう。小さい信頼と、小さい賛辞をもって一致を築きましょう。受け入れていることは同意と承認によって示されることを覚えてください。
他の人を受け入れていることを示すために、彼らに彼ら自身のこと、彼らの家庭、彼らが住んでいる町、彼らの働き、彼らの背景、彼らの趣味、彼らのスポーツについて話してもらいなさい。彼らから学ぶために、本当に心を開いて聞きなさい。彼らも心を開いてあなたから聞くようになるでしょう。あなたの計画の完成はいつも、2番目のこと、付随的なことにしなさい。賢者はこのことを次のようにいいました。「自分の口をもって自らをほめることなく、他人にほめさせよ。自分のくちびるをもってせず、ほかの人にあなたをほめさせよ」 (箴言27:2)
よい聞き手になりなさい。ジョン・F・ケネディの伝記作者ピエリー・サリンジャーは、ケネディが、かつて米国の大統領だった時、彼が人々と面会する様子を次のように書いています。ケネディは人と会っている15分なり、30分なりの間、彼の机のうしろにある椅子にかけ、相手の話に完全に没頭する能力をもっていました。サリンジャーによれば、ケネディは要点を深く突いた質問をし、あたかも相手の必要を自分の必要のように受けとめて、無駄なことはいわないで、まさしく相手の関心のある点をたずねたということです。ジョン・F・ケネディがあれほど多くの人に愛されたのは決して不思議なことではありません。
イエスは人々を彼らがいたその場所で受け入れられました。そこで彼らとの間に友情のきずなを作り、後にそれが橋になって、真理がその橋を行進して彼らの心に入って行きました。
B 信じること
決心のABCの第2の鍵となる原則です。人間はだれでも、嫌いな人の説得は受けません。自分を受け入れていないと感じている相手は好きになれません。相手の人が真面目に真理を求め、キリストに従いたいと望んでいることを信じましょう。その人が正直な人であり、正しい決心をしたいと望んでいることを信じましょう。もしあなたが、相手の男女が、頑固で、反応が鈍く、とっつきが悪いと思っていれば、その思いは相手の決心に反映されます。
最近、320の教会にいる8,300人のセブンスデー・アドベンチスト信者を対象にアンドリュース大学が行なった調査によれば、キリストと彼の使命のための決心に関する調査で大きく浮かびあがってきた要素は、男女を説得できると信じている教会や個人が急速に増えているという事実でした。調査は次のようにのべています。
「ある人は、それを預言自己成就症候群と呼んでいます。しかし簡単にいえば、教会が成長できるという牧師の信仰と、実際に教会が成長する度合いとの間に強力な相関関係があるということです。これらの牧師が、教会員も含めて、教会成長率を高く見積るとき、教会員数の急上昇を経験しています」(「主要な教会成長研究」『教会成長研究所ニュース』、1981年2月号)
この信頼の原則はイエスによって例証されています。イエスが人々をごらんになるとき、現在どういう状態であるかでなく、将来どのようになれるかをごらんになります。主が井戸のそばで一人の女性をごらんになったとき、社会の底辺からも見捨てられた人としてでなく、傷つけられ、打たれた女性をごらんになり、愛をもって彼女に近づかれました。主はペテロを荒々しい無遠慮な漁師としてでなく、力強い説教者としてごらんになりました。またアリマタヤのヨセフを世間なれした金持ちの実業家としてでなく、高価な真珠を必要としている人としてごらんになりました。また百卒長を頑固な軍人としてでなく、自分のしもべを愛する主人として、ニコデモを宗教的偏屈に満された反対勢力の指導者としてでなく、新しい心を本当に必要としている人としてごらんになりました。人々の最高の姿を主はごらんになりました。主は彼らを信頼し、ご自身に従う決心をするに違いないと確信をもって期待しておられました。
C 確信
人々を主に導くとき、私たちが確信をもって行動し、失敗したり失望したりすることなどあり得ないかのようにふるまうことは絶対に必要なことです。相手の人が決心することを期待しましょう。人々はしばしば私たちが期待している通りに行動します。あなたがだれかにほほえみかければ、その人もあなたにほほえみ返すでしょう。友情は友情を生み、信頼は信頼を生み、確信は確信を生みます。キリストは人々を信頼し、彼らに確信をもち、彼らが積極的応答をすることを期待しました。主は彼らの中の最高のものを引出されました。そうして主の期待された姿へと成長したのです。
使徒行伝には歴史上最大の爆発的教会成長が記録されています。使徒行伝2章には五旬節の日に3,000人の人がバプテスマを受けたと書いてあります。使徒行伝4章では、その後間もなく、教会は5,000人にふくれあがっています。もし、女性と子供も数えるならば、少なくとも7,000人から10,000人の信徒がいたに違いありません。その先を読むと、「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方にわたって……次第に信徒の数を増して行った」(使徒行伝9:31)と書いてあります。また「兄弟よ、ご承知のように、ユダ人の中で信者になった者が、数万にものぼっている」(使徒行伝21:20)と書いてあります。驚異的な成長です。なぜでしょうか。
ここに彼らの成功の秘密のひとつがあります。「そこで、あなたがたは知っておくがよい。神のこの救いの言葉は、異邦人に送られたのだ。彼らは、これに聞きしたがうであろう。 ははからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた」(使徒行伝28:28、31)。初代教会はイエスがされたように確信をもって教えました。それは聖霊が人々をとこに派遣されても、自らもそこに臨在されて、相手の心に働いてくださるという確信であり、人々が必ず聞いて正しい決心をするという確信であります。
以上まとめると、救霊に成功するには、相手に同意し、承認を表現して相手を受け入れること、彼らが真面目であり純粋であることを信じること、相手が正しい決心をすることを期待し確信することが大切であることがわかります。この決心をA(Accept=受け入れること)B(Believe=信じること)C(Confidence=確信すること)を実行して、神があなたを通してなされる働きを見守りましょう。
第2章 生命を与えるみことばの力
ジョージ・ホイットフィールドはあるとき、裕福な友人夫妻の家で楽しい夕方のひとときを過ごしました。そのあと自分の部屋に入った彼は、友人がまだキリストを受け入れていないので深く当惑していました。豪華な家具に囲まれた部屋の真中で彼はひざまずき、この豊かな夫妻にどのようにしたらその心に届くことができるか教えてくださいと、神に助けを求めました。
翌朝、夫人のダイヤモンドかホイットフィールドのベッドのそばの小さい台の上にあるのに気がつきました。それを取り上げて、窓ガラスに「あなたに足りないことが1つある」と書きつけました。しかしそのことをひとこともいわず、おもてなしに対するお礼だけを言ってその家を出ました。
彼女が後片付けのため客間に入ったとき、陽光が窓ガラス越しに射し込んでいて、そこに刻まれた文字を浮きあがらせていました。彼女はそれが聖句であることは知っていましたが、聖書のどこに書いてあるのか、またどういう意味なのかはわかりませんでした。彼女は最初怒りました。主人を呼んで「ホイットフィールドが窓ガラスに『あなたに足りないことが1つあると書いたのですよ。一体私たちの足りないことというのは何でしょう。足りないものなどありません。もし何か足りなければ買いましょう。彼は何のことをいっているのでしょうか」と言いました。
その夜、金持ちの夫妻は、一緒に聖書を開いて例のことばを探していました。ようやくそのことばを見付けました。キリストと若い金持ちの役人の例話の中にありました。この物語の意味を深く考えたふたりは、そのことばの意味がわかりました。何でも持っていましたが、すべてであられる1人のかたがおられませんでした。高価な家具の横で、豪華なカーペットにふたりはひざまずいてすべての持ち物を献げる祈りを、特に彼らの心をイエス・キリストにささげる祈りをしました。「あなたに足りないことが1つある」という聖霊のことばによって彼らは人生が変えられました。
聖書は救霊のための神の強力な代理です。人々に決心を起こさせるため、正しい時に、正しい聖句をいかに使うかを知らなければ効果的な救霊の働きはできません。パウロは「神の言はあり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂とを切り離す」(ヘブル4:12)と言っています。
創造のときは、神の口から語られたことばが物質を作りだすという力をともなっていました。「もろもろの天は主のみことばによって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた」(詩篇33:6)。エレン・ホワイトは次のようにのべています。「すべての世界を出現させた創造のエネルギーは、神のみ言葉のうちにある。神のみ言葉は能力を与え、生命を生せしめる。神のご命令の一つ一つは約束であって、意志がこれに同意し、魂がこれを受け入れるときに、そこには同時に限りない神の生命がもたらされる。それは人の性質を一変させ、魂を神のみかたちに再創造する」(『教育』135―136ページ)
神のみ言葉の生命を与える約束と原理は、そのことばが宣言している事柄を実行する力も持っています。神のみ言葉は生きているので、道を指し示すばかりでなく、正しい人生の歩みをさせる力をともなっています。『ミニストリー・オブ・ヒーリング』の92ページでエレン・ホワイトはこの原則を次のように明言しています。
「神のみ言葉の約束はみなそうである。それらの約束を通して神はわたしたちひとりひとりに向かって語られ、また、直接にみ声を聞いているかのように語っておられる。これらの約束によってキリストは恵みと力をわたしたちにお与えになる。それは『万国の民をいやす』木の葉である。これを受け入れ、自分のものとするとき、品性の力となり、霊感が与えられ、生命を支持する者となる。こういういやしの力を持った者は他にない。これ以外にどんな者も全身に活力を与え、勇気と信仰を授けることはできない」。
人々を決心へ導くのに聖書ほど力のある本は他にありません。聖句を実生活の状況に適用することほど力のある方法は他にありません。決心をうながすとき、対話の中で「私の意見によれば」とか「私はこう考えます」とか「私の教会ではこう教えています」という人がいます。しかしそのような表現には余り重みがありません。しかし、聖書を開いて、神がなんといっておられるかを告げるとき、彼の人生に対する神の意志を伝えることができ、変革のための力強い神の代理の協力を得ているのです。
何年か前のこと、私が開いていた連続の伝道集会に以前アドベンチストであった人が出席しました。ある夜、私は彼女の家を訪問して、神の家族に戻って来ませんかといいました。彼女は目をきらきらと輝かせて、「そうしたいのです。でもできません。私は煙草を吸っています」と答えました。私は彼女の名前を呼んで「あなたはイエスがこの習慣にあなたが勝利することを望んでおられるとお信じになりますか」といいました。「ええ、勿論信じます。しかし私にはできません。私が弱過ぎるのです」と彼女が答えました。そこで私は「あなたのために聖句を読みましょうか」といいました。そして聖書のヨハネ第一の手紙5章14節を開いてみました。「わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである」
「○○さん、あなたはあなたが禁煙できると確信しますか」
「いいえ」
「よろしい、なぜなら聖書は『神に対していだいている確信』といっています。確信はだれに対するものですか」
「神に対する確信です」
そこで私はもう一度読んで、「わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞いて下さる。但し煙草をやめることは例外である。と、あなたの聖書に書き加えましょうか。今書き込みますから聖書を貸してください」とメアリーの方を向いていいました。
彼女は、「いいえ、聖書にはそう書いてありません。何事でも神の御旨に従って願い求めるなら神はそれを聞きいれで下さる、と書いてあります」
「煙草をやめることは神の御旨に従うことでしょうか」
「はい、そうです」
「では、神が約束しておられる力を確信をもって求めることができますか」
「はい、私はできると信じます」
「ではもう1つ質問があります。煙草をやめる力をあなたはいつ受けられると思いますか。1週間後でしょうか。1か月後でしょうか。3か月後でしょうか。あなたはこの力をいつ受けるのでしょうか」。私は聖書のヨハネによる福音書1章12節を開いて読みました。
「彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」。私は更に続けました。
「イエスを受け入れることは、彼の力を受け入れることになります。今晩、あなたはイエスに対して確信を持てることがわかりました。神の御旨に従うことであれば、それを求めればくださることがわかりました。あなたが煙草をやめることも神の御旨であることがわかりました。また神を受け入れるとき、その力も同時に受けることがわかりました」
メアリーは黙って座っていました。彼女の目に新しい光が射してきました。
「今晩、ひざまずいて、イエスに、神に確信をもっていることと、あなたにはできないことでも神があなたにさせてくださると信じていることと、あなたが煙草をやめることが神の御旨であることを信じていることと神が今与えようとしておられる力を、今受けたいと思っていることとをお話ししたいと思いませんか。そしてあなたが希望したからでなく、キリストの力をもってあなたが勝利したから、あなたが望んだからでなく、みことばにそう書いてあるから信じていることを伝えたいと思いませんか」
私たちはひざまずき、メアリーは祈りました。8年ほど前のその夜、1日に2箱から3箱吸っていた煙草にメアリーは完全に勝利しました。確かに、私は深く息を吸うこと、散歩をすること、水を飲むことなど習慣をたち切るのに役に立つことを提案しました。しかし、神のみ言葉にある約束に基づいて、キリストの真の救いを求め、彼女はそれを得たのです。
「神が祝福すると約束されたことは私たちの議論によるのでなく、神の言葉によるのです」(『個人的あかしの方法』24ページ)。私は煙草をやめることの必要性をメアリーと論争することもできました。また喫煙が間違っているということを彼女と議論することもできました。だが私には、彼女がすでに喫煙に対して罪悪感を持っており、今、彼女に必要なのはみ言葉による助けとなる約束であることがわかりました。
神のみ言葉に出会う男女は変えられます。閉じた心で聖書を読んで、わずかしか祝福を受けられない場合があります。しかし、男女が神の真理を知りたいと求めるとき、たとえ最初は懐疑的であっても、み言葉との接触をしている間に彼らは変えられるのです。
C・S・ルイスは懐疑的な気持ちで福音書を読み始めましたが、キリストに魅せられて、ついにそこにキリストを発見しました。彼は自分が次第に態度を変えて行った様子を「喜びによって驚かされる」という本に記録しています。この本はC・S・ルイスが聖書を読んでいくに従ってキリストによってどのように変えられたかを書きしるしたものです。
ロバート・モリソンは彼の聖書に対する懐疑的な態度をキリストの復活を疑うことによってあらわそうとしました。しかし彼が歴史上の証拠と聖書の記述とを比較研究した結果、あのすばらしい本、『だれが墓石を動かしたか』を著わしました。その本で彼は復活を神聖なできごととして歓呼の声をもって認めています。モリソンは聖書の記録を読んでいくうちに、変えられたのです。
あるいは、ウィリアム・ラムゼーの場合を考えてみてください。100年ほど昔、若い英国の学者ウィリアム・ラムゼーはルカによる福音書と使徒行伝が記録している歴史が不正確なものであることを証明しようとして、小アジア地方へ行きました。彼の教授は確信をもってルカが正しいはずがないといっていました。ラムゼーはギリシャや小アジアの廃擁の発掘を始めました。古い年代を調べ、境界線を調べ、その他の項目について調べて、教授たちが言っているように、もしルカがずっと後になって、でっちあげた歴史であるならば、そのことをあばき出そうといたしました。ラムゼーは彼の考古学的な発見、歴史学的な発見と、新約聖書の記述とを比較して、新約聖書はその細かい部分に至るまで正確であるという確信をもつようになり、ついにクリスチャンになり、偉大な新約学者になりました。生きたみことばに接することを通して、開かれた心をもって新約聖書と歴史上の証拠とを比較することにより、ラムゼーもまた変えられたのです。
救霊に成功するには神のみ言葉の約束をもって養われなければなりません。それらの約束や原則を心にしっかりと留め、暗唱してから他の人々と会うとき、非常によい接触ができます。C・L・グーデールはそのことを要約して次のようにいっています。「だれでも、彼の血の一滴一滴に神のことばが見られ、彼の吐くひと息、ひと息に神が与えられた使命が聞こえるようになるまでは、みことばを受けていない、欠乏している魂に十分な使命をもっているとはいえない」(『現代の伝道の動機と方法』46ページ)。またエレン・ホワイトも「彼ら[牧師たち]はその働きにもっともっと効果的でなければならないのに、真理のことばを十分に学んでいないので、効果的な働きをしていません」(『レビュー・アンド・ヘラルド』1890年4月8日号)といっておられます。
あなたがこの本を読んでいるのは、きっとキリストのためにもっと救霊者として成功したいと願っているからに違いありません。あなたの頭脳を尊い神のみことばの約束で一杯に満たしてください。救い、再臨、安息日、死後の状態、聖所、預言の霊、真の教会、その他アドベンチスト教会の主要な教えに関する神のみことばの尊い約束であなたの頭脳を一杯に満たしてください。
イエスのもとに来る人を助けるために特に書かれたみことばを発見してください(マタイ11:28、ヨハネ6:37―38)。また許すことの喜びを示している聖句(イザヤ1:18、Ⅰヨハネ1:9)、キリストの内に、人々の心を変える力があることを知る助けとなる聖句(Ⅱコリント5:17、ヘブル10:8)、イエスが、誘惑や罪と戦う人々のために力を持っておられることを教えてくれる聖句(ヘブル7:25、ピリピ4:13)、キリストが人々のすべての必要を満たしてくださることを信じる助けとなる聖句(ピリピ4:17―18、マタイ6:26―33)などを発見してください。
これらの聖句は種です。心の畠にまかれますと、芽を出して神の栄光のために実をみのらせます。種は活きているからです。それは生命を与え、人を作り変え、生活を変える力です。心の土に種をまきなさい。それはあなたが牧師として働いている間に豊かな魂の収穫をもたらすことでしょう。聖書と、みことばの権威と、使命の力が決心をもたらすのです。
第3章 頭脳の働き
あるお母さんが自分の子供をアイスクリーム店へ連れて行きました。すると店員が「チョコレートにしますか、バニラにしますか」とたずねました。
「何か他の香料のはありませんの。私はその二つの香料はもう飽きてしまいました」と母親がいいました。
「奥さん」と店員がため息まじりにいいました。「もしあなたが、チョコレートかバニラかを決めるのに皆さんがどれ位時間がかかるかをお知りになったら、もうひとつの香料の種類を増やそうとはなさらないでしょう」と。
人生におけるある種の決心は、アイスクリームをチョコレートにするかバニラにするかのように比較的重要でありません。しかし選択の力は神がお与えになった能力です。救霊の働きをする者は決心をすることの中に意志が活躍する場があることを知ることが非常に大切です。意志は決心のマスター・キーです(マスター・キー=1本の鍵でいくつもの扉を開けられるような鍵、親鍵[訳者注])。
英国の豪華客船クイーン・エリザベス号は約8,500トンもありましたが、わずか65トンの重量の舵に導かれていました。舵は船全体に比較してかなり小さいものですが、船の方向を支配しています。人間の意志は彼の人生の舵です。意志を操縦するという特権を救霊のために働くものが持っているわけではありません。意志を強制するのは彼の責任ではありません。しかし聖霊がいかに意志に関与なさるかを理解しなければ救霊に成功できません。
「ただ必要なのはほんとうの意志の力とはなんであるかを知る事であります。意志とは人の性質を支配している力、決断力、選択の力であります。すべてはただ意志の正しい行動にかかっているのであります」(『キリストへの道』57ページ)。
「意志を正しく働かすことにより人生を一変することができる。自己の意志をキリストに任せることによって、自らを神のカに結合させ、堅く立つために天より力を受ける。弱く動揺しやすい人間の意志を神の全能の力、不動の意志と結合させる者は、すべて純潔で高尚な生活、すなわち、食欲、情欲に勝利する生活を送ることができる」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング』151ページ)。
すべての決心は、それが掃除機を買うことであれ、聖書の真理を受け入れて、セブンスデー・アドベンチストになることであれ、必ず4つの基本的段階があります。
第1段階は情報です。
この段階で個人は決心をするのに関係のある事実を積み上げます。例えば新しい車を買う決心をするとき、その人はあれやこれや車を見て、情報を集めます。いろいろな型の長所や短所を調べ、性能、リッター当りのキ口数、乗り心地、値段が手ごろかどうかなど、ひとつひとつの項目を比較します。惰報の段階で集めた情報は知的な決断へと前進させてくれる力になります。人生における正しい決断は正しい情報なしにはできません。
適当な情報がまだないのに決心をうながされると人はその心のまわりに壁をつくります。この段階では意志は積極的決断よりも消極的決断をします。ですから男女を決心に導くには次のような点を確認することが大切です。その個人は決心をするのに必要な十分な情報をもっているか。私が今決心させようとしていることについて知的に情報が与えられているかどうか。
決心をする第2の段階は確信の過程です。
情報を集めた後、その個人は自分の今の状況では何が正しい決心であるか、ほんとうは何をなすべきであるか感じ始めます。キリストのために決心するとき、その人の良心は「これが神が私にさせたいと思っておられることだと信じる。これが神の意志だと信じる。私が適切な行動をしなければ、神の意志の外側に自分を置いてしまうことになるに違いない」とささやきます。
人が確信のもとにあって積極的側に自分を置いている時は、正しい行動をすることによって自分は正しいという感じが一層深くなりますし、消極的側に自分を置いているときは、行動をしないことによって罪の意識が深くなります。しかし一方では、人間は必ずしも、あることをするのが正しいことだと確信しても、それだけで決心するとは限らないのです。ある人々は良心が非常に敏感で正しいことをするようにうながされ、間違っていることをすれば災いがくるように感じて、正しい決心をします。しかしながら決心の第3の段階は決定的です。
第3の段階は願望です。
この願望の段階で人は自分の気持ちを分類します。何をしなければならないかをはっきりさせるばかりでなく、自分が何をしたいかもはっきりさせます。「あなたは馬を水まで連れてくることはできますが、馬に水を飲ませることはできません」。 でも塩はそれができます。
水のそばに塩の固まりを置いて馬になめさせれば、馬は間もなく乾きを覚えて水を飲みます。塩が願望を目覚めさせたのです。
救霊の働きをする者として、私たちは地の塩です。人々に福音を示すとき、福音に関する十分な情報を提供し、彼らが何か行動をおこさなければならないと確信させるばかりでなく、彼らにそうしたいという気持ちを起させねばなりません。
正しい行動にともなう利点と、間違った行動の結果と、その行動が他人に与える影響とを示されると願望は高められます。聖書全体を通じて、神はご自身で天の喜びと、地獄の恐ろしさを示し、私たちの願望を高める力強い動機としてご自分の愛を示しておられます。
第4の段階はもちろん行動です。
確信と願望が高められた時、人は行動します。最終的行動の鍵となることは、情報を越えて、確信と願望へ進むことです。J・L・シューラーはこのことを次のようにいっています。「決心は人の心の中の知識、確信、願望の相互作用によって生じます。ある与えられた主題に関して、その人の知識、確信、願望がある一定の強度に達した時、人間の心は、それに関する行動をおこす決心をする方に動いて行きます。知識と確信と願望が決心へと導くので説教や聖書研究や個人的話は、与えられた主題に関して願望と確信の要索が巧みに織り合わされていなければなりません。これは知識と確信と願望が必要な相互作用を起して受け入れ、決心し、行動にうつるために必要なことです。いくつかの聖句を分析すると、ある聖句は特別に知識を、別の聖句は確信を、また別の聖旬は願望をもたらすために意図されていることを発見します。またしばしば一つの聖句がこの3つの要索をもっている場合があります。私たちは聖書研究を授けるときに相手の人の心に確信を植え付け、それと同時に、神の偉大な原則を受け入れて、それに従いたいという願望を起させるような聖句に焦点をあてる必要があります」 (J・L・シューラー著『決心を獲得する』第2部1ページ)。
伝統的にセブンスデー・アドベンチスト教会の働き人は、情報を提供することに優れており、確信を与えることは少しよわく、願望を起させることは更に弱いようです。これが多くの人が聖書の安息日を土曜日であると信じ、自分たちの身体が聖霊の宮である事実を受け入れ、バプテスマを受けるべきであると信じながら、実際に行動に移ることの少ない理由であります。これらの多くの「沈黙の信者」は惰報の段階から離れようとしません。そして確信の段階に移った者も、その確信するところを行動へ移そうという願望をもつようになるものは更に少ないのです。
エレン・ホワイトは、そのことを『教会への証」9巻、221ページで次のように述べています。
「自然界を支配している偉大な法則があります。同じように霊の世界も同じように確実な法則に支配されているのです。もし望ましい結果を得ようと思えば、ひとつの目的のためにいろいろな方法を用いなければなりません」
決心をする4つの段階を無視しては、ひとりでしくじるか、暗黒の中で群がっているか、棚ぼた式に結果をただ待っているかのいずれかになってしまいます。人間の精神の法則に従って、知的に活動するとき、神の恵みによって、結果を論理的に期待することができます。特に第2と第3の段階では、聖霊ともっと十分に協力することを学ばねばなりません。願望をおこさせる第3の段階の研究を、あとの方の章に譲って第2の段階を、もっと詳しく調べてみましょう。
確信を植付ける
確信は基本的には、個人が適当な情報を与えられたとき持つようになります。しかし、あなたが情報を与えたとしても相手がその情報を受けているとは限りません。もし情報が明瞭で、あらゆる障害物や、明らかな矛盾がなければ、神は聖霊を通して確信をもたらしてくださいます。しかし情報は明瞭でなければ確信へと導きません。情報から確信へ移るとき、「これは明瞭だろうか」とまず最初にたずねることが経験則からいってもよい方法です。
例えば、キリストの再臨に関する聖書研究の場合、キリストが間もなく来られるという確信を植付けたいと私は望みます。それで、2、3分の間研究を復習します、そして、「ジョン、キリストがおいでになるとき、すべての天使と共に雲に乗って来られ、すべての人の目がその姿を見るということとは、あなたにとって明瞭ですか。あなたは私たちが最後の時代に生きていることを信じますか」とたずねます。もし答が否定的であれば、私は確信の段階へ行く前に、少し戻って、もっと情報を提供しなければなりません。もちろん、答が肯定的であれば次へ進みます。
「○○さん、あなたがたはキリストが。あなたがたと主の間を隔てているものが何であっても、それを捨てるように呼びかげておられる声をお聞きになっていますか」とたずねます。「ヨハネによる第一の手紙3章2、3節に『愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする』と書いてありますね。あなた自身を全く神に委ねて、主の再臨の準備をするようにと、神が招いておられるという確信がありますか。今晩ここでひざまずいてそのような決心をなさりたいですか」と言います。
聖書の安息日の研究では次のように言います。「○○さん、7日目の安息日が週の終わりの日であり、土曜日であって、その日が神が休まれた日であることはあなたにとってはっきりとしていますか。神は今日も私たちに聖書の安息日を守るように要求しておられると思いますか。あなたは安息日も神の十戒の一部であると感じますか」。
肯定的反応があれば私は黙示録22章14節を用いて、更に進みます。「聖書には『いましめを守る者は幸いなり。彼らはいのちの木にあずかる権利を得るであろう。また門を通って都に入るであろう』(KJV訳)と書いてあります。あなたが天の都に入るために神がいましめを守るように招いておられる神の声が聞えますか。そのための力をいただくためにひざまずいて祈りましょうか」。
このように確信はただ聖書のことばを聞くだけでなく、神のみことばに対する服従についての質問に活発に応答することによって与えられます。この時の質問は決して脅迫的なものであってはなりません。つまり威嚇するのでなく、提供された材料を見せ、どれ位理解しているかを発見するのです。また感情的質問はあいまいな答が返ってきます。例えば、「安息日はすばらしいと思いませんか」というような質問はさけるべきです。この種の質問は防御的な反応があるか、受け身の同意を示すため、うなずくかのどちらかです。
明確な質問によって相手の心にある反対を発見することができます。どんな反対でも確信の障害物になりますので、この質問の過程は特別に重要です。これがなければ確信は、あなたが接している相手の心の中でも、また相手の理解と感じを理解しようとしているあなたの心の中でも不確定なものになってしまいます。ですからどの研究のあとにも一連の質問をします。
例えば、次のような質問です。「イエスが間もなくおいでになることはあなたにとってはっきりとしていますか。聖書の安息日が土曜日であることはあなたにとってはっきりとしていますか。あなたの身体が聖霊の宮であることを信じますか。私たちの聖書研究を聞く前からバプテスマは『沈め』のバプテスマであることを理解しておられましたか」。ひとつひとつの質問は相手の理解を明らかにし、研究した主題の教義を明らかにするよう計画されます。答は明確な形で求められ、時には「はい」と「いいえ」の形になってしまいます。ひと度これらの質問に対して積極的な答が返ってくれば神が要求しておられる行動を示し、そのような指令を無視することは重大なことであることを示すような確信の聖句を読みます。いくつかの例をあげましょう。
確信の聖句とアピール
- 個人的救い
「○○さん、聖書には『すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており』(ローマ3:23)と書いてあり、また使徒行伝4章12節には、『この人(イエス・キリスト)による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである』とあります。あなたは救われる唯一の道はキリストによる以外にないと感じますか。主がおられなければ、人々は永遠に失われることを知って、あなたは今晩あなたの心を開いてキリストを受け入れたいと思いますか」。 - 再臨
「聖書はイエスが戻ってこられる時、あなたも私も彼の来臨を見るであろうと書いて
います。黙示録1章7節には『すべての人の目……は、彼を仰ぎ見るであろう』と書いてあります。その時、喜びと、楽しみをもって主に挨拶したいと思えば、私たちが正しいと知っていることをすべて実行すべきでないでしょうか。平安をもって主にお会いする唯一の道は、聖霊を通して、主にあなたの生活から、主とあなたとの間を離している習慣を取り除いていただくことに同意することではないでしょうか。ヨハネの第一の手紙3章1〜3節に、イエスにお会いする者は、その心も生活も変えられ、新しく生れ変わらねばならないと書いてあります。あなたは神にあなたの生活から、イエスに平安な気持ちで会うのを妨げている習慣を取っていただきたいと望みますか」。 - 安息日
「一緒に安息日について研究するにつれて、あなたは神があなたに何をさせようとしておられるかについてより深い確信を持ったことでしょう。あなたは、安息日は十戒の一部であると思いますか。あなたは安息日を守るように神が招いておられるのが聞えますか。あなたはイエス・キリストを愛する者は今日でもクリスチャンとして安息日が要求されていると思いますか。つまりほんとうのクリスチャンになるには真の服従が必要と思いますか。聖書には、ヨハネの第一の手紙2章4節に、キリストに従うといいながら、服従しないならば、私たちは偽り者であって、真理は私たちの中にない、とあります。服従はクリスチャン生活の試験です。主の安息日を守ることによってキリストに対する服従を示したいと思いませんか」 - 健康的な生活
「聖書は私たちの身体は神の宮であると教えています。同時に、神がこの身体を私たちが純粋に清く保つよう望んでおられることも教えています。コリント第一の手紙3章16、17節に、『あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである』とあります。あなたの身体を清く保つことによってあなたのキリストに対する愛を示したいと思いませんか」。 - バプテスマ
「聖書はヨハネによる福音書3章5節に、『だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない』といっています。また、マルコによる福音書16章16節には
『信じてバプテスマを受ける者は救われる』とあります。あなたは沈めのバプテスマによってキリストに対する信仰をあらわしたいと思いませんか」
人間の心の働きを理解し、聖霊が相手の心に働くとき聖霊に協力するならば、キリストに対する決心をさせることに成功します。ロバート・オリバーは、「人々の判断に影響をもたらそうと思うものは、真っ先に、そして最後まで、彼らの心の内部の奥深い所まで知らねばならない」といっています(『説得力のある話し方の心理学』6ページ)。エレン・ホワイトは全体の原則をまとめて、「魂をキリストに導くには……人間の心に関する研究が必要です」(『教会への証』4巻67ページ)といっておられます。すべての福音のための働き人は、決心をする時の心の働きをはっきりと理解しなければなりません。
あなたは有能な救霊者になれます。聖書を開いて、人々に明暸で正確な情報を提供しなさい。彼らの質問に答えることによって彼らを助けなさい。深い確信を生み出み出すような聖句を読みなさい。神がその人にせよと求めておられることを告げるのをためらってはなりません。それをすることが神の意志であることを宣言しなさい。正しい行動にともなう利益と誤った行動にともなう結果を説明し、決心を求めなさい。情報と、確信と願望を混ぜ合わせて、行動をするよう励ましなさい。
次の章では願望の炎をどのようにあおるかについて考えます。
第4章 願望の炎をあおる
ジョアンはここ2年間セプンスデー・アドベンチスト教会に忠実に出席していました。彼女は聖書研究課程を修了し、ダニエル書研究会に出席し、2つの長期の預言研究講座に出席しました。しかし何かの理由で彼女はセブンスデー・アドベンチストになる決心はしませんでした。明らかにジョアンの問題は情報の問題ではありませんでした。彼女が確信に至っていないというわけでもありませんでした。それは願望が決心の所まで、高められていないということです。
この章で私は願望を高める基本的道具を紹介します。この後に出てくるジョアンとの会話に示されているような原則を適用するとき、積極的決心の数が非常に増えるでしょう。
牧師と私はある天気のよい日の午後ジョアンの家の戸をノックしました。温かいほほえみをもって迎えられた私たちは居間に通されました。腰掛けた私は確信をもって、「ジョアン、私たちは過去2年間あなたがセブンスデー・アドベンチストの教会に出席し、そこでの交わりを楽しんでおられることを喜んでいます。あなたが出席された2年間に聖書の真理をいろいろお伝えしました。おそらくそのうちのあるものはあなたにとって初めてだったでしょう。今まで学ばれたことで何か質問はありますか」。
「いいえ、何もありません」と彼女は答えました。
「ジョアン、イエス・キリストが間もなくこの世界に力と栄光をもって戻っておいでになることはあなたにとってはっきりとしていますか」
「なぜですか。もちろんです。キリストの再臨は確かで、世界で唯一の希望です」
「あなたは、あなたの知っている限りイエス・キリストをあなたの主、あなたの救い主として受け入れますか」
「はい、私は受け入れています。実際のところ、私はセブンスデー・アドベンチストの教会へ通い始める前から、クリスチャンになる決心をしていました」
「あなたは聖書の安息日や、死後の状態や、健康的な生活について学ばれたと思いますが、セブンスデー・アドベンチスト教会独特の教理について何か質問はありませんか」
「ありません。ほんとうにありません。私はこれらの教理もほんとうだと思います」
そこで私は彼女の問題が情報の問題でないことがわかりました。ジョアンは彼女の家族との関係をとても強いものに感じていたので、セブンスデー・アドベンチストになることは、彼女の頭の中では、家族の愛と支持から切り離されることだと思っていたのです。私はバプテスマの祝福のひとつ――神の家族に加わることに照準を合わせました。もう一度聖句を用いました。「ジョアン、バプテスマを受けることを考える度にほんとうに恐ろしくなる人たちがいます。その人たちはバプテスマによって何か失うのではないかと恐れているのです。聖書のコリント第二の手紙6章17節に、『彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる」と書いてあり、しばしばこれだけしか引用されません。しかし、17節と18節にはこう書いてあるのです。『わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、あなたがたは、わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こういわれる』」
ジョアンを見ていると、この聖句が彼女の心に深く訴えていることがわかりました。私は次のような説明を加えました。
「ジョアン、あなたはこの決心をすることにより、あなたのお父さんやお母さんから遠ざけられてしまう可能性を考えているかも知れません。また友人を失うことを考えているでしょう。しかしあなたの心に、手をのばしてあなたに私があなたのお兄さんになりましょうといっておられるイエスの姿を描いてください。彼の愛は地上のどんなきずなより深いのです。あなたは天の王室の一員になるのです。地上ではあなたは教会の一部になり、あなたを愛している兄弟や姉妹たちと交わりをするのです。そして、ジョアン、私はこのような温かい愛に満ちた交わりにあなたを招きたいのです」
ジョアンが、彼女が失うものを見ないで、彼女が得るものに目を移した時、神の家族に加わり、神の教会と1つになる決心をしました。
決心はただ単に、人が自分のなすべきことについて確信しただけでできるものではありません。決心をするには、確信していることを行動に移したいという願望が大きくなってこなければなりません。情報を提供することにより確信が深められ、人々が正しい行動をした場合の利点と、誤った行動をした場合の結果を比較することにより願望が高められます。私たちが神に仕える動機は利益を得るためではありませんが、神に仕える者には確かな報酬があり、神に仕えないものにはその結果があります。聖書はそのような報酬に満ちており、イエスも、私たちにもっと豊かな生活を送るように訴えておられます。
- 心の中の混乱に対立する心の平安という利点
イエスはヨハネによる福音書14章27節で「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」といわれました。また詩篇119編165節には「あなたのおきてを愛する者には大いなる平安があり、何ものも彼らをつまずかすことはできません」とあります。
この聖句は、神に仕える者には何も問題がないという意昧ではありません。もし人々にそのような保証をすればそれは正直ではありません。しかし、もし人々が何が正しい道であるか確信しながら、神の導きを無視するなら、彼らにほんとうの心の平安はあり得ないということは保証できます。しかし、もし神が彼らに何をさせようとしておられるかを彼らが確信し、その確信に基づいて行動するなら、他の方法では得られないイエス・キリストとの関係のうちに内なる真の平安を受けます。
ある人が聖書の安息日が正しいことに同意していたと仮定しましょう。しかし彼は安息日に働いているので、その問題で苦しんでいます。彼は家族を養うことについて心配しています。彼はまたもし自分がこのような決心をすれば友人はどう思うだろうかと心配しています。彼は、自分の妻がどのような反応をするだろうかと心配しています。彼への訴えの中で私は次のようにいいます。
「○○さん、あなたが直面している決心についてかなり心配していますね。あなたは聖書の安息日が正しいと確信していますね。そうではありませんか」
「はい確信しています」
「○○さん、わたしたちは、安息日が最後の危機の時に心の忠誠と服従の最後の試験になることを話しました。私はあなたが神の側に立ちたいと思っていることを知っています。そうではありませんか」
静かに彼はうなずいた。私には問題が、情報でも確信でもないことがわかっていました。私は願望の段階へ進みました。
「○○さん、私たちは3つの大きな問題を話し合いました。家族が承認しないという問題、友人たちがこの事についてどう考えるだろうかという心配、仕事を失う可能性、これらは皆衝突を引き起すものです。そうではありませんか」
「確かにそうです」
「○○さん、聖句を2つあなたのために読んでもよろしいでしょうか」といい、ヨハネによる福音書16章33節と詩篇119編65節を読んで次の点を訴えます。
「○○さん、神はあるものをあなたに提供しておられます。神は内なる平安を提供しておられます。心の外側の平和と内側の衝突よりも、外側に衝突があっても内側が平和の方が正しいことを知っています。あなたは聖書の安息日の教えから離れることもできます。それによって、安息日の働きの問題も、家庭内の衝突も解決するでしょう。あるいは友人間の緊張も解決するかも知れません。しかしあなたは何が正しいことか知っているので、1つの事だけは解決できません。あなたの心の中にはげしい衝突があるでしょう、あなたは神があなたに与えようとなさった平安を喪失してしまうのです。ジョン、ひざまずいて、あなたの心にキリストの平安が宿るように祈りましょう。この世界にある何ものよりも主の平安がもっと重要なのですから」 - 聖霊を受けることの利点
使徒行伝5章32節に、ペテロは神の約束を伝えて、「わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」といっています。聖霊はだれに与えられるのでしょうか。服従する者に与えられるのです。
ヨハネによる福音書14章15、16節で、イエスはこの思想を展開して、「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう」といわれました。聖書は聖霊を受けることと、神のいましめを守ることを直接結びつけています。この訴えは特にペンテコステ派の人に有効です。もし、私がペンテコステ派の人のために働いていて、主題が健康のことであれば、次のように訴えます。
「○○さん、あなたがたは健康の原則もまたキリストが聖書の中で与えられた基本的いましめの1つであることがわかったでしょう。それが神のみ旨に調和しないので、あなたがたが豚肉を食べない決心をすれば、その決心は聖霊が入って来られる通路を大きく開くことになり、今まで経験したことがないほど完全に聖霊に満たされるでしょう」
カリスマを強調する人に安息日の訴えをする時は次のようにいいます。
「あなたは聖霊に満たされたクリスチャンになりたいと思っておられるでしょう。聖書は、 『もしあなたがわたしを愛するならは、わたしのいましめを守るべきである。わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう』といっています。聖霊が不公平なために、ある人には多く、ある人には少なく聖霊が満たされることはありません。しかしある人は1パイントの器を、ある人は1クオートの容器を、またある人は1ガロンの容れものを持ってきます。水泳用のプールの人もいます。あなたの委任が大きければ大きいほど、あなたの服従が完全であればあるほど、聖霊はより多くあなたを満たすことができるのです。ジョンとメアリー、あなたがたは聖霊に完全に満たされたいと望んでおられますね。そうではありませんか。イエス・キリストへの愛のために安息日を守るならば、聖霊はより大きな器に一杯に満たされるでしょう」 - 真の幸福の利点
ヨハネによる福音書13章17節に、「もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである」とあり、また主は、「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(ヨハネ10:10)とつけ加えておられます。もし私が満ち足りた人生を愛している若い夫妻に話をするのであれば、彼らを見ながら次のようにいいます。
「○○さん、あなたがたが3才と5才の子供たちと共に将来に何を望んでいるかはよくわかっています。それは幸福でしょう。神はほんとうにあなたがたに幸福な人生を与えたいと思っておられます。例えば、アルコール、煙草、清くない食物から離れるようにとの使命を神が与えられるのは神が厳格な裁判官であるからでなく、あなたがたを愛しておられるからです。神はご自分の大切な子供たちが肺癌になっているところをごらんになりたくないのです。神はあなたがたの幸福を願っておられます。神が安息日をお与えになったのは、あなたがたの神経が崩壊しないように、1週間に1日はくつろいで、神との交わりの時を持つように、まだ午後は家族と一緒に自然の中で時間を過せるようにするためです。死後の状態について使命をお与えになったのは、人が死んだ時、何ごとが起るだろうかとあなたが苦しまないためです。神はあなたが幸福になれるよう望んでおられます。聖書は幸福のための手引書です。 - 天の家郷という利点
私はある人々にはしばしば天国の様子を描写します。そして地上の安っぽくてけばけばしい楽しみと対比します。ヘブル11章24〜26節には、「信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである」とあります。
聖書全体を通じて、信仰の男女は永遠を望み見ていました。アプラハムは都を待ち望んでいました。神がその都の建設者だったからです。イエス・キリストのために決心することの利点の一つは神の真理に調和して生活するならば、最後に天国の希望があるということです。聖書の安息日に働くなら昇進も約束されていた28才の女性に与えるであろう衝撃を考えてみてください。決心のための感受性豊かな訴えは次のようになるでしょう。
「今から一千年先のことをお話ししましょう。それとも一万年、あるいは百万年先のことをお話ししましょうか。百万年先にあなたがほんとうにしたいと思っていることは何でしょうか」
彼女はほほえんで、固い表情が消えました。訴えは続きます。「1つの景色を心に描いてください。畑には穀物が波を打っています。みどりの丘があります。水晶のように透明な池、深い青い空、いろいろな大きさや形の果物。目を楽しませ、食欲をそそるあらゆるもの。病気も、悲しみも、死もない土地、すべての住民が生命と喜びに満ちているところ、愛がすべての存在から発散しているところ、あなたが自分の家を建て、あなたの畑から果物をとって食べるところ、あらゆるタラントが発達し、あらゆる能力がのばされる場所、世界から世界へ、星から星へ旅行できる場所を描いてください」
「ではメアリー、この世界で失うもので何か惜しいと思うものがありますか。イエス・キリストに直接会えることを考えてください。彼の手にある釘あとに目をとめながら、彼のことばを聞いてください。『これはすべてあなたのものです。これをあなたにさしあげるため、私は死にました』。もしあなたがこれと、今あなたが主に従うためにあきらめようとしているものとを比較するなら、とうてい比較にならないでしょう。あなたが今日決心をするとき、神が助けてくださいます。美しい天の光に輝く聖書のバプテスマを楽しみに待ちましょう」。ここでは私たちの訴えは、彼女が今見ている地上の問題から目を移して、天の実在を見せることです。彼女がしがみついているものと、天国で彼のために提供されているすべてのものとを対照的にはっきりと示すことです。 - 罪の許しと罪の意識から解放されることの利点
この訴えは特にバプテスマの決心につながります。聖句としては使徒行伝2章37〜39節を基礎にします。「人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、『兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。すると、ペテロが答えた、『悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである』」。また使徒行伝22章16節には、「『そこで今、なんのためらうことがあろうか。すぐ立って、み名をとなえてバプテスマを受け、あなたの罪を洗い落しなさい』」といっています。バプテスマは罪からの清めを象徴しています。バプテスマの強力な誘因になるのは罪の意識からの解放を願う気持ちです。
数か月前のこと、ある夫妻が私の伝道集会に出席しました。その人たちの人生は罪によってひどく傷ついていました。夫はひどい酒飲みで、2人とも2度目の結婚でした。彼らの過去の罪の意識がみにくい怪獣のように彼らを襲っていました。彼らが聖書のバプテスマが過去の罪からの清めの象徴であることを思うと、自分たちが一度も罪を犯したことがないかのように清められた姿で神の前に立っている姿を思い浮かべるのでした。彼らは罪の意識からの解放の利点を認め、バプテスマをひたすら待ちました。2週間のあいだ、彼らは絶えず「先生、この次の安息日にバプテスマを受けられないでしょうか」といい続けました。
グリフィスは彼の『心を変えるもの』という本の中で、心理学用語の、「ミニマックス」(最低と最高)という理論を用いて人々が変化に対応していく様子を説明しています。行動心理学者たちは人間の行動の動機となる一番大きな要素は「ミニマックス」であるという結論を出しました。個人は与えられた項目に対して利益が最高になり、危険性が最低になるように行動するというのです。正しい行動による永遠の利点を最高にするとき、行動の消極的結果に焦点をあてるよりも劇的に大きな結巣をもたらすことができます。
サンフランシスコで、港湾労務者のあるグループが、半分の時間で倍の荷物を船からおろし、しかも荷物の傷みもずっと少ないことがわかりました。調査員たちはその理由を説明しようと一所懸命になりました。彼らの説明によれば、各グループは皆自分たちのドリーと呼ばれる運搬車をもっていました。しかし一番能率のよいグループだけが、それを使っていました。「ドリー」ということばまで、荒々しく、がっしりした港湾労務者にとって不快きわまるものでした。大部分の班長は「規則でドリーを使わなければならないんだ」、「ドリーを使え、もしドリーを使わなければくびだ」といって何とかドリーを使わせようとしました。もっとも成功した班長はドリーの利点を示しました。彼はよく大声でいいました。「背中を大事にしろ。馬鹿野郎。車を使え」。要するに彼のことばを翻訳すれば、「頭のいい若者は健康的な背中をしていますよ。なぜなら、彼らはドリーを使っているからね」となるわけです。利点を強調するという同じ原則が、霊的方面にもりっぱに通用するのです。
だれかのために聖句を読んであげることがあります。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイ16:24)。しかし、この聖句はすべての訴えに合うとは限りません。私は伝道生活の初期の頃、この点で重大な間違いをしてしまいました。人々はそれぞれ皆違うという事を理解していなかったので、人々に動機づけるため、「キリストはあなたが自己否定するよう求めておられます」といつも繰り返していました。だんだん広く理解するようになって、聖書にはいたる所に利点が示されていて、神の助けによって、ふさわしい利点を適用できることがわかってきました。だれがどの利点を必要としているか教えてくださるよう、聖霊に助けを求めましょう。そしてあなたの決心者数が増加するのを見守ってください。
第5章 運命の選択
ジョナサン・エドワーズの有名な説教「怒りの神の手の中にある罪人たち」を聞いている聴衆は、地獄の炎を感じ、講壇から注ぎ出される神の怒りがだんだん熱くなってくると、神に仕えるためすべてをささげないという人はほとんどいなくなるほどでした。クリスチャンになるための動機としての恐れをこのような極端なかたちで見せられると、ある人は否定的感情は人々をキリストに連れてくることに一切関係がないという結論を出そうとしてしまいます。しかし、品性をつくりかえる動機として恐れが有効に使われたことはないのでしょうか。
恐れは盃曲することがある
確かにエドワーズは神の品性と姿を盃曲して示しました。恐れの要素を非常に乱用しています。私たちはもし恐れが人々を決心に導いた主な動機であれば、何か非常に大きな誤りを犯していると考えます。
また一方では、神のことばははっきりと人々がキリストを受け入れるか拒むかによって、永遠の報いとして天国と地獄を対比させて描いています。天国は救われるための動機づけをし、地獄は失われることの抑止力になります。地獄の恐れは、恐れがなければしてしまうことを、人々がしないようにとどめます。それは人.々を、救い主に導く誘因になります。そうなると恐れも、それを強烈に用いて福音使命の平衡を破って、妨げたり、盃めたりしない限り、人々の人生に積極的影響力をもたらすことができます。
恐れは動機になることがある
日常の生活でも恐れは人間生活の緩衝器、防御装置としての働きをしています。小さい子供がストーブで手をやけとしないように、手を近づけないのは恐れがあるからです。ボールが道に転がり出ても、小さい男の子が道路に飛び出さないのも恐れのおかげです。車に乗るとき、運転免許証をもっているかどうか確かめて、警官につかまらないように気をつけるのも恐れからです。では恐れは正当な動機でしょうか。実はまだ恐れの全体の姿ではないのです。恐れは触媒となり、一時的な行動に走らせます。しかし恐れだけでは深い、しっかりした確信にはならないのです。
聖書の中で、キリストご自身も、恐れの動機を人々が主に仕えることをうながすために用いられました。良い麦と毒麦のたとえで、主は終わりの時に存在する2つのグループの人々の運命に焦点をあてられました。羊と山羊のたとえと、網に入った魚をよりわける話で人生の2つの生き方、永遠の生命へ導かれる生き方と、最後の滅亡へ向っている生き方を示されました。主のもっとも心を動かす訴えの中で、マタイによる福音書16章の説教のクライマックスとして「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか」といわれました、またマタイによる福音書25章46節で主は再び人類の運命を示されました。「そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。
永遠は非常に長く続くので、霊的決心はとても重要です。キリストのための決心について悩んでいる魂のために私が働きかけているのであれば、私は次のように言うでしょう。
「○○さん、永遠は非常に長い時です。神は私たちにその長い時をどのように過すか選ぶ能力をお与えになりました。主は『見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である』といわれます(Ⅱコリント6:2)。キリストは今晩あなたがたがずっとキリストと共に歩く決心をするよう招いておられます。彼は決してあなたがたを落ちぶれさせるようなことはありません。主はあなたがたを永遠へ連れて行ってくださいます。あなたがたが天国と地獄を考える時、あなたがたの選択がすべての違いを作っていることを覚えてください。神は強制されません。主は「わが子よ、ここに2つのものがあります。天国の喜びと地獄の苦しみです」といわれます。失われた時のことを考えてください。神から切り離され、友人、夫、妻、子供たちから切り離されるのです。外側の暗黒はどんなものか考えてください。聖書にはそこで人々は泣き叫んだり、歯がみしたりすると書いてあります。○○さん、あなたの前には天国の永遠があり、あなたの後には地獄があります。あなたがたが愛しているキリストも望んでおられます。今ひざまずいて.主に祈りましょう。『愛する主よ。私は永遠の時をあなたと一緒に過したいと思います。次の安息日にバプテスマを受けることによって、あなたとあなたの真理を受け入れたしるしとしたいと思います』」
私たちは現在の損失を恐れている
強力な訴えを、罪の永遠の結果に基づいてすることができます。間違った行為を頑固に続ける結果として現在の生活に及ぼす消極的結果を指摘することもまた効果的です。しばらく前、私は非常な酒飲みの人のカウンセリングをしていました。私は彼にキリストの恵みと愛について話しましたが、私が話していることばは全く力がなく、彼に到達しませんでした。彼の生活態度が意味するものに彼がはっきりと直面しなければ、何も進歩は得られないと思いました.それで私は訴えを方向転換しました。
真っ直ぐに彼に向ってたずねました。「あなたは、お金と、自己の尊厳と、人生の安定性をほとんど失っているのをごぞんじですか。もしあなたがお酒を続けるなら経済的に破滅し、たくさんの借金が残ります。あなたがたの結婚も危険な状態です。お酒でどれだけ楽しみが得られるのですか。お金がなく仕事もなく、妻にも逃げられ、あなたの頭をおおう屋根もなくなれは、あなたはどう感じますか。その後何が残りますか。人生が終った時、あなたには天国もないのですよ」。このように事実をはっきりと示したとき、この男は飛びあがるほど驚いて変化の過程を進み始めました。
間違った行為の明確な結果
間違った行為の明確な結果は聖書の中に私たちの前に行列を作るほど数多く示されています。いくつかの聖句を暗記すれば、正しい行為の利点と、間違った行為の結果について人々に示すためのりっぱな財産になります。
真理に応答することに失敗し、心の中でわかっている正しいことを実行することに失敗すれば次のような結果になります。
- 将来の光か取り去られる
ヨハネによる福音書21章35節に、「光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわからない」とあります。 - うそを受け入れる
テサロニケ第二の手紙2章8〜12節に聖書は自分の救となるべき真理を愛さないものには、彼らがうそを信じるように迷わす力が送られる、といっています - 聖霊を拒絶する
聖霊だけがわたしたちを真理に導くことができます。(ヨハネ16:13、14:15、16)
これらの結果を心にとめながら、決心のために次のような訴えをします。「○○さん、あなたは神の確信させようとされる力を感じていますか。みことばによって示されている真理をはっきりとさせる力です。聖書は『光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい』と教えています。真理を受け入れないのは危険なことです。神は一度真理が示されてもそれを受け入れない者は、ついにうそを信じるようになる、といっておられます。また聖書は真理の愛を受け入れないことを選ぶ者は聖霊を拒む者であるといっています。あなたは暗黒も、サタンのいつわりも、聖霊を拒絶することも望まないでしょう。今晩、イエスに『主よ、これらのことがほんとうであることがよくわかりました。真理のうちを歩む力をお与えください』と祈ることは良いことではないでしょうか」。
エレン・ホワイトはそのことを簡潔にのべています。「地獄は避けるべきもの、天国は獲得すべきもの、心と魂の底から信じている人はほんとうに少ない」。救霊者は、彼の聴衆に対して、永遠の生命の道と、永遠の死の道という2つの道を示しているという事実を深く認識しなければなりません。人々は救われるか、滅びるかなのです。天国か地獄かです。救いと破滅のどちらかなのです。
聖書は地獄は永遠に切り離される場所であり、全く希望のない場所であるといっています(マタイ8:12、ルカ13:28、マタイ25:46、ヘブル6:2)。セブンスデー・アドベンチスト教会は永遠に燃えつづける地獄という非聖書的観念を頭から否定しています。しかし永遠とはいつまでも続くことだということはわかっています。そして永遠に失われるという恐れは、願望をうながす正当な動機です。私がカトリックの教会付属学校の5年生だった時、修道女が話してくれた例話は、その後長い間私の思考に影響を与えてきました。ある生徒がたずねました。「シスター、永遠とはどれ位長いのですか」「皆さん、大きな海を思い浮べてください」。私はニューイングランドの海岸で大きくなりましたので、私の幼い頭は果てしなく広がる大洋と、白い波頭が浜に寄せて来て砕ける様子を容易に思い浮べることができました。
彼女は続けました。「さあ、かもめを思い浮べてください。かもめが千年に1回やって来て海の水を一滴飲みます。そのかもめが海の水をすっかり飲み干した時に、永遠の最初の1秒が過ぎるのです」
私の小さい5年生の頭は永遠とは長い、長い、長い、長い時であることを理解し始めました。
実際その通りです。十字架の要求に直面した人々は、キリストの死が、自分たちをキリストと共に永遠に、いつまでも生きることを可能にしたことを理解しなければなりません。しかしその死を拒むならば、永遠に失われるのです。あなたの聴衆の前に2つの道を示して、よい結巣があらわれるのを見守りましょう。
伝道集会や、伝道の訪問で、無干渉主義、または、いやならやめなさいという態度では確信を生むことは少なく、願望をもつことも少ないでしょう。正しいことをするときの利点を示している聖句を説教や訪問で用いなさい。同時に誤った行動にともなう結果に関する聖句も、人々を完全に正しい道に従わせる強力な道具として用いなさい。
伝道集会でわかった1つのことは、集会で確信が生まれても、それを更に深くして、変わりたいという願望にまで至らせるのは訪問者の責任であるということです。誤った行動の結果をはっきり示す聖句を、人々を完全に正しい道に従わせる強力な道具として用いなさい。
第6章 だれも自分のために生きていない
トムは、ぜいたくな郊外の家に住んでいて、評判のよい全国的な会社の経営陣のひとりとして働いていました。彼に関するものはすべて彼の成功をあらわしていました。彼の服はりっぱで、彼の家は美しく、子供たちは賢く、魅力的でした。トムは尊敬を要求する態度で、それらのものを支配していました。彼の組織し、経営する技能は、気どらない、穏やかな、話しやすい気質と共に均衡が取れていました。彼の妻と子供たちは彼を深く尊敬していました。
何年か前に彼はセブンスデー・アドベンチストの学校で教育を受けていました。今彼は伝道集会に出席し、真理に確信を持つようになりました。しかし彼は宗教が彼の今の生活様式を変えてしまうような非現実的な要求をするのではないかと恐れていました。何週間もトムはバプテスマの決心をするのを迷っていました。私が祈りと共に彼を助ける何か可能な方法がないかと考えたとき、現在の状況で非常に安定している彼の場合、伝統的な方法である「約束された富」は彼の心に何も訴えないことに気がつきました。「利点」も「結果」もトムには余り強制力がないだろうと思いました。それについて考えていたとき「期待」ということばが思い浮かびました。「他人に期待される」ということはトムにとって行動を起こす力になるに違いないと思いました。彼は見上げられ、賞賛され、人々を従わせるタイプの人間でした。彼は自分が他の人に及ぼす影響について決して軽く考えていませんでした。
私たちは彼の飾り立てた仕事部屋で一緒に腰掛けて、次のように訴えました。「トム、あなたは伝道集会に出席していらっしゃいますが、あなたが聞いた教理で何か質問はありませんか」。
私は彼が教理の大部分をはっきり理解していることを知っていました。しかし2つの理由からこの質問をしました。第1に、もし何か大きな障害物があれば、それを取り除くためです。しかし最も重要なことは彼に自分の確信を表現する機会を与えることでした。私は今まで彼に示した真理を彼がすべて同意していると思っていました。一度、トムがわたしたちの教えに賛成しているという事実をはっきりさせれば、イエスに従うという訴えも真剣に考慮するに違いないと思いました。
彼は同意してうなずきました。「はい、私はしばらく以前からセブンスデー・アドベンチストの教義を信じています」
「トム、私は先日あなたのことを考えていました。あなたの生活が他の人に非常に大きな衝撃を与える力をもっていることと、あなたが影響力のある人であるということを考えていました。あなたの奥様があなたを深く尊敬しておられることも知っています。あなたが聖書のページを繰っている時彼女の喜びに満ちた目があなたに向けられていることも知っています。あなたの小さい息子さん、娘さんがどのようにあなたを見上げているかも知っています。あなたが今、しようとしている決心の重さを私は知っています。またあなたが決心をし、行動を起こす前にそれについて真剣に考える人であることも知っています。しかし、トム、もしあなたがバプテスマを受ける決心をすれば、あなたの奥様は心を躍らせ、あなたの子供さんたちはクリスチャンとして意義深い、喜びに満ちた生活を送るでしょう」
「このような決心をする時が来て、犠牲が大き過ぎると考え、後戻りしてしまう人が多いことも知っています。ある人は、安息日を守ること、什一を献げること、アルコールから遠ざかることなどについて確信をもちながら、それに従う勇気がないのです。しかし後になって静かな細い声を黙らせた結果は明らかになります。家庭には道徳の標準がなくなります。子供たちは流行に従い、彼らの生活を、麻薬と、よくない交際と、間違った選択で破壊しています。その時父親の心に、標準を知りながら、旗をもってそれを高く掲げなかったことに対する自責の念が起こってくるのです」
「トム、あなたがキリストに対して決心をするとき、ローマ人への手紙14章7節の『だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない』ということばを覚えましょう。あなたの子供さんたちは、まだ小さく、あなたの感化力のもとにあり、あなたがキリストに従うなら、あなたのあとについてくるでしょう。あなたのバプテスマ槽から天国まで道がつづいているのです。もしあなたの家庭であなたが霊的指導者になるなら、あなたは彼らのための模範になるのです。もしあなたが家庭礼拝を導き、安息日学校の教課を教え、教会や安息日学校へ行けば、あなたの子供さんたちも、奥様もあなたに従うでしょう。トム、あなたは仕事でとても大きな責任をもっています。しかし霊的指導者としての家族に対する責任はもっと大きいのです。奥様のために子供さんたちのために、ほんとうに彼らを指導したいと思うなら、今、主に次の安息日にバプテスマを希望しますと申し上げましょう」
私がこの訴えをすると、私たちはひざまずきました。トムは彼の生涯を完全にキリストに従わせ、バプテスマを受けますという決心をあらわしました。トムの大きな必要は彼の決心の重大性が彼自身の存在の枠を越えて妻や子供たちの上にも影響を及ぼすことを知ることでした。特に強い影響力や性格を持っている人の場合、他の人の人生に及ぼす影響を通して訴えることの価値を過小評価してはなりません。神はすべての両親の心に子供たちに有意義な満ち足りた人生を送らせたいという願望をお置きになりました。それは人々をキリストに従わせる大きな力になります。
昔の謝肉祭の呼び込み屋たちは、幸運の車輪をまわしながら、「まわれ、まわれ、幸運の女神はどこにとどまるか、だれも知らないのだ」といいました。クリスチャンの証もこれと同じように感じられます。1人の人のキリストのための決心がどのような効果をもたらすかはだれも知らないのです。すでに見てきたように両親の決心が子供に影響を及ぼします。妻の決心は夫に影響を与えます。しばしば、彼の家族や友人が決心をするのを待っているため決心が遅れることがあります。家族や友人がその人の決心を抑制しているのです。
私の父は母が決心するより、何年も前に、イエス・キリストとアドベンチストの使命とその真理に従う決心をしました。父の積極的な模範が、全家族をキリストとアドベンチストの使命の真理による救いへと導いたのです。
しばらく前のこと、ある婦人が、彼女の夫がクリスチャンでないことを私に隠していました。そのことを知ったとき、私は、彼女にあなたの大きな責任は、圧力をかげたり、強制したり、うまく丸めこむことでなく、キリストを生きることです、といいました。それにもかかわらず、彼女は、彼女の夫が決心するのを待つ必要はありませんでした。彼女の決心は強力な影響を彼に及ぼしました。
ついに、この婦人の影響によって、彼女の夫がキリストを受け入れ、彼女の子供たち2人、彼女の妹、その男友達、彼女の夫の兄弟、その妻と家族全員が主を受け入れました。1人の婦人の影響によって10人以上の人がイエスとアドベンチストの使命を受け入れてバプテスマを受けました。影響力の輪は次から次へと大きくなって行くのです。
信仰のピラミッド型の効果があった驚くべき実例がジェームス・H・サンプルによって『クリスチャニティ・トゥデー』に「伝道のたいまつを引きつぐ」と題して1967年に報告されています。この記事によれば、ムーディが17才の時、靴屋の主人だった叔父と一緒に働くためにポストンに行きます。叔父はムーディに教会に通うようにすすめ、エドワード・キンボールが彼の日曜学校の先生になりました。
何年かたって、イングランドで説教をしている時、ムーディはF・B・マイヤーの教会でキンボールの話をしました。マイヤーの働きは革命的でした。マサチューセッツ州のノースフィールドにあるムーディの学校で、マイヤーの話をもうひとりの若い牧師が聞いていました。キリストに喜んですべてを献げるという力強い説教をマイヤーはしていました。後の方のいすに腰掛けていたその若い牧師は変えられました。彼の名はJ・ウイルバー・チャップマンでした。
チャップマンは力強い伝道者になり、その時代で最も影響力のある教会人になりました。彼はプロの野球選手であり、YMCAの書記であったビリー・サンデーに大きな影響を与えました。後にビリー・サンデーは公衆伝道者として全国的に知られるようになります。
サンデーがノース・カロライナのシャーロッテで話した説教を通して、その地方にキリストを証しするために信徒のグループが結成されました。1932年に彼らは伝道隊を組織し、モルデカイ・ハムを説教者として招きました。ハムの説教は毎晩来てテントの中に腰掛けている16才の高校生によって妨害されました。彼と彼の友だちは説教者のうしろの聖歌隊の席に腰掛けていればつかまらないと思っていました。しかし彼らの思い通りにはなりませんでした。ついに、若いビリー・グラハムと彼の友人グレイディ・ウィルソンはイエスにつかまってしまいました。彼らはキリストを受け入れたのです。
影響力のたいまつは、キンボールからムーディに、ムーディからマイヤーに、マイヤーからチャップマンに、チャップマンからサンデーに、サンデーからグラハムとグレイディに引きつがれました。小さいできことが、大きなすばらしい結果を生みました。あなたは人々に、その人の決心がいかに多くの人の決心に影響を与えることができるかを理解させるならば、その人に動機を与えることができます。彼らの決心が池に投げられた小石のようにその輪をこちらの岸から天の岸まで広げて行く様子を彼らに理解させましょう。
エレン・ホワイトは、『教会への証』2巻133ページで直接この点に触れています。
「わたしたちのすべての行為は良くても悪くても、他人に影響を与えます。わたしたちの影響は上を向くか、下を向く傾向があります。それは感じることができ、その上で活動がなされ、多かれ少なかれ、他の人の内に再生産されます。もし、わたしたちの模範によって、他の人がよい原則を発達させるのを手伝うことができたら、私たちはその人に善を行なう力を与えたのです。そのお返しに彼らは同じよい影響をまた別の人に与えるでしょう。こうして何百、何千という人がわたしたちの無意識の影響力によって感化を受けるのです」
わたしたちは意志をキリストに委ねる場合、それはいくつかの要素の結果であることを学んで来ました。最初の段階は惰報であり、それを基礎にして確信が生じます。しかし、人が確信に従おうと強く個人的に願望するとき、積極的行動に移ります。伝統的にセブンスデー・アドベンチストの訓練は人々を確信に導くことの重要性を強調して来ました。しかし願望を呼び起こす技術は無視されていました。
以上3章を用いて私たちはいかにして願望を目覚めさせるかを考えてきました。それは正しい行動にともなう利点を示し、間違った行動の結果を示すこと、または家族や友人の期待によることを学びました。伝道の原型ともいうべきものがもう1つの原則です。「最も重要なお方」と呼ばれるこの原則は他の原則に生命を与えます。
第7章 最も重要なお方
ケンブルトン・ウィギンスは彼の『救霊が簡単になる』という本の中で、彼が「認識の首尾一貫性」と呼ぶものについて議論を進めています。この原理とは、個人が新しい考えを提示されたとき、彼のうちに新しい観念を吸収する前に、必ずすでに彼のうちに存在する信念とある種の首尾一貫性を見出そうと試みるものだと、断言するものです。このように多くの人は摩擦や思想の緊張をもたらすので、変化に抵抗する傾向があります。しかしながら一旦新しい願望に目覚めると、自分でしなければならないとわかっている変更に抵抗すれば、より大きな緊張が感じられるのです。この点において人々は何もしないことにより、彼らの良心との間に衝突を感じるのです。それは彼らの願望が活動をしている結果です。
キリスト教と認識の首尾一貫性
例えば、7日目の安息日の使命を聞いて、ある個人が生活のスタイルの変更について検討を始めるとき、何らかの緊張を経験するに違いありません。しかし彼が自分の生活を完全にイエスに委ねていれば、そして、安息日を守ることと、キリストに対する愛を示すことの間に強い関連があることを感じていれば、安息日の使命に抵抗する方がより大きな摩擦を経験することでしょう。そういうわけで、イエスと彼自身との間の摩擦を小さくするために、安息日を拒絶するよりは、それを受け入れる方が容易なのです。
このように、認識の首尾一貫性には3つの段階があります。(1)あなたが聖書研究している相手の心にイエスに対する深い愛を育てる。(2)信仰の試験となる真理は、イエスにとっても重要なものであり、あなたがそれを受け入れ、その真理に基づいて行動するようにと、イエスも期待しておられることを強調する。(3)真理に抵抗することは、教理に抵抗することでなく、実際はその教理の源であるイエスに抵抗することであるということを示す。ひとりの人が教理として安息日を拒絶することと、創造主としてのキリストを拒絶することとは全く別の問題です。教理としての健康の原則に抵抗することと、清い身体に聖霊を通して住みたいと望んでおられる方に抵抗することとは全く別の問題です。
ある人が清くない食べ物を断念することに抵抗している所に、私が訪問したと仮定します。私は神が清くない食べ物を断念することを望んでおられることを示す聖句を全部、彼のために読んであげることもできます。しかし、おそらく彼はすでにそれらの聖句に確信をもっていることでしょう。だから彼は悩んでいるのです・聖書の勧告を受け入れるとき、食卓の前に座り何年も築いて来た型を急激に変更するように要求されます。こうして摩擦が生じます。その摩擦から彼を解放することが私の仕事です。そこで私は次のように彼にいいます。
「○○さん、今晩主がこの場所においでになって『私を愛していますか』とあなたにたずねられたと想像してください。私にはあなたが『おお主よ。私はあなたを深く愛しています』というに違いないことはわかっています。そこでイエスが『私のために清くない食べ物を断念するほど私を愛していますか』と重ねてたずねられたら、実際にこの場所にイエスがおいでになってあなたに質問されたら、あなたは何と答えますか」
彼はすぐに返事をしました。「もちろん、答えは決まっています。私は主に、あなたがやめるようにいわれるものならなんでもやめます、と答えます」
私は続けました。「主があなたに語られたことばが、コリント第一の手紙3章17節にありますから聞いてください、『もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう』。神はあなたが完全に服従することをコリント第一の手紙10章31節で求めておられます、『だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである』。またコリント第一の手紙6章19、20節のあなたへの個人的使命をお聞きください。『あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい』」
この聖句は、イエスご自身から、あなたに対することばです。主は天からあなたへ大切な通信をするのに聖書を使っておられます。あなたは「愛する主よ、あなたが個人的に私に清くない食物だから食べないようにすすめてくださったので、そして私は主を愛しているので、私はそれに従いたいと思います」と主にお答えしたいと思いませんか。
使徒パウロはこの原則を自分自身の生活ではっきりと示しています。
「けれども、私は、自分に益を与えるものであったような以前持っていたもののすべてを、キリストのために、私にとっては(一括して)損失であると考えるようになりました。
それどころか、私は、私の主キリスト・イエスを知る <だんだんとさらに深く、さらに親しく彼を知るようになるくさらに十分に、さらに明白に彼を知り、認識し、理解する> という貴重な特権 <圧倒的な価値、絶大な値うち、至上の利益> を得た[ため]、それに比べて、すべてのものを損失と考えるようになったのです。この[かた]のために、私はすべてのものを失いましたが、それらすべてをただの廃物 <くず、かす> と考えています。それは、私がキリスト <油そそがれたかた> を獲得する <得る> 者になるためであ」る(『詳約聖書』ピリピ3:7、8)
人々が決心するときの主な動機は、イエス・キリストが天を離れて、人々の間に幕屋をはり、完全な生活を送られて、崇高な愛の行為として十字架に釘でうたれたという事実です。十字架のイエスが魅きつけるのです。彼が罪の束縛を打ち破ってくださいました。
イエスご自身が、「そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」(ヨハネ12:32)といわれました。エレン・ホワイトは、「第1の最も大切なことは、私たちの魂を和らげ、服従させて、罪を許してくださる救い主イエス・キリストに差し出すことです」。 (『教会への証』6巻53、54ページ)。更に彼女は、「教理の単なるくりかえしでは何一つできないときに、キリストのすばらしい愛は心をとかし、これを従えるのである」 (『各時代の希望』下巻376ページ)とつけ加えています。
S・D・ゴードン博士が、年令が記憶に影響を与え始めたあるクリスチャンの老婦人のことを話してくれました。かつては暗唱聖旬をたくさん覚えていたのですが、みんな忘れてしまい、ひとつの聖句だけ残っていました。それは「なぜなら、わたしは自分の信じてきたかたを知っており、またそのかたは、わたしにゆだねられているものを、かの日に至るまで守って下さることができると、確信しているからである」という聖句でした。しかしそれさえも、少しずつ記憶からこぼれて行って、彼女は静かに、「そのかたは、わたしにゆだねられているものを」と繰り返していました。
ついに、この世界と永遠の世界の間の境界線を、さまよい始めましたが、彼女を愛する者が彼女の唇が動いているのに気がつきました。彼女が何かを欲しがっていると思って、彼らは彼女の上にかがみこんで聞き取ろうとしました。彼女は聖句のうちのひとことを繰り返し、繰り返していっていたのです――「そのかたは」「そのかたは」「そのかたは」。彼女はその記憶から聖書全体を失ってしまいましたが、ひとつのことばが彼女の注目をひいたのです。ひとつのことばが、彼女に霊感と希望を与え、そのひとことで彼女は、キリストがすべてのすべてであるという聖書の最も重要な真理を理解したのです。
イエスが最も重要なお方である
イエスが最も重要なお方であるという訴えは、提示されるどの教理に対しても強力な動機づけをします。人は隣人が1つのことを彼に要求し、上司が又別のことを希望し、妻がまた別のことを求めるとき、圧力を感じます。しかしイエスは最も重要なお方です。彼は他のだれよりも価値のある祈りをなさる方です。ひとりの人が他人を喜ばせることと、聖書の真理に従うこととの間でためらっているとき、イエスを自分の人生で最も大切な方であると認める場合に限って摩擦が生じます。この点を訴えるため、私は次のようにたずねます。「○○さん、あなたの人生で1番大切な方はだれですか。あなたのお父さんですか。お母さんですか。あなたのお姉さんですか、それともお兄さんですか。あなたのご主人ですか、それとも友人ですか。世界中の何ものよりも大切なのはどなたですか」。そして彼女が答える前に私がつけ加えます。「彼らの勧告をイエスの勧告と比べてどちらが重要だと思いますか」
ほとんどすべての場合、相手の人はすぐに、「ええ、私の人生で一番大切な人はイエス・キリストです」と答えます。そこで私の訴えは更に続きます。「もしほんとうにイエス・キリストが最も大切な人でしたら、主が安息日を守るようにいわれたら、主に従いたいと思いませんか。主が『もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである』といっておられます。あなたは主に完全な服従をあらわしたいと思いませんか。あなたの人生で最も大切なイエス・キリストがバプテスマを受けることによって、完全な服従をあらわすように招いておられます」
この訴えによって、イエスという最も重要なお方が、すべての決心の源として高められます。
この点を強調することは、特に何年間もクリスチャンとして回心した生活を送って来られた人々に有効です。彼らはキリストと共に歩み、主の声を聞き、主のみ旨を知るため聖書を学んできたのです。イエスが要求しておられるという訴えは、イエスを彼らの人生の最も重要なお方と考えている彼らにとって決して無視できないのです。
救霊者の働きは、病院の受付係の働きと似ています。彼女の目標は患者を手術することではありません。むしろ患者を知識と技術があり、手術の方法を理解している医師のところへ連れて行くのが彼女の仕事です。彼らを医師に紹介するのが彼女の任務です。同じように私たち救霊の働きをしている者の目標は人々をイエスのもとに連れていくことです。そして彼らに、彼らが何を願うかでなく、主が彼らに何をさせたいと思っておられるかを示すことです。それによってキリストの意志を人生において最高のものとし、自分の意志でなく、キリストの意志を選ぶのを手助けすることです。彼らがキリストを最も重要なお方とするのを手助けし、主の影響が地上の何ものにもまさって大きなものとなるようにすることです。
第8章 明確になって納得する
エドは明らかに困惑していました。私が説教の中で語ったひとつのことが、彼の聖書の理解と衝突したのです。彼はキリスト再臨の方法、安息日、死後の状態、健康の使命など聖書の主要な教理については質問がありませんでした。彼は私がユダについて述べた小さい点にひっかかりを感じていました。キリストの神性と十字架に関する説教の中で私は何げなく、ユダはイエスを裏切った後、首吊り自殺をし、ロープが切れて、彼は下の岩の上に落ち、死にました、と話しました。集会が終るとエドはたくさんの質問をもって会場の出口まで大急ぎできました。「ユダが落ちたと聖書のどこに書いてありますか、聖書からの根拠もなしにあなたはなぜそんなに確定的なことをいわれるのですか」。次の集会が始まるまでの15分間、私たちはエドの質問した問題について話し合いました。私が使徒行伝1章18節を読むと彼の顔色が変わり始めました。彼は明らかに驚きの表情で、「彼は不義の報酬で、ある地所を手に入れたが、そこへまっさかさまに落ちて、腹がまん中から引き裂け、はらわたがみな流れ出てしまった」との聖句を聞いていました。ほんとうに残虐なお話ですが、私たちの集会に対して、しっかりした聖書の根拠によって改めて確信したのです。
その夜、そのあとで私は会衆に、キリストにあなたの生涯を完全に献げるように訴えたとき、エドが真っ先に立つのを見て、感動を覚えました。そして人々が決心をするときの基本的な原則を学びました。
人間の心は彼のうちにすでに存在する考えと調和できない新しい情報は、たとえそれが1つの小さいものであっても、その情報をもたらした人に対する信頼を破壊するように構成されているということを学びました。エドの心に宿った疑問は小さいものでしたが、それが取り払われてすっきりしない限り、私に対する信頼は損なわれてしまうのです。もしあなたが聖書の教理を伝えただけで、あとは最後の大詰めになれば「すべてのものは、はっきりするでしょう」と思っているなら途中で何人かの求道者が失われてしまうことを覚悟しなければならないでしょう。もし答えてもらえない疑問が心のうちに蓄積していくなら、その人は、ほとんど確実に聖書研究や伝道集会に対する興味を失い、そのように自分のうちにある考えと衝突するような考えを示す人に対して心を閉ざしてしまうでしょう。そういうわけで、そのような質問がたとえ重要でないと思われても、ひとつひとつをきちんと解決するということは絶対に大切なことです。
真理は漸進的である
「明確になって納得する」というこの原理は、新しい教理が提供されたとき、聞き手の心によってその新しい教えが、明確になり、裏付けができるまではその真理は受け入れられないことを教えています。真理を提示するものは、1つ1つの新しい段階で、聞き手がその使命を受け入れたか、拒絶しているかを確認しなければなりません。そして相手が新しい観念を彼の現在の価値観の体系の中にどのように組み込むかを見届ける必要があります。もしそれがなされていないと、抵抗が次第に積み上げられてついに、拒絶するようになるでしょう。真理は漸進的なのです。
箴言は次のような金言をのべています。「正しい者の道は、夜明けの光のようだ、いよいよ輝きを増して真昼となる」 (箴言4章18節)。この原則は永遠です。神は真理を受け入れる者の道に光を与えて、ますます輝きを増し加えられます。ぼんやりとした、首尾一貫しない真理は、進歩の妨げになりますが、明確に理解できる真理は神のみことばを更に理解するための踏み台になります。
エレン・ホワイトは漸進的決心の「明確になって納得する」過程を全著作を通じて強調しておられます。彼女は次のように書いています。
「魂を見守り、彼にみことばを伝える牧師の上に神聖な責任が負わされています。彼は魂が真理の光の中を歩むのを妨げている困惑や問題を発見し、彼らの魂に関心をもたねばなりません」 (『レビュー・アンド・ヘラルド」1892年8月30日号)。
例えばもしあなたが、相手の人が安息日を守ることを何が妨げているか知らないで、十回訪問したとしても結論はでないでしょう。彼を獲得しようというあなたの努力は空を打つようなものです。少なくても相手の直面している妨害を取り除かない限り、彼を決心へ導く力はありません。その後、示される主題は一層曇って困難に思われ、新しく示される思想は、彼の頭脳を攻撃し、すでに信じている事柄と衝突し、ついには完全に拒絶するようになるでしょう。働き人が決心を妨げているものを発見し、すでに示されている真理をよりはっきりとさせるならば、彼は救霊にますます成功するでしょう。
「福音宣伝者」で、エレン・ホワイトはこの「明確になって納得する」という原則を次のように説明しています。
「多くの働き人は、彼らの助けを最も必要としている人々に近づかないため、その働きに失敗しています。聖書を手にし、礼儀正しく『何が真理であるか』とたずね始めた人々の心の中にある難問はなんであるかを学び取らねばなりません。学校で生徒を教えるようにやさしく注意深く彼らを教育しなければなりません」 (『福音宣伝者』<英文>190ページ)
イエスは魂の問題をよくごぞんじでしたので、魂に到達することがおできになりました。主の教えは彼らの状況によくあてはまりました。主は彼らの心の中にある反対もごぞんじでした。エレン・ホワイトは更に次のようにいっておられます。
「牧師は人々の心の中にある困難の性質を理解し、ひとりびとりに折にかなうことばを与えることができるようにならねばなりません」(「原稿」1893年 第4号)
診断に役立つ質問
診断に役立つ質問をする技術は反対を発見したり、これから出てくるかも知れない反対に対応するために欠くことのできないものです。キリストの再臨について聖書がいっていることを初めて聞いた人を訪問するとき、私は次のように切り出して、話し合いを通して彼らの不確実な点や、反対を発見しようと努めます。
「○○さん、ここ数週間の間あなたが聖書研究会に出席できて嬉しく思っています。研究はいかがですか」
彼らの背景について少しわかった後、私はなにげなく、「集会は楽しいですか」とたずねます。それによって彼らが聞いている時の基本的態度を評価することができます。またあなたは今まで皆勤ですかと尋ねます。大体の出席の型については予備知識を持ってはいますが、こう質問することによって、ある集会に出席できなかった特別な理由がわかるかも知れません。ある人は「水曜日は出席できないのです。私はもう1つの聖書研究会に出ています」といい、また別の人は「金曜日は行けません。私は働いていますので」というでしょう。後になってきっと役に立つ小さい情報をいろいろと得ることができます。
次に、彼らの側の肯定的なことばを導き出す方向に話題を移します。「もうお気付きと思いますが、聖書研究会では、すべて聖書から直接お伝えするようにしています。あなたはすべての教えが聖書から正しく紹介されているとお考えになりますか」
なにか1つの肯定的なことばが出されたなら、更に、話し合いを特定のものに絞って、その人が持っているかも知れない反対をのべるきっかけをつくるような会話にします。 「ついこの前、私たちはキリストがどのようにして、戻って来られるか研究しましたね。聖書がキリストの再臨について教えていることはよくわかりますか」。この場所ははっきりとさせることが重要な点です。もしジョンとメアリーが、例えば「苦難と歓喜の興奮状態」について質問をもっていたとすれば、彼らの家で聖書を開いてこの問題に答えるとてもよい機会になります。
もしこの点に何も反対がなければ、神への服従を呼びかけることによってその時間を閉じるようにします。「キリストが再びおいでになること、しかも間もなくおいでになることがわかって、心のおどる経験をなさったことでしょう」と私は始めます。「私は心の底から、そのために準備をしたいと思っています。私は自分が引き上げられて、空中で主に会い、その群に加わって『見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる」(イザヤ25:9) といいたいと思っています。○○さん、私と一緒にひざまずいて、みことばに示されている真理に従って歩む力が与えられるように、神の恵みによって主がおいでになるとき、その準備ができているように祈りませんか」
その家を去る時、私には再臨に関して2つのことを成し遂げたことがわかります。第1にジョンとメアリーがこの真理を受け入れたかどうかがわかります。第2に、その真理に服従するよう彼らを招待しました。「明確になって納得する」のです。
安息日の問題を扱う時、私は最初に安息日の真理を示した時はそれに従うようにと招待しません。この主題はしばしば全く新しいものであり、この真理を受け入れるということは仕事や生活の型に重大な変更をしなければならなくなるので、私はもっと長い時間、聖霊が働くための時間をとり、訴えは2回目の研究後に延ばします。
後になって私は3つの特別な質問をします。この時点で大切なことを申し上げますが、このような質問は、その家に入るやいなや、いきなり暗唱して来たことばを連発するようにたずねるものではありません。このような質問はお互いに温かい関係が確保され、心を開いてお互いに気持ちが通じるようになってからたずねるべきです。これはその働き人が伝道集会をしていても、家庭聖書研究会をしていても同じです。
- 予備知識 「あなたがたは以前に聖書の安息日について聞いたことがありますか」とたずねます。しばしば予期してなかった答えが返って来ます。「ええ、何年も前に日曜学校に行っていたころ、十戒には安息日は7日目と書いてあるのに、なぜ1日目を私たちは守るのだろうと不思議に思っていました」。「私の家には『家庭で聖書を読む』という本があって、それには聖書の安息日について書いてありました」。また、別の人は、「私の祖母はアドベンチストで安息日を信じていました」と答えます。またある人は「私は今まで一度も安息日について聞いたことがありません」と答えるでしょうが、その答えもまた同じく非常に重要です。
- 理解 「聖書の安息日について何か質問はありませんか。安息日についてはっきりとわかりましたか」とたずねると、ほとんどの場合、だれかが、仕事や、家族、友人に関して、正直な心配を告げるでしょう。彼はおそらく、彼の愛する者が、生きている間50年間も日曜日に教会に通っていたことを考えているのでしょう。これは家庭で、十分な時間を取って優しく、しかし効果的に答えなければならない問題です。
- 服従 「あなたは聖書の安息日を守りたいと考え始めたことはありませんか」とたずね、もし答えが肯定的であれば、私は彼らに直ちに安息日を守り始めることをすすめます。もし答えが肯定的でなければ、私は「もしイエスが今日、この場所においでになって、あなたに聖書の安息日を守りますかとたずねられたら、あなたは喜んでそうなさることでしょう。きっとあなたは主を喜ばせたいと思っておられることと思います。そうではありませんか。ひざまずいて、主にあなたが何をなすべきか、みことばをもって示してくださるよう祈りましょう。○○さん、この事はあなたにとって新しいことであることはよくわかります。しかし神のことばがその通りに語っていて、主もそのように教えておられたら、あなたはそれに従うと思います。そのことを今イエスにお祈りして申し上げましょう。そうしたいと思いますか」
その祈りを閉じる時、私は○○さんの手を握ってあなたがたが喜んで真理に従うことを感謝しています、集会には是非引き続いて出席してくださいといいます。そこを去る前に、この主題についての読み物を貸してあげます。例えば、『サム・ブラウンの回復』とか『驚くべき事実、だまされてはならない』などです。
このように3つの質問を効果的に使うことにより、彼らの安息日に関する予備知識を知ることができます。すでに持っている反対について答えることによって、この新しい主題が、彼らにとって「明確になって」来ます。これが基本的で漸進的な決心の過程です。
7つの主な決心
上記の質問や対話は、あなたがある人をセブンスデー・アドベンチストにするためにどうしてもしなければならない7つの決心について応用できます。受け入れと服従を含む、「明確にしなければならない点」は次の通りです。
- 聖書の霊感と、聖書がイエス・キリストを世の救い主として啓示していること。
- キリストの再臨の時、主に会う備えをするためのキリストの特別な使命
- 聖書の安息日を含めて、キリストの律法に完全に服従するようにとのキリストの招き
- 神の宮としてわたしたちの身体を大切にし、アルコール、煙草、清くない食物をさけるようにとの神の願い
- 世界に広がりつつある心霊術とは逆の、死後の人間の状態に関する聖書の教え
- 残りの教会のしるしとしての聖書と預言の霊と、その2つが示している標準に従って生活したいという願い
- キリストを受け入れ、地上におけるキリストの教会の一部になることのしるしと保証としてのバプテスマ
聖霊によってこれらひとつひとつの主な教理を受け入れるように導かれるとき、日々成長して、「ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至る」(エペソ4:13)のです。イエスに人々を導く過程というものは、連続の集会の終わりに、「使命の完全セット」とラベルが貼ってある箱を手渡すようなものではありません。そのような箱は重過ぎるし、複雑すぎるし、1度に受け入れるには困難です。むしろ効果的救霊の方法というのは、研究者の体験と、理解に合わせて、研究の進み具合に従って、小さい箱を、前の主題か「明確になって納得する」のを見届けてから、1つずつ渡す方がよいのです。
第9章 アピールのことば
成功している救霊者はことばの用い方にも神経を使っています。独りよがりの救霊者は、宗教的ことばやきまり文句をペラペラ話して、彼らが働いている対象の人たちはひとりひとり違った個性をもっていることを全く考えていません。ひとりひとりの聞き手は独特の知覚をもっていることを覚えねばなりません。それを用いて彼を獲得するのです。それを無視すれば彼を失ってしまいます。
3つの知覚の器官
人間の行動を研究する学者は人々を次の3つの分類に分けます。視覚、聴覚、運動感覚の3つ型です。視覚型人間は心の中に問題解決の絵を描いて解決します。彼らの分析的思考の過程は視覚型なので、スライド、図表、グラフなどによく応答します。彼らが休暇について考えるときは、浜辺でくつろいでいる自分の姿と、砂浜と水面にきらきら輝く太陽の光を見ているのです。彼らの心はいつも絵を見ており、絶えずフィルムのリールをまわしているのです。
一方聴覚型人間は、彼らの思考の型を音の様式にして構成します。主人は妻が語っているのを聞いており、上司が彼に大声でいっているのを聞いており、子供たちが遊ぶ声を聞いています。彼が休暇について考えるときは、木陰に腰をおろしている自分の姿とか浜辺でぶらぶら歩いている自分の姿は見ません。しかしラジオからの甘い音楽を聞き、岩にあたっては砕ける波の音を聞きます。彼を支配しているのは聴覚―聞くことなのです。
運動感覚型人間の主要な様式は触覚を中心にしています。それは背中をたたくこと、抱擁すること、固い握手などと密接に関係があります。彼らが休暇について考えるときは、彼らの身体を包み込む太陽の暖かさと、大洋に飛び込んで身のしまるように感じる水の冷たさなどを思います。
普通、人々はこれら3つの型の1つだけを感じるということはありません。しかし私たちは、この3つの感覚のうちのいずれか1つの分野で基本的な行動をするという強い傾向があります。このことの救霊の働きへの適用は明らかです。視覚型人間に対して効果的方法はテープレコーダーでなく、幻灯機を用意することだということがわかります。
イエスはこの3つの感覚を用いられた
主はご自分のまわりの人の個性に完全に波長を合わせられました。イエスはいろいろな人にいろいろな方法で到達する能力をお示しになりました。
視覚型の人と会話をなさる時は、彼の使命を豊かな色彩で描かれました。彼は羊飼いが羊を捜しに出かける話とか、畑の中の宝を捜す男の話とか、放蕩息子の父親が涙でほほをぬらしながら息子へかけ寄る話などなさいました。彼らが聞いていると、福音の使命がパノラマのように彼らの目の前に展開し、心の琴線に触れるのを感じました。
ニコデモと話す時主は聴覚型の訴えをなさいました。パリサイ人としての背景をご存じの主は、彼が律法の朗読に、耳を傾ける習慣があるのを、ご存じでした。主は「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない」 (ヨハネ3:8)といわれました。イエスは嵐の前にさわさわとなる木の葉の音をニコデモが聞いているのを、ご存じでした。彼の家のまわりを風がささやきながら通るように、聖霊が彼の心に語りかけるのをニコデモは聞いたのです。
井戸のそばの女は、6人の夫を持ちながら、愛の接触を感じることができませんでした。イエスは彼女の一番中心に触れる方法をご存じでした。彼女の感覚に訴えて、主はただ「水を飲ませて下さい」といわれました。彼女は渇きの感覚を知っていました。彼女は乾いた埃っぽい荒地を歩いて来て、土の器を暗い冷たい井戸の中におろしたのです。それでイエスは運動感覚的印象によって、福音の力と活力を彼女に示されたのです。「(あなたは)またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがない」 (ヨハネ4:13、14)といわれました。
同じように、20世紀の人々に神のことばを分かち、福音を伝える時、わたしたちの伝え方をあつらえることができます。公衆に向かって話す場合、この3つの感覚の型を用いるべきです。なぜなら、その中に必ず3つの型の人がいるからです。個人に向かって話す場合、最初は3つとも用いて、相手がどの型に一番反応を示すかを見ながら、最も効果のあるものに焦点を合わせて行きます。
視覚型人間に訴える
視覚型人間に話す場合、私の使命のうち絵画的部分を強調します。
「イエスが十字架でお亡くなりになる様子を心に描いてください。彼の手には釘が打ち込まれ、彼のほほには血が伝わっています。彼の目を見上げるとき、あなたの全生涯を彼に献げるよりも大切なことがあるでしょうか」
「安息日にあなたがバプテスマを受ける時、主の顔に浮かぶほほえみを想像してください。父なる神のみくらのまわりに集まった天使たちが、あなたのバプテスマのあかしをしている姿をみてください」
「天国の門を入って、黄金の通りを歩くのはどんな様子でしょうか、想像してください。天国の豪華さ、輝いている花、水晶の流れ、真珠の門を考えてください」
聴覚型人間に訴える
聴覚型人間には、使命を音の感覚と結びつけて伝えます。
「キリストが今日、あなたを呼んでおられるのが聞こえませんか」
「栄光の天使が声高く歌い、澄んだトランペットのファンファーレが鳴り渡ります。その音はあなたの心にどんなにか喜びをもたらすことでしょう」。
「イエスが、 『良い忠実な僕よ、よくやった』といわれるみ声に耳を傾けてください」
運動感覚型人間に訴える
運動感覚型の人間に訴える時は次のようにします。
「あなたがイエスに服従するなら、和解と平安を受け、すべての人が求めている内なる満足を得るでしょう。あなたが長い間求めて来た平安の感覚があなたのものになるのです」
「今あなたがする決心はあなたをイエスの道に導くでしょう。そこであなたは一歩ごとにイエスの導きを感じることができ、主の手があなたの手の中にあるのを感じるでしょう」
「バプテスマの時、水があなたの上をおおう時、罪がおおわれ、清められ、すべてのとがが取り去られるすばらしい感覚を経験するでしょう。あなたはあなたの背骨を電気のエネルギーが流れるような感じはないでしょうが、キリストのみ腕があなたをかかえるのを感じるでしょう。主の抱擁の暖かみを感じることができるでしょう」
イエスはひとりひとりを他の人とは異なったものとして創造されました。ひとりびとりはそれぞれ異なっている自分の環境のもとに成長します。このように背景が異なっているのですから、接近法も異なっていなければなりません。秀でた救霊者が多くないのは、他の人に訴える時、自分自身の感覚の型しか用いていないからです。だれでも自分の中に小さく自分を封じ込めてしまうのは、哀れな救霊者です。あなたは一歩自分から外に出て、他人の必要と望みの中に入り、相手と同じ感覚の型で話さねばなりません。神があなたの感覚の型を他の人の型と合わせられるとき、神にあなたを委ねなさい。そして救霊の結果が増し加えられるのを見守りなさい。
第10章 執り成しの祈りの力
マイクは困っていました。連続伝道集会の途中で、定期的に出席していた3人の若い少女が彼の所に来ていました。「私たちはセブンスデー・アドベンチストの教会をのぞきに来ていました。しかし昨日、そのことをわたしたちの牧師に話しました。今晩はもう私たちが帰って来ないということを知らせに来たのです。いただいた本や雑誌はお返しします」
その夜、マイクが伝道集会の会場から自宅へ車を運転して帰る途中、彼の考えは車の輪のようにぐるぐるまわり続けました。彼に何ができるでしょうか。少女たちを訪問すべきでしょうか。彼女たちに電話をすべきでしょうか。彼女らの決心は最終的に思われました。非常に深く心配しながら教会まで運転しました。夜の10時半でした。彼は教会の扉を開いて、真暗な会堂にひざまずきました。膝を床につけると、3人の少女の負荷が、どっと溢れ出ました。彼は神に彼女たちのために熱心に祈りました。平安が彼にやって来ました。彼は神がどのような方法で働いてくださるか、わかりませんでしたが、とにかく祈りが聞かれたことだけはわかりました。真夜中を過ぎて、被は再び車に乗り家へ帰りました。
2日のちの安息日に、教会のロビーで来訪者に挨拶をしていると、あの3人の少女が注意深く階段を上って来るのが見えました。ほんとうに驚きながら、彼女たちに挨拶しました。「お嬢さんたち、ここで何をしていらっしゃいますか」
すぐ彼女たちは答えました「あなたの教会を訪問したかったのです。かまいませんか」
それから数週間の間、神が彼女たちを伝道集会に出席させておられるのを見守っていました。間もなく彼女たちの聖書研究のクラスが始まりました。しばらくして、コネチカット州のニューヘブンの教会のバプテスマ槽に彼女たちが立つのを見た時、マイクは再び救霊の効果的力は膝から来ること、つまり救霊のための祈りから来ることを知りました。
祈りプラス信仰イコール魂
救霊には2つの重要な成分があります。ヨハネ第一の手紙5章14〜16節に、2つとも示されています。「わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞き入れて下さるということである。そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞き入れて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。もしだれかが死に至ることのない罪を犯している兄弟を見たら、神に願い求めなさい。そうすれば神は、死に至ることのない罪を犯している人々には、いのちを賜わるであろう」
この聖句は救霊の成功について2つのことを示しています。執り成しの祈りの必要と、絶対的な信仰の必要です。「祈りと信仰はこの世のどんな力もできないことをする」 (『ミニストリー・オブ・ヒーリング』495ページ)。「われわれがこのようにして求めなければ与えられないものが、信仰の祈りにこたえて、われわれにさずけられることが、神のご計画の一部である」 (『各時代の大争闘』下巻270ページ)
魂を救うことは決して、自動車の修理や、お菓子づくりのように一定の方式があって、だれでもそれに従っていれば、必ず成功する、というようなものではない。ひとりひとりは皆異なっている。基本的な救霊の原則があって、個々の状況に適用できるとはいうものの、その適用にあたっては神の知恵を必要とします。そうでなければ、心は印象を受けないでしょう。そして彼の人生は変化しないまま取り残されるでしょう。
祈りによって力を受けられたキリスト
聖書は、はっきりとキリストの力が秘密の祈りの場所から来ていることを示しています。彼は彼の魂に敵が戦いをいどんできた試練の荒野で祈られました。又、弟子たちを選ぶ目の前日の夜祈られました。身分の高い人の悪霊につかれた息子を救われた時は、その前夜一晩中祈っておられました。十字架の前にゲッセマネで祈られました。
救霊者は時々、自分たちは祈りができないほど忙しいと考えています。しかしイエスはそのように考えませんでした。
「夕暮になり日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのところに連れてきた。こうして、町中の者が戸口に集まった。イエスは、さまざまの病をわずらっている多くの人々をいやし、また多くの悪霊を追い出された。また悪霊どもに、物言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスを知っていたからである。
朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ32:25)
日没と共に町全体が、彼のもとにわいわいと、集まってきました。彼ほど忙しい伝道者が他にあるでしょうか。しかし夜忙しいからといって朝の祈りを中止なさるようなことはありません。イエスに夜、力があるのは朝の祈りがあったからです。
祈りは4つのことをする
魂のために祈ることはなぜ必要でしょうか。神はすでに彼らを救いたいと望んでおられるのではないでしょうか。私たちの祈りがなくても主はすべてのことをおできになるのではないでしょうか。祈りの科学には人間の頭脳では理解できないかなりの部分があります。これによって私たちが失望する必要はありません。電気のことが完全に理解できなくても、電気の光と熱と力の利益を受けるには差し支えがありません。1800年代の終り頃まで、ビタミンBについてほとんど知られていませんでした。しかし人々は玄麦パンを食べて、今の人と同じようにビタミンBを摂取していました。要点は単純です。あるものから利益を得るために、必ずしもそのものをすべて理解する必要はありません。
祈りの科学を完全に理解することは決してあり得ないとしても、魂のために祈らなければならない理由が4つあります。
- 祈りは、救霊の成功を妨げている私たちの生活のうちにある罪について、神か私たち
に語ることかできるようにします。
イスラエル人はアイと呼ばれる小さな町の人々に敗れてしまいました。ヨシュアがその状況のため熱心に神に祈ると、神は「立ちなさい。あなたはどうして、そのようにひれ伏しているのか。イスラエルは罪を犯し(た)。……それでイスラエルの人々は敵に当ることができず、敵に背をむけた」 (ヨシュア記7:10―12)と答えられました。神の民のうちに罪があったので、神の力は制限されてしまいました。神はヨシュアが祈ったとき、その機会を用いて、ヨシュアに罪について語られました。
私たちが、他の人のために祈ろうとするとき、イエスはしばしば、ほんとうに祈りが必要なのは私たち自身であり、私たちこそ、主とより親しい交わりが必要であることを印象づけられます。祈りの雰囲気のうちに、救霊をてこの支点にして、イエスはてこでもって私たちの生活から罪を押し出そうとなさいます。私たちは「おお主よ、私は今まで自分をそのように見たことはありませんでした。もしそれが私の真の姿であれば、私の激しさ、私の嫉妬、私の誇りが主と私の間を妨げているのであれば、どうか主よ、それを取り去ってください。主が私を通して効果的にあかしをし、救霊ができるようにしてください」と祈ります。祈りのうちにイエスは、主がわたしたちを通して働かれるのを妨げている私たちの態度を示してくださいます。 - 祈りは私たちか祈っている事柄に対する願望を一層深くします。
私たちは今すぐ聞いて頂きたいという気持ちで、祈りますが、主はすぐには私たちの人生に介入なさいません。これには理由があります。それは、私たちがある魂のために主と共に熱心に、主と調和して働くためです。ある人の救いのために祈れば祈るほど、私たちはもっとそれを望むようになります。それを望めば望むほど、その人に到達する独創的機会を求めるようになります。 - 祈りは私たちを聖なる知恵に触れさせる
霊を救うほどにほんとうに賢いただひとりの方は神のみです。「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、……神に、願い求めるがよい」(ヤコブ1:5)。イザヤ書50章4節にはイエスについて預言者に、「主なる神は教をうけた者の舌をわたしに与えて、疲れた者を言葉をもって助けることを知らせ」と書いてあります。イエスのみが教えをうけた者の舌を私たちにくださいます。主が人々にいうべき正しい言葉を示されます。主の知恵がなければ、たとえ鍵があっても、どの鍵がどこ北合うかがわかりません。ひとりひとりの心に合わせて正しい鍵を選び、福音の宝を受け入れるために扉を開かせるのはキリストの知恵です。 - 祈りによって、神は私たちか祈らない時よりも、もっと力強く働かれる。
ダニエル書10章はダニエルの祈りが天に昇ってから3週間もはっきりした返事がなかった時のことを記録しています。しかし3週間の後、ガブリエルは、ダニエルに、クロスの心のために大きな戦いがあったことを説明するために来ました。悪天使が善天使を滅ぼして、クロスを暗黒のうちに閉じ込めようとしました。ダニエルは祈りましたが、戦いは激しくなりました。ついに、イエスが降りて来られて、悪天使を打ち倒し、クロスにはっきりと知性を用いて決定をするよう機会を与えられました。イスラエルの民は自由に行くことをゆるされ、ダニエルの執り成しの祈りは聞かれました。
私たちが祈る前に神は人々を救うためにあらゆることをしておられるのではありませんか。その通りです。しかし、ダニエルがしたように、私たちが祈るとき、神はそれまでになさることができた以上のことをなさることができるのです。善と悪の戦いにおいて神は自発的にご自分に制限を設けておられます。神は、人間の自由意志を犯さないことを選択なされるのです。ひとりの人間の心が別のことを祈るとき、祈りがない時に比べて劇的な働きを人々の心に対してなさることができるのです。
明確に祈る
この魂のための祈りは個人的な働きです。それは単に祈りのリストを見ながら、大急ぎで100人もの名前をあげれば何か魔法が行なわれるというようなものではありません。動物のお産にはいろいろな型があって、豚のようにたくさん子が生れるものがあります。例えばコモリネズミの場合1度に1ダースまたはそれ以上生れます。しかし、人間の場合は違います。たまには、双子、3つ子、4つ子がありますが、普通人間の場合1人です。救霊も同じで、あなたが魂を救いたいと思えば、まず一人から始めてください。
魂のための祈りについてヨブの勧めをお聞きください。「どうか彼が人のために神と弁論し、人とその友との間をさばいてくれるように」 (ヨブ16:21)、ジョン、ジョセフ、メアリー、アリスの特別な必要のために神に祈り、神と弁論するのが、私たちの働きです。サムエル記上12章23節には「また、わたしは、あなたがたのために祈ることをやめて主に罪を犯すことは、けっしてしないであろう」とあります。あなたは祈りのリストを持っておられますか。そのリストには祈りのうちに神のみ前に提示する人々の名前をのせていますか。救霊は神の働きであって、人の働きではありません。祈りは私たちの心と頭を開いて、聖霊の働きのための水路とします。
グループの祈り
魂のための祈りと共に、マタイ一八の一九、二〇のイエスの勧告に注目しましょう。
「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは3人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。
エレン・ホワイトは次のようにつけ加えています。
「なぜ、2、3人の人が集まって特別なある1人の人の救いのために神に祈りをささげ、更に次の人のために祈りをささげないのでしょうか」 (教会への証7巻21ページ)。
このような小さな祈りの組が成功する伝道の基礎をつくります。回心の働きは自然の働きでなく、超自然の働きです。セールスマンは、相手を説きふせて新車を買わせます。広告会社は新しい服を人々に買わせます。不動産屋は魅力的な新しい家に興味を持たせるでしょう。このように販売をしている人は、販売の技術を用いることによって結果を得ることができます。彼らは自分たちの製品を売ることができます。キリスト教の牧師も人々を教会に加わるよう説き伏せることはできるでしょう。しかし神のみが、真の魂の回心をもたらすことができるのです。成功している伝道には祈りの働きが含まれています。
第11章 習慣というハードルを越えさせる
メアリーとジョンは顔に深い苦痛をあらわしながら、私の前に腰掛けていました。先に口を開いたのはジョンでした。「再び生れるとはどういう意味ですか。聖書をどのように理解しておられますか。新生とは何ですか」
質問に火がついたように矢つぎばやに発せられるのと、ほとんど同時に、煙草に火がつけられ、間もなく部屋中煙だらけになりました。ジョンとメアリーは、連続の伝道集会に、全部出席し、新生について何時間も聖書研究をしていました。もし、研究をしていなければ、彼らの質問を普通ではないなどと考えなかったに違いありません。「私たちは今、キリスト教に関するものをすべて受け入れようと決心するところに来ました。私たちはどのように回心するのか、新生とは何を意味するのか、わかりません。読めば、読むほどわからなくなるのです」とジョンは強調しました。彼はそういいながらまたもう一本煙草に火をつけました。
私たちは話をすればするほど、聖書を1年以上も学んできたジョンとメアリーにとって1番の問題は、回心や新生など、聖書の教えが知的に理解できないということでなく、煙草の習慣に勝利できないということであることにだんだん気づいて参りました。それで私は「あなたがたが今直面している一番大きな霊的問題を聞かせてくださいませんか。神との完全な関係に入れなくしている一番の問題は何ですか。神との関係の障害になっているあなたの生活の習慣はありませんか」とたずねました。
ほとんどためらうことなく、ジョンは煙草の箱を自分の横に置きながら、「私たちの煙草です。私たちはやめたいのです。やめようと努力もしました」と答えました。
メアリーも真剣な顔でうなずきながら、「私たちはやめられないのです」といいました。
明らかに挫折感を感じていました。ジョンとメアリーは、新生の知識に関する知的な苦しみでなく、根深く、なかなか断ち切れない習慣に勝利できない挫折感を感じていたのです。
キリストの言葉によって行動すればいやされる
彼らと話し合ったとき、改のような思想を伝えました。
「ジョンとメアリー、あなたがたの問題は深刻です。しかし新約聖書を勉強すれば、あなたがたと同じように自分の力では解決できない問題を、そして、あなたがたより更に深刻な問題をもっていた人がいたことがわかります。ヨハネによる福音書5章に、ベテスダの池のそばにいた男の物語があります。彼は38年間も足がなえたままでした。彼には望みもなく絶望していました。そこヘイエスが来て、『なおりたいのか』、ほんとうになおりたいのかと尋ねられました。私は主はあなたがたに同じような質問をなさると思います。『あなたはほんとうに煙草をやめたいのか。あなたはほんとうに煙草をやめることを選んでいるのか』と。力のなえた人は7節でいいわけをしています。『主よ……わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです』と。換言すれば、彼は『私はそうしたいのです。しかし私にはできません』といっているのです。
イエスは8節に『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』といわれました。主は『あなたの病気はいやされた。起きて、あなたの床を取り上げ、そして歩きなさい』といわれました。この男は奇跡が起る前にイエスの奇跡を起し得る力に対して信仰を、働かさねばなりませんでした。自分には自分をいやす力があると信じる信仰ではありません。また信仰が十分に強ければ、私から病気は去って行くでしょうと信じる信仰でもありません。キリストがいわれたことはほんとうだと信じる信仰です。
足のなえた男は、もしイエスがそういわれるのなら、自分は歩けると思いました。聖書によると9節に『すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った』とあります。彼はイエスのいわれたことばはほんとうだと信じました。そして彼のまわりを見るかぎり、あらゆる者が、彼がまだ病気であることを示しているときに、神のいわれたことばはほんとうであると信じ、そのように行動しました。彼がイエスのことばに基づいて行勤した時、彼はいやされました」
キリストのすべてのご命令にはそれを実行するための力も同時に含まれている
私はさらに続けました。
「メアリーとジョン、煙草をやめるためのきわめて重要な鍵があります。聖書は『信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである』(ヘブル11:3)と書いてあります。見えるものは、神が語られた言葉によってできたのです。神が『光あれ」といわれると、空に一条の光が射し込みました。神が『かわいた地が現れよ』といわれると、黒い豊かな土地が現れました。神が『鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ』といわれると、ハチドリが、前に後ろにひらひらと飛び交いました。神が『地は生き物を種類にしたがっていだせ」といわれると、馬が疾駆し、ライオンがほえました。『主が仰せられると、そのようになり、命じられると、堅く立ったからである』 (詩篇33:9)。神が語られた言葉にはエネルギーがあり、耳に聞える言葉が、手に触れることのできる物質になりました。
そして、聖書は書かれた神の言葉です。神の書かれた言葉の内にある神の命令と、神の約束には、創造の時の神の語られた言葉と同じように確実に神の力が含まれています。神が語られた言葉にはそれを実現させる力があり、神が書かれたことばを神が今語られるとき、同じくそれを実現させる力があります。キリストの一つ一つの命令にはそれを実現する力が含まれています。
キリストの喫煙者に対する命令は何でしょうか。『兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である』(ローマ12:1)。ではキリストの喫煙者に対する約束は何でしょうか。それは「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる』(ピリピ4:13)という約束です。キリストのご命令には、それに従うための力の約束が含まれています。
いま、あなたの確信はどこにありますか。『何事でもすることができる』の中でしょうか。それとも『わたしを強くして下さるかたによって』の中でしょうか。ヨハネ第一の手紙5章14節には『わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞いて下さるということである」とあります。『煙草をやめることを除いて何事でも』とは書いてないことに注目してください。そういうわけで信仰とは神がみことばに言われたことは、それを実現させる力をともなっていることを確信することです。神が、あなたを強くしてくださる方を通して、あなたは何事でもすることができるといわれるので、あなたは、神の御旨に従って決めることであれば、煙草をやめることを含めて何事でも求めれば、それが与えられるという確信を持てるのです。あなたがイエスを受け入れるとき、あなたは力を受けます。イエスを受け入れるとき、過去の許しが与えられるばかりでなく、現在と将来のために力が与えられます。
ジョンとメアリー、いまひざまずいて祈ることができます。『主よ、力をお与えください。勝利するための力をお与えください』。そのとき、あなたは力が自分のものになったことがわかります。もちろん、なおあなたには衝動もあれば、渇望もあるでしょう。ある人はそれを感じ、ある人は感じません。細胞内に蓄積されたニコチンの結果として、それを感じるかも知れません。煙草を吸うということは身体的、社会的、筋肉神経的習憤なのです。あなたは何週間か、または何か月か衝動を感じるかも知れません。ニコチンは比較的早くあなたの身体から体外に排出されるかも知れませんが、昼間、目が覚めている時は、ほとんどいつも付き合ってきた煙草に対する心理的願望は残ることでしょう。煙草は精神安定剤、楽しみを用意するもの、またあなたの神経を静めるものとなっていたでしょう。煙草に火をつけるという行為を生活の中で何よりも多く、食べることより多く繰り返して来たのです。それに対する衝動がある程度あるかも知れません。神の約束は必ず渇望を取
り除くというものではありませんが、必ず勝利を可能にしてくださいます。
池のそばにいて、イエスを信じ、完全にしていただいた人のように、私たちに見える前にイエスにある勝利を要求しましょう。ジョンとメァリー、神のことばに従って、いまひざまずいて、神に心を開き、あなたの煙草も神に屈服させ、勝利の力をお願いして、あなたが祈りから立ちあがる前に、その力が頂けるよう、信仰をもって求めましょう」。
そう言ってから、一緒にひざまずき、簡単な祈りを献げました。「愛する主よ。イエスにあって与えられる力を感謝します。勇気を感謝します。メアリーとジョンの勝利を感謝します。煙草を再びすう必要がないことを感謝します。衝動や渇望を覚えるかも知れません。しかし私たちはみことばによって勝利がすでに彼らのものになっていることを感謝します。信仰によってその勝利を賛美します。キリストのみ名によって祈ります。アーメン」。
以上のようなお話の後、次のような勧告をします。
煙草をやめ続ける7つの秘訣
- 神の約束を読み、勝利を求め続ける 煙草をすいたいという誘惑を感じたら、次のみ言葉を読んでください。(ピリピ4:13、4:19、Ⅰコリント10:13、黙示録3:20、ヨハネ1:12、Ⅰヨハネ5:14、5:4。聖書はヤコブ4章7節で、「そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう」と教えています。あなたがたはすでに自分を神に従わせています。しかし、さらに悪魔に立ちむかうことが必要です。あなたの選択の力はいつもあなたの前にあるからです。あなたの心を、イエスと、あなたに対するイエスの愛と、あなたの人生に対するイエスのみ旨とに向けて焦点を合わせることを何ものにも優先させて第1にしてください。
- 第2の秘訣はあなたのすべての煙草を焼き捨てることです。今あなたは禁煙者になりました。もしあなたのまわりに煙草があれば、容易に誘惑されるでしょう。ですから、ベッドの下、財布の中、たんす、車などから煙草を全部集めなさい。もしあなたが本気ならば、煙草をすべて焼き捨てなさい。これもまた悪魔に立ちむかうことになります。
- 水か、発酵していない果汁を1日にコップ10杯飲むこと。あなたの身体の組織にできるだけ多くの水分を入れなさい。りんご、オレンジ、ぶどうなど自分の好きな果物のジョースをたくさん買いなさい。あなたの腎臓はクリスマスと正月が一緒に来たと思うでしょう。目的は体内の毒を洗い流すことです。最初の24時間は食事を減らして、主に果物と精白しない穀類だけにしなさい。しかし果物のジュースはたくさん飲むことを忘れないでください。私たちは悪魔に立ちむかっているのです。
- 圧倒されそうな渇望を覚えたら、散歩をしなさい。深く呼吸し、頭を真直にし、肩をうしろへ引きなさい。酸素はあなたの神経をしずめ、煙草に勝利させてくれます。あなたの内側は水を浴び、外側は空気を浴びる必要があります。
- 煙草をすいたいという願望に圧倒されそうになったらシャワーを浴びなさい。シャワーをしながら煙草をすうのは恐ろしく困難なことです。初めに温かいシャワーを、後で冷たいシャワーを浴びなさい。神経がしずまってきたのを感じることができるでしょう。
- 早くベッドに入りなさい。極限状態に自分がいると感じるでしょう。平静を保つために余分の睡眠が必要です。
- カフェインやコーラ類をさけなさい。カフェインもニコチンもアルカロイドを含有しているので、カフェインは煙草をすいたいという願望を起こさせることがあります。
願いごとをやめて賛美しましょう
聖書はコリント第一の手紙15章57節に「しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである」とあります。神があなたに勝利をくださったのです。感謝しましょう。
あなたが祈るとき、「神よ、どうか私に勝利をお与えください」と祈らないでください。ある人はこの祈りを何週間も、何か月も、何年も献げながら、なお煙草をすっています。私たちのうちにあるその他の悪についても同じです。問題に焦点をあてないで、解決にあなたの思いを集中してください。
「愛するイエスよ、あなたの力が私の生活のうちにあることを知っています。すでに私に与えておられる勝利を賛美します。将来もあなたを通して勝利できることを賛美します。私はあなたのいわれることはその通りであると信じ、その通りに受け入れ、私の生活のうちにその通りに実現させてくださる主を賛美します」。願いごとをやめて賛美しましょう。
この章に示された私のメアリーとジョンに対する勧告の原理は煙草にだけ適応できるものでなく、その他の生活の悪習慣に適用できます。罪の習慣に勝利する秘訣は次の4段階に要約できます。
(1)その習慣が罪深いものであることを確信すること。
(2)キリストに意志を屈服させることにより、その習慣もキリストに屈服させること。
(3)神に屈服するとき、勝利の力が約束されていることを信じること。
(4)あなたの生活のうちに勝利を主張し、その点で神を賛美すること。
多くの人が、彼の習慣を放棄しながら、すでに備えられている勝利を主張しないため、敗北の内に苦しんでいます。キリストがすでに打ち勝っておられることを覚えてください。彼はすでに勝利しておられます。ですから、主の足もとに私の罪をおき、主がサタンに勝利なさったその勝利を私のものとして主張し、神のみ座の前に主が私のために備えられた汚点のない経歴を手にするとき、勝利が主にきます。すべての勝利は復活のイエスの力によって信仰によって私を勇気づけるためにきます。私の心は私の弱さを考えていません。私の心はキリストの心を思っています。これが勝利の鍵です。
第12章 獲得した魂を失わない
バプテスマはあらゆる霊的問題を解決する万能薬ではありません。しばしばバプテスマの直後に新しい信者は一番困難な挑戦に直面します。アドベンチストではない親類に関係のある挑戦があります。新しい友人をつくることの挑戦もあります。そして聖書の高い標準に絶えず調和して生活するという挑戦があるのです。
この危険な問題は教会として直面しなければならない問題です。多くの人がバプテスマのすぐ後に失望するということはよくあることです。彼らの間違いに対して寛容が示されず、彼らが直面している試練に対して同情的な理解がなく、もし鋭い批判的陰口が彼らの新しい信仰の祝福を破壊するなら、背信の率はあがるでしょう。新しい会員はもし彼らが孤独のうちにとり残されるなら、生き残ることを期待できません。彼らは霊的赤ん坊なのです。赤ん坊が、適当な注目のうちにいるのでなければ、彼らは死んでしまうでしょう。バプテスマは新しい誕生の象徴です。それは新しい回心者が完全に成人していることをあらわしているのではありません。そういうわけで、教会には新しい会員が成長し、キリストとより深い関係をもつように注意深く助ける責任があります。
私には4才の息子がいます。彼の誕生以後、妻と私には彼の世話をする大きな責任ができました。彼の必要を満たすため普通2回か3回夜中に起きます。おむつを交換するために私たちの時間の主要な部分をさかねばなりません。私たちの幼い息子は自分自身では何一つできません。彼がそれ程大人の注目を必要としているからといって、彼が失敗しているとは思いません。赤ん坊はそのようなものだと思われています。同じように私たちは新しい信者が、もしバプテスマの後であっても、手がかかるし、注目が必要だったとしても、彼らが失敗したと思ってはなりません。信仰の赤ん坊はそのようなものだと思わなければならないのです。時には、つまずいたり、転んだりするのです。生活の様式を変更することは難しいのです。多くの友人や親類が彼らから遠ざかって行くこともあり得ることです。彼らは温かい友情の手を非常に必要としています。彼らが成長するために必要な環境をつくるものは、親切、世話をすること、心配することなどです。
しばらく前に、リーダーズ・ダイジェストが、「人間の愛の恐るべき力」という特別記事を載せていました。それは2つの孤児院での研究でした。一方の孤児院では子供達は運動神経が普通に発達しませんでした。正しい時期にはったり歩いたりしなかったのです。単語の数も限られていて、学習も遅れていました。研究者たちが調べたところ、その孤児院では係が子供たちを粗末に扱っていたことがわかりました。彼らはその仕事が嫌いでした。彼らは義務としてしなければならないことだけしていました。子供たちはほったらかしにされ、何時間も泣くままにされていました。
そこから余り離れていない孤児院では子供たちはりっぱに育っていました。この孤児院では献身した人たちが働いていました。看護婦も注意深く子供たちの面倒をみていました。子供たちは適当に運動神経も発達していました。彼らは正しい時期にはいはいを始めたり、歩き始めたりしました。何にもまさって彼らは、愛らしく、快活な性質をもっていました。愛は違いを生じさせます。
ある人は植物でさえも、愛の雰囲気のある家ではよく育つといっています。彼らによれば、植物が感じることのできる電気の刺激が空中に放射されるというのです。愛の教会の雰囲気が成長をはげますことができるのは確かです。エレン・ホワイトは次のようにいわれました。
「新しく信仰に入った者は忍耐深く、やさしくあつかわなければならない。真理のため今までの教会の牧師の世話から切り離され、その教会の交わりから遠ざかって、私たちの教会に来た者には、助けと同情と教えの方法を見出して彼らのために実行するのが古い信者たちの義務である」(伝道351ページ)。
彼女はまた実際的指導をしています。
「個人が真理を受け入れて回心した後も、彼らの世話をする必要がある。……新しく回心した者は、いつも注意し、助け、励まして、育てる必要がある。サタンの強力な誘惑の餌登として、ひとり残されてはならない。彼らは自分たちの義務について教育され、親切に取り扱われ、導かれ、訪問を受け祈りをしてもらわねばならない。これらの魂は、すべての人に時に応じて分配される食物を必要としている」(伝道351ページ)。
新しくセブンスデー・アドベンチスト教会に回心した人々を注意深く評価したところ、新しい信者の生活には次の4つの危機があることがわかりました。これらの危機は普通最初の2年間にやって来ます。丁度赤ん坊の生活で最初が一番危険に満ちているように、回心者の生活も最初の2年が最も危険です。この時期にその後の霊的成長の型が決ってしまいます。
1.失望の危機
バプテスマの直前まで続けていた高い生活標準を維持できなくなったとき、この危機は起きます。バプテスマの時、彼は、公にそのような高い水準を捨てることをいいあらわしたかも知れません。しかし、彼は古い生活の傾向がずっと続いていることを発見します。彼はかんしゃくを起こすことがあります。安息日を破ったり、「ついうっかり」呪いのことばを出すこともあります。どんなものでも古い習慣が彼をとらえ、失望を覚えることがあります。敗北感が彼を圧倒します。自己を低く評価した彼は、自分を偽善者だと思うでしょう。彼の自然な反応として、バプテスマの前にいろいろと皆の前で約束をした教会との接触をさけようとするでしょう。アダムとエバの罪が、神の臨在から彼らを逃げるようにしむけました。今日も人々は同じようにしています。
症状
失望の危機の主な症状は、教会への欠席と社交的集会や祈祷会への出席の型が変わることです。またクリスチャン生活の快活さが失われるという症状があらわれます。教会にゆっくり残ることを明らかにさけるようになります。大いそぎの握手、失望の表情、冷淡な慣向は失望の危機を示しています。
解決
この失望の危機を通過している人は危機がすぐに見付かれば助けてあげることができます。
電話、安心させることば、祈り、簡単な手紙、牧師の光など-すべては暗黒にさし込む光となります。彼に必要なものは、けん責ではありません。彼が必要としているのは、彼の失望を感じとり、彼の問題を聞き、ほんとうの、真心からの励ましを与えることです。
2.環境への適合の危機
この危機は、人が古い友人を失い、その代わりの新しい友人ができないときに、やって来ます。教会の教理は受け入れても、まだ教会の交わりの中に適応してない時にこの危機が来ます。人間は、身体的、知的、霊的被造物であると同時に社交的被造物なので、その人が教会の社交的な組織の中に入れないとき環境への適応の危機が訪れます。彼は新しい生活のため家族からも切り離され、孤独になっていると感じているのかも知れません。
症状
この新しい教会員は遅く教会に来て、終わりの賛美歌のあとすぐに帰ります。会堂で1人で腰掛けています。教会の社交的集会にはほとんど出席しません。仮に出席しても孤独です。彼にとって宗教は、教理を信じているので、安息日の朝教会へ行くというに過ぎません。この型の人は普通安息日学校には出席しません。彼は教会員とほとんど交わりをしません。また教会に親しい友人もいません。彼は、何週間かあるいは何か月か今の状態を続けるでしょうが、教会の友人ができなければ、彼は去って行きます。
解決
この人には直ちに個人的に注目しなければなりません。教会内に友人ができるように活発な試みをしましょう。教会の社交的な集会に彼を招くため特別の努力が必要です。社交的集会に招くための電話は、手紙や、教会発表より効果があります。温かい愛に満ちた交わりと、深い個人的な関係は背信を予防する重要な要素になります。安息日の昼食会、病院、学校、ブックセンターなどのアドベンチストの機関へ皆ででかけることなどはよい治療になります。
最初の6か月間に教会を去る人の理由で一番多いのは失望の危機と環境への適応の危機です。しかし背信の潮流をここで食いとめることができます。温かい愛に満ちた交わりと、深い個人的な関係は背信を予防する重要な要素になります。
3.生活の型の危機
普通この危機はバプテスマから1年か1年半たってからやって来ます。これは個人が聖書とセブンスデー・アドベンチスト教会の価値体系を自分の生活の型に統合するのに失敗した時やって来ます。典型的なこととして、家庭礼拝を生活の予定表の中に取り込んでいないことがあげられます。食前の感謝も間欠的です。安息日の守り方も注意深くありません。今まで行っていた娯楽の場所へまだ行っています。安息日の朝は教会へ行っているのに、古い生活が彼を強く引いています。彼の体験は表面的です。福音の種は根をおろしましたが、深くないのです。彼は個人的な信仰生活を送っていません。祈りにも聖書研究にも余り時間を用いません。簡単にいえば、彼はイエスをほんとうに知ってはいないのです。
症状
この新しい教会員はしばしば安息日学校を欠席します。祈樽会にはほとんど出ません。クリスチャン経験が皮相的です。彼の生活の中で外部への働きがありません。教会の雑誌を読まず、キャンプ・ミーティングなどの教会の特別集会にも参加しません。彼は教会全般について話しますが、自分自身は教会と深い関係を持たず、はっきりした霊的成長も認められません。
解決
この危機を経験している人が一番必要としているのは、意義深い霊的時間です。彼の要求と興味に合ったアドベンチストの書藷や雑誌が彼の家になければなりません。このすでにラオデキヤのアドベンチストになった人の霊的成長をうながす刺激剤になるものは、有意義な祈りの組と、研究と、あかしなどがある小人数の聖書研究会です。6人か8人の小人数のグループでは霊的成長がより容易にできるのです。
4.指導者の危機
この危機は普通個人が、キリストと教会に対して忠誠をあらわした後にやって来ます。比較的小さい教会の場合を考えてみましょう。彼は次第に指導する立場に置かれるようになります。役員推薦委員になるかも知れません。教会の内側の働きを見るようになります。教会の「神聖な後光」が色あせて来ます。彼はすべての教会員が「聖徒」ではないことに気づきます。推薦委員会の席上で、役員に選ばれた教会員に対する率直な評価もあります。不完全な委員会の決定と機能に彼は困惑を感じます。現実の誤りの多い人間によって構成されている教会に自分も属しているという衝撃が彼を失望させます。
症状
この危機は、批評、うわさ話、委員会の秘密をもらすこと、一般的な失望感によってわかります。個人が指導者の危機を通過している時は、推薦委員会に出席していながり教会の役目を引き受けないこともあります。一方では批評の精神があり、他方では深い不安があるのです。
解決
普通の場合、この人を助けるには、教会の神聖な起源と、人間である指導者の弱さと不適格について、1、2回カウンセリングするだけで十分です。指導者の危機は、個人が、個々の教会員の「人間性」を認めるまでに霊的に成熟していないためにやって来ます。もし牧師が指導的立場に新しく選ばれた人にすべての人間のもろさを説明し、一緒に協力して行くことの大切さを教えるなら、大いに助けになります。真理が危機にさらされない限り、教会の委員会は、新しい委員のために、他に理由がなければ、個人の意見よりも一致がずっと重要です。
今まで検討して来た危機――失望の危機、環境への適応の危機、生活の型の危機、指導者の危機――をさけ、背信をさける最も大切なものは、心づかいをする愛です。「私はあなたに関心をもっています。あなたのことを心配しています。あなたについて心づかいをしています」と絶えずいう愛です。愛は、電話、簡単な手紙、ほほえみ、温かい握手、昼食への招待によって現わされ、説教よりも効果があるかも知れません。ハーレムから来た黒人の少年が、神の愛について説教している有名な説教者に向かって、足を踏みしめ、大声で「おじさん、僕は人間の皮をかぶっている愛が見たいよ」といったことばを心にとめたいものです。
救霊の働きは世界中で最もすばらしい働きです。救霊の働きでは神と救霊者は肩を並べて働きます。人生において最も大きく、最も深い喜びは神と共に働く喜びです。静かな瞑想と、神と共に過す祈りの時間が、活動的な働きと混ぜ合わされたものが、神が神に従う者たちのために計画しておられる生活です。成功に満ちた救霊の経験に今日あなたを招待します。
第13章 ただ1つのこと
本書は人々をキリストと第3天使の使命へ導き、決心させるために、欠くことのできない要素について検討して来ました。しかし、技術があなたの中のキリストに対する個人的献身から切り離されてしまえば、エゼキエルのたとえに出てくる乾いた骨のようなものです。救霊者のうちにある神の活きた霊が彼を有能な神の働き人にします。この霊に対する熱情は聖霊の内在によって生まれ、真の救霊者の特徴になっています。彼らにとって救霊は人生の数ある選択肢の一つでなく、人生の中心的目的なのです。
ジョージ・ホィットフィールドという有名な英国の伝道者は、「おお主よ、われに魂を与えよ、さもなくば死を与えよ」といいました。ヘンリー・マーチンという宣教師はインドのさんご礁の浜に立って、「ここで私を燃えつきさせてください」と叫びました。シカゴのドワイト・L・ムーディは、「わたしの救い主よ、あなたの要求なさるどんな目的でも、どんな道でもかまいませんから私を用いてください」といいました。若い宣教師の候補者ジョン・マッケンジーは、ロッティー河の河原にひざまずいて「おお主よ、私を世界中で一番暗い場所につかわしてください」と祈りました。カムストック夫人は子供たちを本国に送りながら、「主イエスよ、私がこうするのも主のためです」と祈りました。フィジー島の宣教師ジョン・ハントは死の床で、「主よ、フィジーをお救いください。フィジーの人々をお救いください。おお主よ、フィジーをお恵みください」と祈りました。
有名な宣教師デビッド・ブレイナードはデラウェアの貧しく未開なインデアンのために働きながら「私がどこに住むか、どんな困難の中を通らねばならないかは全く気にしません。ただキリストのために魂を得たいと思います。寝ている間はこのことを夢に見、朝起きてはまず最初にこの重大な働きについて考えます」といいました。
ウィリアム・ブース大将が75才の時、エドワード7世にバッキンガム宮殿に招かれました。彼は来賓名簿に次のように書いています。「陛下、ある人は芸術に大望をいだき、ある人は名声に大望をいだき、ある人は黄金に大望をいだきます。しかし私の大望は人々の魂です」。
エレン・ホワイトは『ユース・インストラクター』1893年5月4日号で、同じ思想を次のようにいっています。
「働きの中の働き、仕事の中の仕事、魂の情熱を必要とする仕事は、キリストが死をもって救われた霊のために働くことです。これをあなたの生涯の主要で大切な働きにしなさい。これをあなたの人生の特別な働きにしなさい」
魂のための情熱は、次第に作りあげるものではありません。むしろそれは上から送られるものです。魂のための重荷は個人的な成功を願う気持ちがあれば感じるものでなく、カルバリーのキリストを眺めることによって感じることができるものです。
イエスが来られるとき、男女は救われるか滅びるか、つまり、天国か地獄かしかないことを知るならば、そして、私たちの影響力が大きな力であり、他の人々の生活を変えることができ、私たちの働きを通して、他の人を救うために聖霊が更に強力に働けることを悟るならば、世界中で最も栄光に満ちている働きにキリストと共に参加したいと思うようになります。
私の友人の皆様、この本をお読みくださった今申し上げたいことは、私がお伝えしたかったのは単なる技術でなく、この活きた原則をあなたの生活のうちに適用していただいて、もっと有能なキリストの救霊者になっていただきたいという私の心の底からの熱い願いです。ただあなたの名前が教会の機関誌に優秀な救霊者として載るだけでなく、キリストと共に協力して他の人を助けていただきたかったからです。
神があなたを彼の代言者として失われた者につかわそうとされるのを感じて、この今日という日にひざまずいてイエスにすべてを献げ、聖霊に私のものをすべてお用いくださいと祈ろうではありませんか。あなたのまわりにいる失われている人々が見えるように目を開いてくださいと祈りましょう。伝道の働きで、更に大きい結果を与えてくださいと祈りましょう。魂に対する重荷を私の心に置いてくださいと祈りましょう。今あなたが、どのような場所でこの本を読んでいたとしても今すぐひざまずいて短い祈りを献げましょう。
「愛する主よ、魂に対する熱情をお与えください。イエスがごらんになったように、人々を神の国の有力な候補者として見ることができるようにお助けください。十字架の光によってこの世界で最高の働き――あがないの働きに神と共にたずさわりたいという願いを起させてください。聖霊に完全に所有されて、私のうちに他人のために効果的に働くことを妨げるものが何も残らないようにしてください。
み父よ、私と肩を並べて働いてください。私は弱く、時には失敗するのではないかと恐れるものです。しかし信仰と絶対的確信をもって、あなたがわたしを用いてくださることを知っているので、私自身をお献げします。感謝いたします。キリストのみ名によって祈ります。アーメン」
□参考文献
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Woolsey, Raymond. Evangelism Handbook. Hagerstown, Md. : Review & Herald Pub. Assn. ,1972.
第1章 決心のABC
1.イエスは、ご自分が教えられたことと同時に、ご自分の生き方を通して人々を獲得されました。あなたの個性のうちとの特質が、聖霊と共に働いて、キリストへの決心に人々を導いていると思いますか。
2.ではあなたのどの特質が、人々のキリストへの決心を妨げていると思いますか。
3.決心は個人と個人の関係に根をおろしています。だれも彼が嫌っている人を通してキリストに導かれることはありません。あなたの最近の救霊の接触を思い浮べて、温かい個人的関係をつくるためにあなたがしたことを列挙しなさい。またあなたにできたはずだと思うことを列挙しなさい。
4.ここに提案されている決心のABCを用いた時のことを思い出して書きなさい。また用いなかった時のことも書きなさい。
第2章 生命を与えるみことばの力
神が語られたみことばによって創造されたことと、人々をキリストに導く時に用いる聖書との間にどんな関係がありますか(ヘブル4:12、詩篇33:6、9を参照)
あなたが一番決心に役立つと思う聖句を10列挙しなさい。そして、それぞれに、何を教えているか、あるいはどんな疑問に答えているかを要約して書きなさい。本文の方に紹介している10の聖句でもよいし、自分で選んだ他の聖句でもかまいません。決心の聖句であって教理の聖句ではないことを忘れないでください。
そのリストに満足したら……
a、聖句と説明を書いてください。
b、暗唱してください。この次相手に決心をうながすとき、聖書のカと権威はあなたのものになっています。
第3章 頭脳の働き
1.聖書研究において、4つの決心の段階で、それぞれの段階のためにどの位の時間を研究者と共に費やすべきだと思いますか。また実際にどの位費やしましたか。
段階 費やすべき時間 実際の時間
情報 % %
確信 % %
願望 % %
行動 % %
合計 100% 100%
2.情報から確信の段階へ移るとき、まず、次のようにたずねることが経験則からいってもよい方法です。
「 」 (漢字も混ぜて9文字)
3.この章の提案に従う場合、あなたの次回の聖書研究を準備するとき、特にどの点を変えたらいいと思いますか。
第4章 願望の炎をあおる
1.現在あなたが霊的決心に導きつつある3人の名前をあげなさい。
氏名
彼(彼女)にはどの利点が一番よいと思いますか。
その利点を示すのに一番効果的な聖句はどこにありますか。
氏名
彼(彼女)にはどの利点が一番よいと思いますか。
その利点を示すのに一番効果的な聖句はとこにありますか。
氏名
彼(彼女)にはどの利点が一番よいと思いますか。
その利点を示すのに一番効果的な聖句はどこにありますか。
2.「ミニマックス」(最低と最高)理論を定義してください。
第5章 運命の選択
1.霊的決心をうながすのに、「恐怖」を用いるのが適当だと思うのはどのような状況のときですか。また不適当なのはどのような状況のときでしょうか。
2.イエスは「恐怖」をどのようにお用いになりましたか。
3.あなたがキリストのために決心をうながす時、「恐怖」を用いた結果を書いてください。用い方が足りなかったと思いますか。用い過ぎたと思いますか。
第6章 だれも自分のために生きていない
1.「期待」の原則が一番効果的に作用するのはどんな型の人々ですか。
一番効果がないのはどんな型の人々ですか。
2.この原則を用いて決心をうながした人々の名前をあげてください。
3.この章の結論は、この本が今まで教えたことを要約しています。
a、行動の3つの必要条件は何ですか。
b、願望はどんな3つの分野を中心とした訴えによって呼び覚まされますか。
第7章 最も重要なお方
1、「認識の首尾一貫性」を定義してください。
2、認識の首尾一貫性の3つの段階をあげてください。
3、SDA独特の教理、例えば安息日、死後の状態などに関する、あなたが用意した聖書研究または伝道集会の説教を1つ取り上げてください。そして第2問の3つの段階にきちんと従っているかどうかあなたの評価を書きなさい。
第8章 明確になって納得する
1、「明確になって納得する」ということばを説明しなさい。
2、この章では安息日に関する3つの診断に役立つ質問についてのべていますが、次のテーマの場合、どんな3つの診断に役立つ質問をしたらいいと思いますか。
健康
a、
b、
c、
死後の状態
a、
b、
c、
預言の霊
a、
b、
c、
3、SDAになるための7つの大きな決心があります。あなたが今導きつつある人の場合、次の主題に移る前に「明確になって納得する」段階で失敗したのはどの段階だと思いますか。
第9章 アピールのことば
1.あなた自身は、視覚型と聴覚型と運動感覚型のうち、どの型ですか。あなたは3つの型の組み合わせですが、そのうちのどれが支配的ですか。一番支配的でない型はどれですか。
2.相手の型はどのようにして知ることができますか。
3.次のうち1つを選んで、適当な聖句を選び、訴えのことばを考えてください。
a、視覚型―大学生―キリストを受け入れること
b、運動感覚型―未婚の母―安息日を受け入れること
c、聴覚型―引退した地下鉄の運転手―バプテスマ
第10章 執り成しの祈りの力
1.善と悪の大闘争と執り成しの祈りとはどのような関係がありますか。
2.祈りのグループを励ますどんな計画があなたの教会で効果をあげていますか。どんな計画を加えたいですか。
3.私が魂のために十分に祈ってないとしたら、その理由は何でしょうか。
4.私の誓い
効果的な救霊の力は、特別な人々の救いのために神に願う祈りから生ずることを信じ、毎日一定の時間を執り成しの祈りのために用いることを誓います。私は次の人から始めます。
a、
b、
c、
d、
e、
第11章 習慣というハードルを越えさせる
1.イエスが足なえの人をいやされたことと、煙草に勝利することとの関係を説明しなさ
い。
2.「キリストの約束には、それを実現するための力が含まれている」。あなた自身のクリ
スチャン経験または伝道活動で、このことを実際に体験した実例を列挙してください。またあなたが悪い習慣から勝利させるために使いたいと考えている例をあげてください。
3.煙草に勝利することは、煙草に対する渇望からの救いに依存しているでしょうか。
4.煙草から離れるための7つの秘訣をあげ、暗唱しなさい。短いことばで、すぐに答えることが望ましいです。
a、
b、
c、
d、
e、
f、
g、
第12章 獲得した魂を失わない
1.添付の「新しくバプテスマを受けた人々の記録」に記憶からできる限り記入しなさい。
2.今記入した用紙を見て、あなたの教会の新しい教会員に対する働きで弱い点をのべなさい。
3.新しい教会員を教会に引きとめるためにあなたの教会で始めたいと思うことを書きなさい。
第13章 ただ1つのこと
あなたはこの「決心」に関する本を読み、課程も終わって、決心をうながすことについていろいろと学びました。さて、あなた自身が人々に決心をうながす場合に、今までと比較してどのような点を変えようと思いますか。それを列挙してください。
1969年、牧師としての奉仕を始める。
1974年、全時間の公衆伝道者となる。
1979年、米国シカゴにレーク・ユニオン・カンファレンスの救霊研究所(Sou1-Winning Institute)が開設されると同時にその所長に就任し現在に至る。
また1977年以来、アンドリュース大学神学院のフィールド・スクールの講師もつとめている。
過去10年間に30の伝道集会を開催、いずれも大きな成功をおさめている。
牧師継続教育シリーズ・1
マーク・フィンレイ 決心
昭和62年11月15日発行
発行 241-8501 横浜市旭区上川井町846
セブンスデー・アドベンチスト教団 牧 師 会