セブンスデー・アドベンチスト教会

われらにではなく

われらにではなく

われらにではなく

世の混乱は、時として私たちに語りかけることがあります。「あなたの神はどこにいるのか」と。

同様の問いが、詩篇115篇2節にあります。「なにゆえ、もろもろの国民は言うのでしょう、『彼らの神はどこにいるのか』と」

当時、イスラエルの民は、他の国々からこのように言われていました。「お前たちの神はどこにいるのか」と。ひょっとすると、自分たちでさえ、そう感じていたのかもしれません。「神様はどこにいらっしゃるのですか? なぜ、このようなことが起こるのですか?」と。信仰が揺らぐ時です。

ところが、詩篇記者はそのような迷いを打ち消します。「主よ、栄光を/われらにではなく、われらにではなく、あなたのいつくしみと、まこととのゆえに、ただ、み名にのみ帰してください」(詩篇115篇1節)。

彼は神様に栄光を帰すことができました。詩篇記者はなぜそれほど、まっすぐに神様の栄光を讃えることができたのでしょうか。そのことを考えたいと思います。

1.自らのむなしさを認めた

「われらにではなく、われらにではなく」(詩篇115篇1節前半)。

「わたしたちの力ではありません」「わたしたちは、むなしき存在です」。詩篇記者は、自分たちの足りなさ、自分たちの空しさを認めました。世の中には、自分を大きく見せて目的を達成しようとする傾向があります。しかし詩篇記者は、自らのむなしさを表明します。するとどうでしょう。今まで見えてこなかったものが見えてきます。

「あなたのいつくしみと、まこととのゆえに……」(詩篇115篇1節後半)。

神様のいつくしみと、まこととをそこに見いだします。自らの「むなしさ」を認めたとき、人は神様の偉大さを知るのです。私たちを顧みてくださる主のご性質に心を打たれ、神様のみ名を賛美します。

2.モノのはかなさ

詩篇記者が神様の栄えを宣言できた2番目の理由は、世が頼りにしているモノのはかなさです。他国の人々が神の民に向かって言いました。「お前たちの神はどこにいる? お前たちの神は助けてくれるのか?」。しかし、そんな彼らが頼りにしていたのは、モノでした。偶像です。詩篇115篇4~8節には、このように記されています。

彼らの偶像はしろがねと、こがねで、

人の手のわざである。

それは口があっても語ることができない。

目があっても見ることができない。

耳があっても聞くことができない。

鼻があってもかぐことができない。

手があっても取ることができない。

足があっても歩くことができない。

また、のどから声を出すこともできない。

これを造る者と、

これに信頼する者とはみな、

これと等しい者になる。

モノはやがて滅びます。頼りになりそうでなりません。モノを拠り所にする者は、やがてモノと同じように手も足も出なくなるということでしょうか。確かなことは、命のないモノは命を与えることができないということです。永遠の命は、命であられるイエス様からしか、いただくことができません。「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか」(マタイによる福音書16章26節)。

3.神様との親しき関係

詩篇記者が神様の栄えを宣言できた3番目の理由は、神様と私たちとの親しき関係です。「あなたのいつくしみと、まこととのゆえに」(詩篇115篇1節後半)。記者は神様に対して「あなた」と呼びかけます。「私とあなた」(二人称)の関係は親しき関係を表しています。

イエス様はバプテスマをお受けになった後、全人類を代表するかのように、次のようなみ言葉を神様からお受けになりました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(マタイの福音書3章17節/新改訳)。

神様は私たちを「わたしの愛する子」と呼んでくださいます。私たちを、神様ご自身の喜びとしてくださるのです。詩篇記者はこの親しき神様との関係の中で、主のみ栄えをうたうのです。

ささやきテスト

「ささやきテスト」という有名な実話があります。

その女の子は生まれつき障害があり、他の子と容姿が違っていました。そのため「誰も自分など愛してくれない」と思っていました。

小学校2年生の時、レナード先生が担任となります。いつもニコニコしていて幸せそうな女の先生です。

ある日、クラスで聴力テストが行われました。離れた所にレナード先生が立ち、静かにささやきます。「空は青いよ」「あなたの靴は新しい?」

一人ひとりに小さな声で話しかけます。子どもたちは片耳を押さえ、聞こえた言葉を繰り返しました。それができたら合格です。

女の子の番になりました。そこで彼女は思いもよらない言葉を先生から聴きます。「あなたが私の子どもだったらよかったのに……」

女の子は聴こえてはいましたが、繰り返すことができませんでした。なぜなら、うれしさのあまり泣いていたからです。「大好きなレナード先生が『あなたが私の子どもだったらよかったのに』と言ってくれた」

その様子から、先生には彼女が聴こえていたことがわかりました。聴覚テストは合格です。さらに女の子は、その時、もっと大切なテストに合格していました。先生の思いを受けとめるというテストです。

神様は私たちにおっしゃいます。「あなたが、わたしの子どもだったらよかったのに」。いや、それ以上です。「今や、あなたは、わたしの愛する子、あなたは、わたしの喜びです」と。この神様のいつくしみとまこととのゆえに、私たちも、主のみ名を心から賛美しようではありませんか。

*聖句は「口語訳」聖書を使用。(©️日本聖書協会)

藤田昌孝/ふじたまさたか
横浜教会、保土ヶ谷教会牧師
1958年生まれ。1984年から7年間三育小学校教員として教育現場で働く。1994年より、函館、東京、茨城、小倉、鹿児島、大阪の牧師を務める。その間、中学校教師、幼稚園園長を兼務。2010年からの5年間は西日本教区長として責務にあたる。東京中央教会主任牧師を経て、現在、横浜教会牧師、横浜三育幼稚園園長。

アドベンチスト・ライフ2020年7月号