「使えない奴」
学生の頃、ある小売店でアルバイトをしていました。仕事内容は様々で、店内の清掃、納品、品出し、レジ打ちなど、他にも覚えることがいくつもあり、一つひとつに慣れるまで大変でした。しかし、1か月ほど経つ頃には一人でもある程度こなせるようになり、効率を上げるにはどうすればよいかを考え、楽しみながら仕事ができていました。
ある日、40代ほどのパートの女性とシフトが重なりました。その方は、あまり業務に慣れない様子で、苦労されているようでした。実はこの方、店長や他の従業員から厄介者として扱われていました。聞くところによると、仕事を何回教わってもなかなか覚えられず、ミスをするたびに他の従業員の手を借りることになり、物覚えの悪い使えない奴、そのようなレッテルを貼られていたのでした。店長や従業員たちは、本人に直接そのように言うことはしなくとも、明らかに言葉遣いや態度に表していました。
「新しく入ったばかりなのに、高橋さんは優秀だね」と言われることがありましたが、それは決して嬉しいものではありませんでした。あの人よりもできる。だから、あの人よりは偉い。そうやって人と比較する中で生み出される価値によってわたしは測られ、また彼ら自身もそのようにして自分を測っていたのでした。
誰が一番偉いか
そのような考えは、聖書の時代にもありました。
「イエスは弟子たちに、『途中で何を議論していたのか』とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである」(マルコによる福音書9章33、34節)。
弟子たちは、恥ずかしくて黙ってしまいます。彼らは議論と呼べるような中身のある話をしていたわけではなく、互いを比べて言い合いをしていただけだったのかもしれません。
イエスの弟子たちでさえ、人と比べる中で誰が一番偉いかを考えました。人が集団の中で生きるときに、これは当たり前のように出てくる話題です。そのことに関心を向けるのは、もしかすると、認められたいという願いを心のどこかに持っているからなのかもしれません。
イエスの価値観
今わたしたちが生きる社会では、能力や生産性で認められることが当たり前ですが、イエスはどうでしょうか。
「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。』そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。『わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである』」(マルコによる福音書9章35~37節)。
子どもを受け入れることは、今のわたしたちにとっては当たり前のことだと思います。しかし、聖書の時代は違いました。子どもは教育の対象として、幼い頃から聖書の律法を学ぶ機会が与えられていましたが、人としての扱いは雑なものでした。無力で無能な、使えない奴。人の数として数えられない存在です。しかしイエスは、当時そのように扱われていた子どもを抱き上げ、そして受け入れるようにとおっしゃいました。
「すべての人に仕える者になりなさい」という言葉は、どのような相手も受け入れ尊重することの大切さを教えています。わたしたちは多くの場合、人の「する」ことで相手を判断します。“To do”での判断です。もちろんそれが必要な場面もあると思いますが、イエスの価値観はそれとは異なるものです。イエスが大切にされるのは“To be”。「いる」ということです。何ができるとか、できないとか、そういったことではなく、あなたが「いる」ということを喜ばれます。存在そのものを尊重されるのです。それがあってはじめて、何かを「する」ことができます。
それだけですばらしい
わたしたちはこのことを安息日に改めて思い起こします。
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1章31節)。
1週間の慌ただしい生活の中で、学校でも社会でも、周りの人と自分を比較することがあります。時に、誰かから勝手に比較されることもあります。相対評価をするとき、わたしたちはきっとどこかで「できない自分」と向き合います。周りと比べて劣っている。なぜこんなこともできないのだろう。そう思うとき、自分の存在意義を見失うことがあるかもしれません。
しかし、神は人を創造されたとき、これ以上にないほど満足されました。このとき、人はまだ何もしていませんでした。何か特別な技術を身につけたとか、大きな業績を残したわけでもありません。ただ神によって造られ、存在していること。それだけですばらしいのだと言われたのです。
教会はこの価値観のもとに存在しています。あなたが「いる」ことが大切で、それが喜びなのです。何ができるとか、できないとか、そういったことは関係ありません。神は、あなたがいるということを喜んで、愛してくださるお方なのです。
*聖句は©️日本聖書協会
高橋祐希/たかはしゆうき
2000年、福井県生まれ。天沼教会副牧師。三育学院大学東京校舎チャプレン補佐。趣味はオカリナ演奏。
アドベンチスト・ライフ2024年4月号