ファリサイ派が神を第一にすることを拒んだ時
神を第一にすることは簡単ではありません。ファリサイ派の人々の経験から、神を第一にするということについて考えてみましょう。
1世紀初期、ファリサイ派と律法学者はイスラエルの中で尊敬されており、聖書の研究と実践を通して献身していました。モーセ五書を暗記し、その教えのすべてに従おうとしていました。神は律法を守る人々を祝福すると考えていました。
イエスは律法の中心的な原則は正義、慈悲、誠実であると教え、ファリサイ派の人々が細かい点まで律法に従おうとするあまり、これらの重要なことをないがしろにし、律法を守れていない人々を見下していると指摘しました。イエスは律法の完成者として、律法を守れていないような人々をも憐れみ、彼らを造り変えようとされたのです。
今日の教会でも、似たような光景を見ることができます。什一と献金に忠実であったとしても、律法を実践できない人たちに無関心であったら、神が喜ばれることはありません。
什一と献金が集められる時、私たちは、神を第一にするように招かれています。ファリサイ派の人々は神を第一にできませんでした。彼らの失敗はあなたに何を語りかけているでしょうか。