北米支部スチュワードシップ部部長
G・エドワード・レイド著
什一をすべて「神の倉」に
「十分の一の献げ物をすべて倉に運」べ(マラキ3:10)とは神のご命令です。感謝の念や物惜しみしない心の必要に対する訴えではありません。これはまさに正直であるかどうかの問題です。什一はもともと主のものであるゆえに、所有者であられるお方に返すようにと私たちに命じておられるのです。
什一とその用途については、聖書やエレン・G・ホワイトの勧告の中に数多く言及されています。今日多くのクリスチャンは什一の掟は依然有効であるとは信じています。ところがたびたび持ち出される質問は、
- では今日、倉はいったいどこにあるのだろうか。
- たとえ「倉」がどこにあるのかが分かったとしても、私の什一をすべてその「倉」に納めなければならないのか。
- 什一を自分の判断で一番良いと思う所に献げても良いのだろうか。
- 什一を分配する立場にある人々が責任ある態度で実行していないと私が正直に信じている場合、私の什一をどうすべきか。
- また良い働きをしている自給伝道のグループを知っていて、彼らを支援したいと思うとき、什一でもってそうしても良いのだろうか。これも福音の働きではないでしょうか。
というような質問です。
この論文の目的はこれらの疑問に対し、聖書の記録と預言の霊の勧告から解答を得ることにあります。アドベンチストとして私たちは、聖書の勧告を現代にどのように当てはめたらよいのでしょうか。この解答を得るために私はまず北米支部の服務規定を見ることから始めましょう。服務規定T 05 20に次のように書かれています。
「教団組織における地方教区のレベルが、すべての什一が送金されるべき『倉』であり、福音の働きはそこから支援されるのである。教会員にとって便利が良いように、什一は教会員が所属する地方教会を通じ、地方教区に納められる。」(2005年現在、日本のSDA教団では機構改革が行われ、この働きは教団が担っています。以後本文に出てくる「地区」あるいは「地域の教区」についても同様にご理解ください。)
信徒のある人々は什一を、例えば按手礼を受けたアドベンチストの牧師たちが雇用されている「アドベンチスト・メディア・センター」のような教団の機関に直接送金することが適切であるかどうかと迷っています。この点に関して教会の指導者たちは、聖書と預言の霊の勧告に従い、教会組織の中の教区レベルが「倉」として理解されるべきであることを教会員に明確に提示しなければならないと感じています。これを念頭にして、北米支部服務規定T 05 25には次のように記されています。
「教団の機関に納められた什一は、その機関が位置している地域の教区に、その機関から送付される。地方教区は、規定に定められている割合に従って、上部機関に上納する。地方教区は、上納後の什一残余金を教区理事会の決議に従って使用することができる。ただし、教区理事会の決定は、什一の用途に関する教団のガイドラインに沿うものでなければならない。また教区は什一を納めている機関の必要に対し正当な関心を払うべきである。」
上述の服務規定からの二つの引用文は、霊感を受けた勧告と調和していると私は信じています。それではこの勧告をこの研究に沿って調べてみましょう。
聖書の見解
神がイスラエルをエジプトから救出された時、「ご自身の」民をもう一度確立しようと願い、神は再び什一制度及び幕屋の奉仕の支援について民にお語りになりました。什一については人類が堕落して、エデンの園から追放されて以来、明らかに知らされていました。聖書はアブラハム(創世記14:20)やヤコブ(同28:22)が什一を納めていた事実を記録しています。しかし、神が大いなる出エジプトの出来事の後、約束の地にご自身の民を導かれた時、神の僕モーセを通して、什一や他の事項についてより詳細にお示しになりました。例えば、「土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので主に属す」(レビ27:30)とあります。神のご計画では、十二部族の一つであるレビ族は、他の十一部族のように普通の仕事に従事することは禁じられており、ただ宗教的活動と国民の教育のために聖別されていました。彼らは什一と他からの自発的な献げ物によって支えられていました。
主(イエス)は彼らに次のようにお教えになりました。「見よ、わたしは、イスラエルでささげられるすべての十分の一をレビの子らの嗣業として与える。これは、彼らが臨在の幕屋の作業をする報酬である。……わたしは、イスラエルの人々が主にささげる献納物の十分の一をレビ人に彼らの嗣業として与えるからである。それゆえ、わたしは彼らに、イスラエルの人々の間では嗣業の土地を持ってはならない、と言ったのである。」(民数記18:21,24)
カナン征服の直前、モーセはイスラエルに主からの最後の勧告を与えました。これが申命記の内容です。神はご自身の民に、約束の地においては什一や献げ物に関して自分たちが正しいと見なす方法でしてはならない、彼らのために立てられた神のご計画通りするようにとお語りになりました。次の神のみ言葉に注目してください。
「必ず、あなたたちの神、主がその名を置くために全部族の中から選ばれる場所、すなわち主の住まいを尋ね、そこへ行きなさい。焼き尽くす献げ物、いけにえ、十分の一の献げ物、収穫物の献納物、満願の献げ物、随意の献げ物、牛や羊の初子などをそこに携えて行き、……あなたたちは、我々が今日、ここでそうしているように、それぞれ自分が正しいと見なすことを決して行ってはならない。……ヨルダン川を渡り、あなたたちの神、主が受け継がせられる土地に住み、周囲の敵から守られ、安らかに住むようになったならば、あなたたちの神、主がその名を置くために選ばれる場所に、わたしの命じるすべてのもの、すなわち焼き尽くす献げ物、いけにえ、十分の一の献げ物、収穫物の献納物、および主に対して誓いを立てたすべての最良の満願の献げ物を携えて行き、……あなたは、自分の好む場所で焼き尽くす献げ物をささげないように注意しなさい。ただ、主があなたの一部族の中に選ばれる場所で焼き尽くす献げ物をささげ、わたしが命じることをすべて行わなければならない。」(申命記12:5~14)
私は上述の勧告を、「中央の倉に関する掟」と呼んでいます。神はそれぞれ自分が正しいと見なすことを行うようにとは計画なさいませんでした。神は特定のご計画をお立てになり、神の民がそれに従うようにと望まれました。つまり、神はご自身の宝庫からご自身のみ事業を支えることに関して述べた事柄は、聖書の中に明確に示されているということなのです。
イスラエルが神の指示に従ってエリコの占領のために備えていた時――町の周囲を行進する計画――ヨシュアは民に、「金、銀、銅器、鉄器はすべて主にささげる聖なるものであるから、主の宝物倉に納めよ。」(ヨシュア六ノ一九)と命じました。征服の後、聖書は次のように述べています。「彼らはその後、町とその中のすべてのものを焼き払い、金、銀、銅器、鉄器だけを主の宝物倉に納めた。」(同6:24)イスラエルのすべての民は、――ただ一人アカンを除き――神のこれらの指示に従いました。アカンの不服従のために三六人のイスラエル人がアイで殺されました。ヨシュアが問題について主に伺った時、ある者が神に従わず神の物の一部を盗み取り、主の宝物倉に納めなかったからだ、と告げられました。神は、「イスラエルよ、あなたたちの中に滅ぼし尽くすべきものが残っている。それを除き去るまでは敵に立ち向かうことはできない」(同7:13)と言われました。そこでアカンはそのすべての家族とともに石で打ち殺され、彼らの持ち物はみなその上に積み上げられ、彼らと彼らの持ち物は火で焼かれたのでした。(同7:24~26参照のこと)
旧約聖書からもっと多くの実例を挙げることができますが、ただひとつダビデ王の経験を簡単に思い出してみましょう。ダビデが常々申命記一二章に列挙されている神の勧告に従って行動していたことは明らかです。詩編66編13節の彼の言葉からでもわかります。「わたしは献げ物を携えて神殿に入り/満願の献げ物をささげます。」彼はまた神の大いなる慈愛を瞑想し、「主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。/救いの杯を上げて主の御名を呼び/満願の献げ物を主にささげよう/主の民すべての見守る前で。主の家の庭で、エルサレムのただ中で。ハレルヤ」(詩編116:12~14,19)と述べました。ダビデは什一を他の場所にではなく、神のご命令通り礼拝行為としてそれをささげました。彼は什一を神の民が集まっている主の家の庭、神の家に携えて行きました。
ダビデは神の愛に感動し、神の大いなる神殿を建てようと決心しました。しかし彼は建築の計画を立て、建築材料をすべて確保しましたが、戦士だったので神殿を建てることは許されませんでした。ダビデは、「主はわたしに言われた。『わたしの家とわたしの庭を築くのは、あなたの子ソロモンである。わたしは自分のために彼を選んで、わたしの子とし、わたしはその父となるからだ』」(歴代上28:6)と述べています。後にソロモンが神殿を建てた時、神はソロモンに次のように言われました。「あなたが建てている神殿について、もしあなたがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を実行し、わたしのどの戒めにも従って歩むなら、わたしは父ダビデに告げた約束をあなたに対して果たそう。」(列王上6:12)
神はまた福音の預言者イザヤに、「わたしは彼ら(異邦人)を聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。/彼らが焼き尽くす献げ物といけにえ(申命記一二章で命じられているもの)をささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。/わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(イザヤ56:7)とさえ言われました。
イスラエルは彼らが神に従ったときに繁栄し、従わなかったときに困難に陥りました。彼らは服従と繁栄、不服従と困窮とをくり返したようでした。神が預言者マラキを通してご自身の民にもう一度神に立ち帰るようにとの招きをお与えになられたのは、民が神に服従していなかった期間においてでした。「立ち帰れ、わたしに。そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰ると/万軍の主は言われる。」(マラキ3:7)ところが民は、「どのように立ち帰ればよいのか」と問い返します。その質問に神は次のように本質的な解答をお与えになられたのです。「わたしから盗むことをやめよ!」(同3:8、口語訳)と。マラキ書から引用しましょう。「あなたたちは、甚だしく呪われる。あなたたちは民全体で(アカンの時代のようにわずか一人だけではなく)、わたしを偽っている(わたしの物を盗んでいる、口語訳)。十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと/万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。」(マラキ3:9,10)
そこで私たちは什一について聖書から何を学ぶことができるでしょうか。第一に、什一は私たちの物ではない。それは主の物であり、聖なる物である。第二に、私たちの什一をどこに納めるべきかに関して神のご計画に正しく従うべきである。旧約聖書の時代にはその場所は神殿の倉でした。そこから祭司やレビ人に支払われました。今日では教区がそれに該当し、そこから牧師たちに支払われるのです。第三に、什一は神の指示通り、すなわち、伝道を支えるために使用されるべきである、ということです。
預言の霊の勧告
エレン・G・ホワイトの孫で、彼女の自叙伝を著し、ホワイト遺稿管理所の所長を四一年間務めたアーサー・L・ホワイトは次のように述べています。「エレン・G・ホワイトの著書の中で、忠実に什一を納めることと、什一は伝道を支える資金であることについての教えほど明瞭に示されているものは他にない。これはこの質問に関連するエレン・G・ホワイトのあらゆる文書の中で証しされていることである。」(『エレン・G・ホワイト自叙伝』五巻、英文、390ページ)
「また、教会の伝道を支えるために聖別されているという什一の的確な用途について指導者や教会員たちにくり返し注意を促している。」(同一巻、英文、三九三ページ)
神は什一が明らかな義務であり、契約関係との関連で述べることによってエレン・G・ホワイトに什一の重要性を印象づけられました。
「ひとり子をあなたのために死にわたされたお方があなたと契約を結ばれました。神はあなたにご自身の祝福をお与えになりました。その返礼としてあなたが什一と諸献金を神のもとに携えてくるようにと求めておられるのです。この事柄についてまったく理解できないなどとあえて言う人はだれひとりいないはずです。什一と諸献金についての神のご計画はマラキ書三章にはっきりと書かれています。神は人類と結んだ契約に対し誠実であるようにと神の代理人である人類に呼びかけておられるのです。『十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ』と主は仰せになっておられます。」(レビュー・アンド・ヘラルド、英文、1901年12月3日号、傍線著者)
倉について最も幅広く言及している一文には、倉について四つの名称が使われていることがわかりました。これによって什一がどこに納められるべきかについての神が求めておられる場所に注目できるようになります。
「主は人は自分のまいたものを刈り取ることになると言われました。そうであるならば、私たちはよいわざによって最も質の良い種をまくよう努めようではありませんか。この年も暮れようとしているとき、すべての什一を神の倉に携えて来ることによって、神のみ前に正しい申し開きをしようではありませんか。什一と諸献金において神の物をあえてこれ以上盗みつづけるでしょうか。近づいているクリスマス休暇に、私たちの贈り物はお互いのためにではなく、神の家にお献げしましょう。神は、それによって『わたしの家に食物があるようにせよ』と言っておられます。私たちの時間とお金を使って友人たちを喜ばせ満足させる代わりに、私たちの献げ物をすべて神の宝物倉に納めようではありませんか。感謝の献げ物を主にお献げしましょう。クリスチャンと自称する人々はこの事柄の重要性がおわかりでしょうか。彼らは自分自身の問題として神に対する責任感に目覚めるでしょうか。」(レビュー・アンド・ヘラルド、英文、1896年12月8日号、傍線著者)
これはなんと特徴ある言葉でしょう。「神の倉」「神の家」「わたしの家」「神の宝物倉」などは互いに交換できる言葉として用いられています。これらはみな同一のものであることは明らかです。私は聖書や預言の霊の中に、「倉」について北米支部の規定に述べられている以外のものを指すという証拠を一つも見いだせませんでした。「倉」とは牧師たちの給料が支払われる場所、すなわち、教会員が地方教会に納めた什一をまとめて受け取る教区の会計事務所です。
倉の場所がこんなにはっきりしているのに、なぜ人々はそれに気付かないのでしょうか。その答えは驚くほど簡単です。
「教区長の多くは自分たちの働きに充分な注意を払っていません。彼らの働きは、教会の長老や執事たちが教会における彼らの職務、什一が忠実に会計に納められているかどうかを見る働き――を果たしているかどうかを見極めることです。マラキが具体的に示しているように、繁栄の条件は神ご自身のものを神の宝物倉に携えてくるかどうかにかかっています。この原則は神に対する務めに怠慢な人々や、神への什一や諸献金をおろそかにしたり不注意に取り扱う人々の前でたびたび伝えられる必要があります。……どうかこの章全体を(マラキ3章)読んでください。そしてこれほど明らかで、率直な言葉はないことに気付いてください。これらのみ言葉は疑問の余地がないほど明確なものなので、神に対するすべての義務を理解したいと望む人がこの事柄について誤解する必要はありません。この義務を果たさない理由についてもしだれかが言い訳をするとすれば、その理由はその人が自己中心で、その心に神への愛と畏れがないからです。」(『牧師への証』、英文、305ページ、傍線著者)
私たちにはある種の罪は他の罪より、より忌むべきものだと考える傾向があります。例えば、多くの人々にとって姦淫の罪は人が陥る問題のリストの中で最上位を占めるものだと考えられてています。「人が犯す最大の罪は神のものを盗むことである。それにもかかわらずこの罪は深く浸透している」(『スチュワードシップに関する勧告』、英文、八六ページ、傍線著者)という言葉が非常な驚きとして受けとめられます。
什一の教えは聖書や預言の霊の中で決して灰色の部分ではありません。「神は神のすべての管理人たちが神のご計画に厳密に従うようにと望んでおられる。彼らは神のご計画を果たすに当たり、慈善行為や贈り物やいくらかの献金を自分で適切だと判断する時や方法で成したり、与えたりすることで埋め合わせすべきではない。神はご自身の計画を明らかに示された。神と協力するすべての者は、神のご計画を自分勝手に改良しようなどとは思わず、神の計画通り遂行する。……神はこのような人を尊び彼らのために働かれる。なぜならわれわれは、神が天の窓を開き、溢れるばかりの祝福を注がれるとの神の約束を持っているからである。」(『神を知るために』、英文、221ページ、傍線著者)
第二什一
主が什一についてお語りになった時、什一の用途として二つの異なる目的を明らかになさったことが、ある人々の関心の的となりました。(民数記18:21、申命記14:22、23、28、29、16:11〜14参照)この不可解なことは什一には実は二種類あったことを理解することで解決できます。第一の什一は、主の什一で、第二の什一は慈善の什一として時折言及されています。これはちょうど安息日の制度にも、「主の安息日」と聖所の奉仕に附随するいくつかの安息日とがあったことと同じようなものです。
エンジェル・ロドリゲス博士はその研究の中で、次のように述べています。
「この規定(申命記の中の)とレビ記及び民数記にある規定との間には重要な違いがあることは明白である。最も重要な相違点は――
a.申命記の中の什一は、穀物、ぶどう酒、オリーブ油にのみ課せられたが、他の個所にある規定は土地から取れるすべての収穫物及び牛や羊の群れの十分の一が献げられた。
b.申命記の什一は、主によって要求されたとはいえ、それを聖所に納めた家庭に属するものであった。レビ記と民数記は神にのみ属する什一を取り扱っており、それは神によってレビ人と祭司に与えられた。
c.申命記の什一は、イスラエル人の家庭の交わりの食事のために、中央にある聖所で使用された。他の個所に述べられている什一はそれが許されなかった。レビ人と祭司及び彼らの家族たちに限られた。
結論として確実なことは、什一には二つの異なる型があったということである。申命記のものとレビ記及び民数記の中の規定とを一緒にすることはできそうにない。ラビの言い伝えによれば、レビ記に記録されている什一は『第一什一』と呼ばれ、申命記の中の什一は『第二什一』と呼ばれた。
さらに問題を複雑にしていることは、申命記14章28、29節及び26章12〜15節で述べられている三年目ごとに献げられる什一である。この什一は土地の収穫物からのもので、町の中に蓄えておかれた。その目的は、『レビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることができる』ためであった。(申命記14:29)
これは第三什一であろうか。第三什一だと解釈する者たちもいるが、この規定は三年目ごとに第二什一の異なる使用法を述べたものだとする人々もいる。後者の解釈が恐らく正解であろう。二年間は第二什一は聖所に納められ、そこでイスラエルの人々により食された。しかし『三年目になるといつでもこの第二の十分の一は、……レビ人や貧者を、家庭でもてなすことになっていた。』(『人類のあけぼの』下巻、168ページ)
この第二什一は、神こそイスラエルに祝福を与えられるお方だという確信に基づくものでもあった(申命記12:6、7)。しかしその目的は主に対する敬虔(同24:22)と貧しい人々への施し(同26:12)とであった。この什一はイスラエルの神権政体のもとでの「慈善」のための什一であったようである。」(エンジェル・ロドリゲス、『スチュワードシップのルーツ――スチュワードシップ 什一と諸献金の神学をめざして』Dr.Angel Rodriguez,Stewardship Roots: Toward a Theology of Stewardship,Tithe, and Offerings, T 10 T 11)
これと同じ結論をエレン・G・ホワイトもその著書で説明しています。貧しい人々への神のご配慮に関する論評の中で次のように述べています。
「貧者のために備えると同様に、人々が集会に集まることを奨励するために、すべての収入の第二の十分の一が要求された。第一の十分の一について、主は、『わたしはレビの子孫にはイスラエルにおいて、すべて十分の一を嗣業として与え』ると言われた(民数記一八ノ二一)。しかし、第二の十分の一については、次のようにお命じになった。『そしてあなたの神、主の前、すなわち主がその名を置くために選ばれる場所で、穀物と、ぶどう酒と、油との十分の一と、牛、羊のういごを食べ、こうして常にあなたの神、主を恐れることを学ばなければならない』(申命記14:23、29、16:11〜14参照)。この十分の一、または、それと同額の金を二年の間、聖所が建てられたところに携えてくることになっていた。神に感謝のささげ物をささげ、祭司のために規定された分もささげたあとで、献納者はその残りの部分を宗教的祭りに用い、レビ人、他国人、孤児、寡婦などを呼んで食べさせなければならなかった。こうして年ごとの祭りのときに、感謝のささげ物をして、祭りを行う準備がされていて、人々は、祭司やレビ人との交わりに導かれ、神の奉仕について教えと励ましを受けることができた。……
ところが、三年めになるといつでもこの第二の十分の一は、『町のうちで彼らに飽きるほど食べさせ』とモーセが言ったように、レビ人や貧者を、家庭でもてなすことになっていた(申命記26:12)。この十分の一は、慈善ともてなしの資金を提供した。」(『人類のあけぼの』下巻、166、168ページ)
不幸なことに、第一什一の場合と同様、ユダヤ人たちは三年目の第二什一の用途についても、必ずしも常に忠実であったというわけではありませんでした。「主は三年目ごとに什一を貧者の救済のために集めるようにとお命じになられた。これは神の働きのために毎年件献げられる什一とは全く別のもので、通常の什一に加えられるものであった。しかしこの親切、愛、憐れみの掟を守らないで彼らは(裕福なユダヤ人たち)貧者の需要につけ込み物品の実際の値段のほとんど二倍もの法外な値をつけた。(セカンド・アドベント・レビュー・アンド・サバス・ヘラルド、英文、1884年3月11日号、傍線著者)
以上私たちが見てきたように、二つの什一は互いに異なる別のものでした。第一什一は聖所で神に献げられ、主により祭司とレビ人に与えられ、第二什一は、慈善のための什一で、不幸な境遇にある人々を助け、年ごとの宗教的集いのときに食物を提供するために人々によって用いられました。一つは私たちが神の所有権を認め、神との契約関係にあることを表し、もう一つは、私たちが他者への祝福の通路となり、利己心を殺す機会を与えるためのものでした。(『教育』38ページ参照)。
倉についてのこの研究の目的にそって私たちは、第一什一は主の什一であって、聖にして主のものであり、現代の「祭司とレビ人」に当たる神の教会とその働き人たちを支えるために主に忠実にお返しすべきものであると結論付けることができます。
滞納什一の返還(BackTithe-Restitution)
倉はいくつかの観点からそのありかを判明できます。幾度か人々がエレン・G・ホワイトのもとに来て、滞納していた什一をどのように返還することが適切であるかを尋ねました。バトルクリークでの彼女の経験は典型的なものでした。
「バトルクリークでの特別集会の結果、霊性、敬虔、慈善、活動において確固たる進展がなされた。什一と諸献金とにおいて神から盗む罪についての説教がなされた。……多くの人々が長年什一を納めていなかったことを告白した。われわれは神から盗んでいる人々を神は祝福なさることはおできにならないこと、また一人一人の信者の罪の結果教会が苦しまねばならないことを知っている。教会員名簿には大勢の名前が記されている。もしこのすべての人々が主のものである什一を忠実に納めておれば、資金不足はなかったであろう。……神のものを盗む罪が示されたとき、人々はこの事柄について自分たちのなすべきこととその特権とがより明らかになった。一人の兄弟は二年間什一を納めていなかったと述べた。彼は絶望していたが、自らの罪を告白し希望が湧いてきた。『私はどうしたら良いでしょうか』と尋ねた。
『教会会計宛に契約証書を提出しなさい。極めて事務的にね』と私は言った。彼はこれを奇異な願いだと思いながらも、座って書き始めた。『私が受け取った代金として○○を支払うことを約束します。』彼はそれを見つめてあたかも、主に対する契約証書はこのような形式で良いでしょうか、と言っているかのようであった。
『そうです』と彼は続けた。『私が受け取った代金として。確かに私は日々神の祝福を受けなかったでしょうか。天使が私を守ってくださらなかったでしょうか。主は霊的、世的なあらゆるもので私を祝福なされなかったでしょうか。私が受け取った代金として、合計571.5ドルを教会会計に支払うことを約束します。』彼は自分でできる部分をすべて成した後、幸福な人であった。数日後彼は契約証書通り、什一を会計に納めた。彼はさらに、125ドルのクリスマス献金をした。」(レビュー・アンド・ヘラルド、英文、1889年2月10日号[『スチュワードシップに関する勧告』、九五ページ])
後にこの時の出来事を評しエレン・G・ホワイトは、「彼は自分が滞納していた什一とその利子を支払う契約証書を教区の総務に送った」(『教会への証』第五巻、643ページ、傍線著者)と説明しました。
「もしあなたが主のものを盗んでいたら、返還しなさい。できる限り過去を正しなさい。それから救い主に赦しを求めなさい。」(『私を生かす信仰』、英文、161ページ)
エレン・G・ホワイトはいつでも教会員に、神との間の決算を年末には必ずきちんとしておくようにと訴えました。オーストラリアでの経験について彼女は次のように述べています。
「タスマニアの代議員で、高貴な顔だちのひとりの兄弟がやって来て私に、『あなたが今日什一についてお話くださり嬉しく思います。什一がそんなに重要なことだとは知りませんでした。これからは決しておろそかにはいたしません』と言った。彼は目下、過去20年間の什一の額を計算し、できる限りそれを納めたいと言っている。裁きの日に天の書物に、神から盗んだと記録されたくないからだ。
「メルボルン教会に属しているひとりの姉妹は、納めるべきことを知らずにいた11ポンド(54ドル)の滞納什一を携えて来た。この光を受けた時、多くの人々は神に対する負債を告白し、それを清算する決心を表明した。……私は、お金が手に入ったら直ちに什一の全額を正確に納めると約束する契約証書を金庫に納めるようにと提案した。人々はうなずいて同意した。来年は今年のように金庫が空になるようなことはないと私は確信している。」(『スチュワードシップに関する勧告』、英文、96,97ページ)
私たちが期待していたように、エレン・G・ホワイトはここでも、神との関係を正したいと願うならば、金庫に什一を返すようにと勧告しています。彼女は返還を求めている人々は、契約証書を作り、それを教会会計もしくは教区総務に事務的に送ればよいと教えています。彼女は、滞納什一は何らかのよい目的のために使用しさえすればよろしいとはだれに対しても一度も勧めてはおられません。
什一の特定な用途
証拠は明らかです。聖書的モデルによれば、「神の」什一は「神の」伝道を支える目的のために、「神の」倉もしくは金庫に返すべきものです。セブンスデー・アドベンチストにとっては、このことが教会が組織された主な理由の一つでした。「アドベンチスト」になろうと見込む多くの人たちが既存の組織された教会から離れなければならなかったので、新しい教会を組織することについてかなりの反対がありました。教会組織はバビロンの一部であるので避けるべきだと多くの人々は感じていました。わが教会の先覚者の一人であったエレン・G・ホワイトはなぜ組織が必要であるかについての洞察を次のように与えています。
「人数が増えるにつけ、何らかの組織がなければ大きな混乱が生じ、働きが前進しないことは明らかだった。伝道の働きを支える資金を供給し、新しい分野での働きを推進し、教会と伝道の双方をふさわしくない教会員から守り、教会の資産を保ち、真理の伝達のために出版する、その他多くの理由のために組織は不可欠であった。
しかしわが民の間では組織に反対する強い感情があった。週の第一日を順守するアドベンチスト(The first-day Adventist)は組織に反対していたし、大部分のセブンスデー・アドベンチストも同様の考え方であった。われわれは主のみ旨を知ることができるようにと熱心に主に求めた。その結果、教会には秩序と徹底的な訓練が必要で、そのために組織は不可欠であるとの光が聖霊によって与えられた。組織と秩序とは、宇宙全体の神のすべての働きにおいて表されている。秩序は天の法則であり、これはこの地における神の民の法則でなければならない。」(『牧師への証』、英文、26ページ、傍線著者)
この勧告の結論は、資金を提供し、教会とその働きをふさわしくない教会員から守るためには組織された教会がなければならないということでした。人が教会員になるためや、人が働きに任命されるには通らなければならない手続きが必要でした。伝道に関する教区の責任についてはのちほど討議します。
いったん教会が信任を受けた牧師と共に組織されると、この組織は教会を代表するものとして承認されていない人々から教会員を守り、さらに教区から給料が定期的に支給されることによって、牧師が伝道に全時間を捧げることができるようになりました。この制度が施行されて教会の指導者たちは、既存の働きの支援計画を立てたり、新しい分野の働きの開発計画を立てることができたのです。働きの拡張は教会の最大関心事でしたし、教会指導者たちの最優先事項は、委ねられた福音を実現させることでした。
残りの教会への度重なる主の勧告は、什一の特別な位置付けと福音の働きに対する秩序正しい支援を強調しました。
「主に属する什一と献げ物が、一定の働きを完成するために使用されるべき時がやって来た。これらは福音宣教者の働きを支えるために規則正しい方法で使用される目的で宝庫に納められるべきである(マラキ3:10 引用)。」(公開原稿、19巻、英文、376ページ)
わが機関の指導者と働き人が什一や諸献金において忠実であるように励ますに当たって、エレン・G・ホワイトは新しい分野の働きのために十分な資金を提供する必要を強調しました。
「神のものを盗んできた人よ、いと高き神のみ言葉を聞け。『十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。』わずかの部分ではなく、半分や四分の一でもなく、『十分の一……をすべて……わたしの家に食物があるようにせよ』である。この理由は明らかであって、利己心という憎むべき植物を育ててきた一人一人にむかって、『わたしの家に食物があるようにせよ』と命じられたのである。主が什一をすべて宝庫に納めるように望んでおられる理由は、神の摂理によって新しい場所に真理の使者が置かれなければならないとき資金が不足することがないためである。また神の御目にとってあなたと同じように貴重な魂が、真の神とイエス・キリストとを知る知識に導かれ、主に導かれた人が今度は他の魂を導く伝道者となるためである。」(PH 149、61ページ、傍線著者)
教会の機関誌を通しての教会全体に対する一般的な勧告の中で、エレン・G・ホワイトは以下の奨励を与えました。
「与えるという事柄は衝動に任せられてはいない。神はこの事に関してはっきりとした指示をわれわれにお与えになられた。神はわれわれの成すべき務めとして什一と諸献金を特定なさった。……各自はすべて神からの祝福として与えられた収入を規則的に調べ、什一は主に属する聖なるもので、別の資金として取り分けておこう。この資金はいかなる場合でも他の用途に用いられてはならない。これは福音の働きを支えるためだけに用いられるべきものである。什一を取り分けた後に、『神がお与えになられた力に応じて』贈り物や諸献金を配分しよう。」(レビュー・アンド・ヘラルド、英文、1893年5月9日号、傍線著者)
真摯なクリスチャンは常に貧しい人を助けることに関心を表してきました。これはイエスご自身が承認され奨励された働きです。しかし、貧者を助けるためには什一からではなく、特別な寄付金から支出されるべきものでした。
「使徒言行録六章に教会の役員を選ぶにあたって、まず主のみ前にその事柄が持ち出され、導きを求める熱心な祈りが献げられたことが示されている。やもめや孤児たちは教会の寄付によって助けられることになっていた。彼らの欠乏は教会(の金庫)からのお金によってではなく、特別な寄付によって補われるべきであった。什一は主のために聖別されるべきもので、常に牧会伝道(ministry)を支援するために用いられるべきものであった。」(『福祉の働き』英文、275ページ、傍線著者)
教会行政の立場から見ると、時には独特な問題が起こってきます。例えば、什一の割合は10パーセントであると聖書に明記されていますし、諸献金による資金は献金者の判断で献げられますので、通常は「什一」の方が「諸献金」による資金よりも多くなります。世界総会総理A・G・ダニエル長老は、たくさんの什一資金を他の特別なプロジェクトのために使用してもかまわないかどうかの質問を持っていました。エレン・G・ホワイトはこの質問を受けて、ダニエル長老に手紙を書きました。
「私は今朝あなたにアメリカ宛の手紙を書きました。……什一を他の目的のために使用することに関する私の考えを記しました。これは特定な目的のための主の特別な資金です。この事について私は今ほど完全に理解した事はこれまでにありませんでした。私に宛てられた質問に対する答えとして、主からの特別な指示を私は受けました。それは、什一は特定の目的のためのものであり、説教ばかりでなく仕える働きである主のみ業をなすべく主によって選ばれた、み事業の働き人を支えるために神に献げられたものです。アメリカの人々はこのようにすべてを理解すべきです。神の家には食物があるように、つまり真理を信じ、什一を忠実に主にささげる人には食物があるようにすべきです。牧師たちはこの什一によって励まされ、支えられるべきです。」(A・G・ダニエル『長老へ』、英文、1897年3月16日、公開原稿一巻、英文、187ページ、傍線著者)
私たちは古代イスラエルの経験から学ぶべきだと思います。私たちが神の勧告に従う時祝福があるでしょう。私たちが神のご計画の代わりに自分の判断に頼り自分勝手な道に行く時結果的にいつも問題が起こります。しかしすべての勧告にもかかわらず、教会にはあれやこれやと理由をつけて什一を教会に保留しようとする要素が常に存在しています。(『牧師への証』四七四ページ参照)什一が教会に保留された時、エレン・G・ホワイトはくり返し教会に勧告を与えられました。
「主の宝庫に忠実に納められるべき什一を保留することに関する指示が私に与えられた。什一は、人々に聖書を開いて、戸毎に働きかけている牧師や伝道者を支えるためのものである。」これらの働き人を支持して、彼女はさらに続けて述べています。「これらの働き人は主の光を携える者として最善を尽くすべきである。彼らが謙虚に神と共に歩む時、天使たちは人の心に印象付けようと彼らと協力して働く。過去において神のみ使いたちは、神の使命者たちが『神の戒めとイエスを信じる信仰』と明記された旗を高く掲げた時、彼らの傍らに立っていた。主のぶどう園で労している牧師や伝道者たちは支えられなければならない。われわれは主が選ばれた人々を支援する資金を倉に携えてくることによって、この働きに参加できるのである。」(レビュー・アンド・ヘラルド、英文、1905年4月20日号、傍線著者)
この項を終わるにあたって、私はエレン・G・ホワイトを通して主がお与えになった勧告にもう一度言及したいと思います。ダニエル長老への手紙を書いた十年後に、彼女は1907年1月のカリフォルニア州の総会における講演を依頼されました。彼女はこの機会をとらえ、忠実なスチュワードシップに関するおそらく最も総合的な声明を発表しました。彼女の講演内容はすべて『教会への証』第九巻、英文、245~251ページに遺されています。私はこの資料をすべての教会員と働き人に強く推薦いたします。什一及びその用途に関するほとんどすべての質問がこの声明文の中で取り扱われています。この声明文の要約の一部として彼女は次のように述べています。
「マラキ書三章を注意深く読み、そこで神が什一について何を語っておられるかを理解せよ。もしわが教会が主の言葉に固く立ち、什一を忠実に神の宝庫に納めるならば、もっと多くの働き人が励まされ、牧師の仕事につくようになるであろう。財源不足が知らされなければもっと多くの人々が牧会に献身するであろう。主の宝庫には資金があるべきであり、しかも十分にあるべきである。もし利己的な心や手が什一を保留したり、他の働きのために什一が使用されたりしなければそのようになるであろう。
神の積立資金は、このような無計画な用途のために決して使われてはならない。什一は主のものであり、什一について余計な干渉をする人々は、悔い改めない限り罰せられ、天の宝を失うことになるであろう。什一が、主がそこに行くべきであると言われた所以外のさまざまな水路にそらされてきたために、働きがこれ以上妨げられるようなことがあってはならない。これらの他の分野の働きのためにも計画が立てられるべきである。他の分野の働きは維持されるべきであるが、什一によってではない。神は変わってはおられない。什一は依然として牧会伝道(ministry)を支えるために使われるべきものである。新地開拓の働きには今以上に能力のある牧師が必要である。そのためには宝庫に資金がなければならない。」(『教会への証』第九巻、英文、249、250ページ、傍線著者)
今日ある人々は、什一の一部を、なぜ福音の働きが実際に行われている地方の自分たちの教会のために保留することはできないのですか、と尋ねています。実際は教区から地方教会へ派遣される牧師は、神のご計画通り什一から支給されているのです。では地方教会の費用はどのようにしたらよいのでしょうか。
「什一は臨時的な出費のために消費されるべきものではない。その出費は教会員の働きに属する。教会員は献げ物と諸献金によって、自分たちの教会を支えるべきである。この事柄が持つ意義が理解されると、この主題に関する疑問はなくなるであろう。」(公開原稿一巻、英文、184ページ)
事実もし私たちが神のご計画に忠実に従うならば、献金は1000パーセント増加するであろうと告げられているのです。以下に注目してください。
「もしわが民の什一がすべて主の宝庫に納入されるならば、大いなる祝福を受けて、聖なる目的のための献げ物や献金が十倍(1000%)にも増えるであろう。かくして神と人との間の通路が開かれるであろう。」(『教会への証』第四巻、英文、474ページ)
エレン・G・ホワイトの見解によれば、教会が組織された主な理由の一つは、これによって教会の働きを指導、遂行する有資格の受給牧師の群れを持ち得るからです。什一は神の宝庫に返されるべきものです。それによって牧会伝道(ministry)が支えられ、さらに、神の摂理によって新地の働きが開始されるとき、働き人を増員させるための準備資金を供給できるのです。
他の「牧会伝道」(Other “Ministries”)
聖書の著者や預言の霊の見解によれば、ただ一つの働き――牧会伝道――のみが神の民の什一によって支えられるべきものであったことは明らかになったと思われます。聖書は「牧会伝道の補助活動」(para-church ministries)も什一によって支えられるべきであるとの指示を与えてはいません。「しかし彼らも通常の牧会伝道と同じようにみ業のために役立つ働きをしているではありませんか」との質問がしばしばなされます。「おそらくその通りでしょう」と私たちは答えることができるでしょう。しかしそうであるからといって、自分の什一を神が納めるようにと指定なさった唯一の場所からそらす理由とはなりません。勧告は明らかです。他の良い働きも支えられるべきですが、什一によってではありません。
再びカリフォルニア州の総会でなされたエレン・G・ホワイトの声明文を読んでみましょう。
「神がご自身のためにとっておかれた部分は、神が特定なさった目的以外に転用されてはならない。だれも自分の什一を保留し、自分の判断に従って用いても構わないなどと考えてはならない。什一を緊急時に自分自身のために用いたり、たとえ主のみ業だと思われるものであっても、自分勝手に使用してはならない。」(『教会への証』第九巻、英文、二四七ページ、傍線著者)
しかし、牧師の場合ではどうでしょうか。牧師であれば自分の判断に従って、什一を納めたり使用したりできないのでしょうか。これに関する勧告は以下の通りです。
「牧師は訓戒と模範により、什一が聖なるものであることを民に教えなければならない。自分が牧師だからといって什一を保留したり、自身の判断に従って用いることができるなどと決して考えてはならない。什一は牧師のものではない。自分が考えることは何でも正当だと過信することなどゆるされはしない。神に献げられた什一や諸献金をその正当な用途から他の計画に逸らせようと牧師は決して働きかけるべきではない。什一は神が定められたように神の宝庫に納められ、神のみ業のために聖別されるべきものである。」(同、英文、247、248ページ、傍線著者)
今日わが教会は、昔の聖所のように、この地上における神の家の典型であるべきものです。教会は十分に維持されなけれなりません。
「今日神の民は、礼拝の家は主の財産であり、細心の注意が払われるべき場所であることを覚えねばならない。しかしこの働きのための資金は、什一から支出されるべきではない。」(同、英文、248ページ、傍線著者)
この点に関しては実に明解に述べられているので、混乱の余地はありません。
「わが民に対する非常に明解なメッセージが私に与えられた。彼らは什一をさまざまな目的のために用いる誤りを犯していると伝えるように私は命じられた。その目的自体は良いものであっても、什一が用いられるべきだと主が述べられた目的ではない。什一をこのように用いる人々は主のご計画から離れている。これらの事柄に対して神は裁かれるであろう。
ある人は什一を学校のために用いることができると考えている。また他の人は文書伝道者たちは什一によって支えられるべきだと考えている。しかし什一をそれが使用されるべき目的――牧師たちを支えるため――から逸らせるとき、大きな過ちを犯しているのである。有能な働き人が現在一人しかいない場所に百人いるべきである。」(同、英文、二四八、二四九ページ、傍線著者)
それでは「自給伝道の働きの支援」や神のみ業の他の分野の必要についてはどのようにしたら良いでしょうか。それについては既に述べた通りです。すなわち、「これら他の分野の働きのために準備されるべきである。彼らに対し支援すべきであるが、什一からではない。神は変化してはおられない。什一は依然として牧会伝道(ministry)を支えるために用いられるべきものである。」(同、英文、250ページ)
牧会伝道(Ministry)もしくは教区における問題
牧会伝道もしくは教区の中に実際に起こったか、あるいはそのように感知されている問題がある場合でも、忠実なクリスチャンは自分の什一を教区の倉に送るべきでしょうか。この点に関しても主からの勧告があります。1890年8月、ミシガン州の教区代議員らは総会の準備をしていました。その教区の牧会伝道の現場には実際に問題が起こっており、しかも過去一五年間も続いていました。この場合、彼女は1907年のカリフォルニア総会の時のように直接出席なさらないで、原稿を用意し、それをミシガンに送りました。この原稿は、『1890年、原稿三』として知られているものです。これは、『説教及び講話』(Sermons and Talks)二巻、英文、71~79ページに記録されています。
ミシガンの牧会伝道の問題は実際に起こっており、しかも極端なものでした。牧師たちはほとんど成果を上げておらず、民を養っていませんでしたとエレン・G・ホワイトは指摘しました。彼らは自分自身を聖別していなかったのでした。ある牧師たちは不正直で、みだらで、妥当な働きをほとんどしておらず、働きを低下させ、魂に対する重荷も持っていないと、彼女は述べました。自らを改めない牧師たちについては、「彼らの承認状もしくは信任状は剥奪されるべきである。さもなければ、これらの牧師たちの働きを是認している教区が彼らの罪を負うことになるであろう」と彼女は述べました。
牧会伝道におけるこれらの問題が起こった結果、ある人々は自分たちの什一を納めなくなったのでした。それに対し彼女は、盗みを犯した者として天の書に彼らの名前が記録されたと言い、さらに、彼女は続けて次のように述べました。(傍線著者)
「自分の金銭を神の働きのために献げてこなかったあなたたちは、マラキ書を読み、そこに什一や献げ物に関して何と言われているかを見るがよい。あなたの兄弟たちがしていることについていけないという理由で、什一や献げ物を止めることは、いかなる状況下であろうとも最善の事ではないことがわからないのか。什一や諸献金は人間の財産ではなく、神の働きをするために用いられるべきものである。牧師としてふさわしくない人たちが、このように集められた金銭の幾ばくかを受け取るかもしれないが、それだからといって、だれも宝庫に納めることを差し控え、神の呪いを受けるようなことは敢えてしないであろう。私だったらそのようなことはしない。私はダビデのように、『われわれはあなたのものを受けて、あなたにお献げしました』と言って、私の什一を喜んで、こだわらずに献げる。利己的に神に献げないことによって、自分の魂の貧困を招くことになる。
私の兄弟、姉妹たちよ、あなたがたのなすべき分を尽くせ。神はあなたがたを愛しておられこの問題を掌握しておられるお方である。もし教区の仕事が主のご命令通り行われていなければ、それは誤りを犯している人の罪である。主はもしあなたがたが悪を正すために自分たちでできることをしておれば、教区の問題をあなたがたの責任とはなさらない。しかし主ご自身の財産を保留することによって、あなたがた自身が罪を犯すことのないようにせよ。」
彼女はこれと同じ思いを、1907年のカリフォルニア州総会で直接語られました。
「ある人々は満足しないで次のように述べた。『わたしはこれからは什一を納めない。なぜならこの働きの中心でなされている事に私は信頼できないからだ。』しかし働きが正しく行われていないとあなたは考えて、あなたは神のものを盗むのか。あなたの不満をはっきりと隠さずに、正しい心で、適切な人に伝えるがよい。物事を調整し、きちんとするようにお願いするがよい。しかし他の人が正しくやっていないからといって、あなたが神の働きから手を引き、不忠実になる必要はない。」(『教会への証』第9巻、英文、249ページ、傍線著者)
エレン・G・ホワイトと「神の倉」の使用
ある人たちが、「しかし、エレン・G・ホワイトがご自分の什一を、良い働きを続けている人たちに直接送るという先例をつけたのではないですか」と尋ねました。この主題について詳しく調べて結果、彼女は自分が説教した通りに実践したことが非常に明白になりました。ある人たちが用いている主な実例は、1900年から1906年までの期間、エレン・G・ホワイトがヨーロッパとオーストラリアにいた時のことです。主は彼女に、南部で働いている幾人かの正規の牧師たちが充分な収入を得ていないことをお示しになられました。彼女は示された事に対して、この牧師たちを雇用している本部と連絡をとるようにしました。この本部は、世界総会が承認している部門で、「南部伝道協会」(Southern Missionary Society)でした。それから彼女は彼女自身のお金で援助しました。彼女が個人の預金を使い果たしてからは、彼女は自分の著書の印税の什一から幾ばくかを使いました。彼女はお金を一人一人に直接送りはしませんでした。お金は南部伝道協会の金庫に納められ、教団の正規の働きに従事している承認を受けている働き人に、正規の経済的な方法で支給されました。
ここで心に留めなければならないいくつかの事実があります。
- この働きは個人的に行われている仕事や伝道ではなく、教区が企画したものであった。
- エドソン・ホワイトやウィリー・ホワイトが共に証言していることは、この牧師たちは、按手礼を受けており、教団が承認した部門である南部伝道協会のために働いた。
- 什一は組織された働きの承認を受けている部門を通じて納められた。
- エレン・G・ホワイトは彼女の例に従うようにと他に奨励しようとはしていない。
- 什一を母教区ではなく、組織された働きの他の部門に送る事は、一時的なことであった。
上記述の参考文献――アーサー・L・ホワイト『エレン・G・ホワイト自叙伝』五巻、英文、392~397ページ、『W・C・ホワイト文献』DF113b、J・N・ラフバロー、『大再臨運動』英文、436ページ(1909年版)
教区の責任
教会の指導者たちを含みすべての教会員は什一を忠実に倉に――教区の金庫に――納める義務がある事、それと同時に教会の指導者たちはこのお金を賢く使う厳粛な責任を負っているということが非常に明らかになったことと思います。上記に指摘した事に加えて、以下はこの点を強調する助けとなります。
「わが牧師たちを支える事は、わが教区の義務である。」(公開原稿13巻、英文、327ページ)。
「私が述べた人々(不適切な牧師たち)によって教会はしばしば奪われている。というのは彼らは宝庫からの支援を受けていながら、何もお返ししていないからである。彼らは有能な働き人を支えるために使われなければならない資金から継続的に引き出している。働きについている人々に対して充分な調査がなされるべきである。使徒は、『性急にだれにでも手を置いてはなりません』と警告している。生活がもし神によって受け入れられないものであれば、その働きは値うちがない。しかしもしキリストが信仰によって心に住まわれれば、すべての間違いは正され、キリストの兵卒たちは良く整えられた生活の中でそのことを喜んで証明するであろう。」(レビュー・アンド・ヘラルド、英文、1889年10月8日号)
エレン・G・ホワイトは什一で支えられるべきでない具体的な二つの状況を率直に述べています。それは、健康改革の勧告に従っていない場合と、什一と諸献金において神に忠実であるべきことを信徒に教えていない場合の二つです!
「神の使命者として、われわれは民に向かって次のように言おうではないか。『だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。』(1コリント10:31)歪められた食欲に耽ることに反対して確固たる証を立てようではないか。人類にこれまでに与えられた最も厳粛な真理を伝えている福音に仕える者が、エジプトの肉鍋に帰る模範を示すであろうか。倉からの資金で支えられている人々が、血管を通って流れている命を与える流れを毒するものに耽けり、それに身を委ねるであろうか。神が彼らにお与えになった光と警告を彼らは無視するであろうか。」(『教会への証』第九巻、英文、一五九ページ、傍線著者)
「教会は、主イエスに献身している牧師もしくは長老に、什一を集める働きをする忠実な役員たちを選ぶように任命すればよい。もし牧師たちが自分たちに与えられた責任にふさわしくないことが判明し、もし彼らが神のものをお返しすることの重要性を教会のまえに明らかにせず、牧師のもとにいる役員たちが忠実でなく、什一が納められていないことがわかれば、牧師たちは危険な状況にいることになる。彼らは教会にとって祝福か呪いかを決するほどの大切な事柄をおろそかにしているのである。このような牧師たちはその責任を解かれ、他の者たちに機会が与えられるべきである。」(『スチュワードシップに関する勧告』、英文、106ページ、傍線著者)
什一を納めることと終末時代の緊急性
エレン・G・ホワイトはしばしば彼女の著書の中でマラキ書三章を引用しています。聖書の文脈そのものと彼女の勧告はともに、この章を最終時代における最も顕著な側面であると位置付けています。
「この預言は特に最終時代に適用される。それは神の民に、主に対する自発的な献げ物として自分たちの持ち物を忠実に携えてくる義務を教えている。」(『教会への証』第一巻、英文、222ページ)
「まもなく主は力と大いなる栄光をもってこの地にお帰りになられる。……今こそ、神の子だと主張するすべての者は、自分の金銭を神の宝庫に携えてくるべきである。その倉からの資金で、真理をまだ一度も聞いたことのない人々に真理を伝えるために新しい場所に、働き人を備品と一緒に供給することができるのである。」(『上を向いて』、英文、360ページ)
「神に献げられた資金を誤用してきた人々は、自分たちのスチュワードシップについての責任が問われる。心が新たにされることによってまったき変革がなされない限り、天にはこのような人たちのいる場所はない。……神のみ業も神の宝庫も彼らにとっては、この世の目的のためにに献げられた普通の仕事や資金と同じもので、聖なるものではない。」(『教会への証』第二巻、英文、519ページ)
「恵みの期間の最終年月が速やかに終わろうとしている。主の大いなる日が近づいている。われわれは今こそ、全力を尽くしてわが民を立ち上がらせるべきである。預言者マラキによって与えられた主の言葉をすべての人々にはっきりと悟らせようではないか。[マラキ3:6~10引用]」(『教会への証』第6巻、英文、446ページ)