安息日学校部

20220104安河内アキラ解説

2022年第1期「終わりの時代に生きる」

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第4   私たちの忠実な兄弟イエス   1月22日

 

暗唱聖句
「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自身の死によって滅ぼし……。」 ヘブライ人への手紙 2:14

                                            

今週の聖句
レビ記 25:25~27、ヘブライ 2:14~16、ヘブライ 11:24~26、
1 コリント 15:50、ヘブライ 5:8、9、ヘブライ 12:1~4

                                            

今週の研究   ヘブライ1章は、神の御子としてのイエスは、天使たちを治める者であり、 同時に「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」(ヘブ1:3)であると 述べます。ヘブライ2章では、イエスは人の子として生まれ、わずかの間、天使たちよりも低い者とされ、死ぬべき体に至るまで人間のもつ弱さのすべてを身に負われた方として描かれます(同2:7)

まとめると、ヘブライ人への手紙は、永遠の創造主なる神という御子の本質を宣言すると同時に、憐れみ深い、忠実な人類の兄弟としてのイエスをも描いているのです(ヘブ1:1~4)

                                            

火曜日:「血肉」という表現は、人間の状態の弱さ(エフェ 6:12)、理解の欠如(マタ 16:17、ガラ1:16)、死への従属(1コリ15:50)を強調するものです。ヘブライ人への手紙の、イエスは「すべての点で」兄弟たちと同じようになられた(ヘブ2:17)との表現は、イエスが完全に人間であったことを意味しています。イエスは単に「人間のよう」であったのではありません。真に人間となったので す。

しかしながら、ヘブライ人への手紙は、イエスは「罪に関しては」私たちとは異なっていたと言います。イエスはどんな罪も犯されませんでした(ヘブ4: 15)。イエスの人性は「聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され」ていました(同7:26)。人の罪への傾向は、まさに人の性質そのものです。私たちは 「肉の人であり、罪に売り渡されて」(ロマ7:14、15~20参照)おり、私たちの善い行いさえも高慢やその他の罪深い動機に汚染されています。しかし、イエスのご性質は罪によって損なわれていません。もしイエスが私たちのようであったなら、彼にも救い主が必要でした。しかしイエスは、救い主としておいでになり、私たちのために御自身を、「きずのない」犠牲として献げられたのです(ヘブ7:26~28、9:14)。

                                            

水曜日:使徒は、神がイエスを「苦しみを通して完全な者とされた」と言っています。この表現は驚きです。彼は同時に、イエスは「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」であって(ヘブ1:3)、罪もしみも汚れもない聖なるお方であると述べています(同4:15、7:26~28、9:14、10:5~10)。これは、イエスにはいかなる道徳的、倫理的不完全がなかったことを意味します。

しかしながらヘブライ人への手紙は、イエスが「完全な者とされた」のは、私たちを救うために必要な過程であり、そのためにイエスは苦しまれたと述べています。

1)イエスは私たちの救いの創始者となるために、苦しみを通して「完全な者とされ」ました(ヘブ2:10)。私たちを救うための法的手段として、父なる神はイエスの十字架の死という犠牲を必要とされました。それはイエスのみが完全な犠牲の献げ物になることができるからでした。イエスは神として私たちを裁くことができると同時に、その犠牲によって私たちを救うことができるのです。

2)イエスは苦しみを通して従順を学ばれました(ヘブ5:8)が、それは二つの意味で必要でした。第一に、彼の犠牲が受け入れられるために、彼の従順が必要でした(同9:14、10:5~10)。第二に、彼は苦しみによって、私たちの模範になることができました(同5:9)。イエスは従順を経験したことがなかったので、従順を「学ばれ」たのです。

3)苦しみは、イエスが憐み深い、忠実な大祭司であることを明らかにしました(ヘブ2:17、18)。苦しみがイエスを憐れみ深くしたのではなく、憐れみのゆえに彼は自ら、私たちを救うために十字架で死ぬことを志願されました(同 10:5~10、ロマ5:7、8と比較)。苦しみを通してイエスの兄弟愛の真実が表現され、明らかにされたのです。

                                            

木曜日:ここでパウロは信仰の勇者のリストの頂点にイエスの名を挙げ、彼を「信仰の創始者また完成者」と呼びます。ギリシア語の「創始者」を意味する「アルケーゴス」は「先駆者」と訳すこともできます。信仰者たちの先頭を走ったイエスは、まさに先駆者と言えるでしょう。事実、ヘブライ6:20はイエスを「先駆者」と呼んでいます。「完成者」という言葉は、可能な限り最も純粋な神への信仰を示したイエスにふさわしいものです。パウロはイエスを、人生という競走を立派に完走した最初のランナーであり、信仰によって生きることを成し遂げた方として描いているのです。

                                            

今週は、キリストの人性について、ヘブライ2章を中心に学びます。イエスさまはこの地上にお生まれになったこと、それは神さまが人となってくださったのでした。火曜日の学びに書かれていますが、真に人間になられたのです。これは誘惑や試練にもあわれ、弟子に裏切られて、そして最後にわたしたちの罪を背負ってくださって十字架に架かってくださいました。イエスさまは死なれたこと、それは人間だったからこそおできになったのです。これは一つまちがったら、救いの計画が破綻する危険もありました。わたしたちの救いのためにそこまでしてくださったことによって、神さまの大きな愛が示されました。

水曜日の学びにおいて、神がイエスを「苦しみを通して完全な者とされた」と書かれています。詳しくは引用文をお読みください。イエスさまのご生涯の中の様々な苦しみを通して、わたしたちに苦しみを通して勝利する道を示されたのです。今週の学びは、忠実な兄弟であるイエスさまです。人間として歩んでくださったイエスさまが罪や試練に勝利されたのは、神さまとの関係において忠実だったからではないでしょうか。わたしたちは彼の模範から、神さまがわたしたちに示されている完全について学んで行かねばなりません。