第9課 休みのリズム 8月28日
暗唱聖句
「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は 祝福し、聖別された。」
創世記2:3
今週の聖句
創世記1 章、出エジプト記20:8~11、出エジプト記16:14~31、
申命記5:12~15、詩編92 編、イザヤ58:13
今週の研究 神はただ1日を、つまり第七の日をつくり、その日を特別なものとされたのです。まだ人間が、自ら生み出したストレスに満ちた人生を走り出す前に、神はしるしとなる生きた記念日をつくられたのです。神は、私たちがこの日に立ち止まり、人生をゆっくり楽しむことを望まれました。すなわち、何かをする日ではなく、ただ自分であるための日、そして木々、空気、野生の生き物、水、人間を、そして何よりも、これらすべての良いものの創造主を祝う日とするように願われたのです。
この招きは、人類最初のカップルがエデンを追われた後も続くのでした。神はまぎれもなくこの招待が、その初めから、時を超えて時代を生き抜くしるしとなるようお望みになりました。ですから、神はこのしるしを、まさに時という布の中に織り込まれたのです。
今週、私たちは神の、7日ごとに何度も何度も訪れる生きた記念日へのすばらしい招待について学びます。
月曜日:創造の御業は「極めて良かった」のですが、まだ完成してはいませんでした。創造は、神の休みと第七日安息日を特別に祝福することによって、完結するのでした。「この日に神は御自分の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」(創2:3)。
安息日は神の創造の一部です。事実、安息日は創造の頂点に位置するものです。神は休みをお定めになり、神の共同体としての人類が(このときはアダムとエバが家族の中心でしたが)、日々の仕事をやめ、彼らの造り主と並んで共に休むことができる時間を創造されたのです。
不幸にしてこの世に罪が入り、すべてが変わってしまいました。神との直接の交わりは、もうできなくなりました。代わって、産みの苦しみ、厳しい仕事、壊れやすい機能不全に陥った関係、すなわち人類すべてがよく知っている、この堕落した世界の悲痛がうんざりするほど繰り返されてきたのです。しかしなお、これらすべての中で、神の安息日は、私たちの創造のしるし、そして希望であり、私たちの再創造の約束として耐え、なお生き残っているのです。もし人類が、罪の前に安息日を必要としていたとすれば、罪の後はどれほど必要としていることでしょうか。
水曜日:出エジプト記20:8では、安息日の戒めが「覚えて」(口語訳)という語で始まっていますが、申命記5:12では、「守って」(同)で始まっています(「覚える」という語は、もう少し後の15節に出てきます)。この申命記の節では、彼らがエジプトで奴隷だったことを思い起こすように命じられているのです。この世代は自由の身で育ちましたが、奇跡的な救出がなければ、全員奴隷として生まれていたことでしょう。安息日の戒めは、彼らに、天地創造において働かれた同じ神が、彼らの救出においても生きて働かれたことを思い出させるためのものでした。「あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない」(申5:15)。
木曜日:安息日を守ることには、私たちの家族や友人との関係を育む意味もあります。神は、家族全員のための交わりの時間を提供されましたが、そこには奴隷や家畜の休みさえも含まれています(出20:8~11参照)。安息日と家族は一つなのです。
休みと家族の時間は重要な原則ですが、安息日を守ることは、教会という家族が共に神への礼拝に心を向け、一つとなって参加することをも意味します。イエスは地上生涯の間、礼拝の集会に導かれ、参加されました(レビ23:3、ルカ4:16、ヘブ10:25参照)。
私たちの週の日常業務やリズムは慌ただしいものかもしれません、しかし私たちの心の奥深くには、真の安息日の休み、私たちの創造主との真の交わりを慕い求める思いがあります。すべての仕事をやめ、神との時間を過ごすために備え、私たちの関係を育むことを覚えるとき、私たちは神がお定めになったリズムと安息日の休みに入るのです。
今週と来週は安息日による休みについて学びます。今週の暗唱聖句にあるように、神さまが第七日目を休まれたから安息日となりました。これは罪が地上に入ってくる前から、神さまはこの日を安息するように定め、十戒にも明記されたのでした。
安息日に神さまは、創造の仕事を離れとあります。わたしたちも、まず仕事から離れる必要があるのです。この意味について、教会の牧師として働いている時には、あまり感じることができませんでしたが、今は主な仕事が高齢者施設を管理することなので、同じ施設の中にあるチャペルで安息日に礼拝をしていますが、仕事を離れるという意味がよくわかります。講壇に立つときは施設内で用いている内線のPHSは手元にありません。仕事を聖と俗と分けるのではありませんが、日常生活の様々なことから離れて、安息日に礼拝をする時に、わたしたちが心を神さまに向ける時になっています。
安息日は神さまとわたしたちの関係性を再確認する時ではないでしょうか。第七日を守るということは、神さまの律法に100%従おうとしている姿勢なのです。そして第七日安息日を礼拝するということは、いのちだけを神さまが創造し、その後は進化を続けて行ったという理論ではなく、天地創造の時に、神さまがお命じなったら地球上のすべてのものが創造されたことを信じているからこそ、安息日を守るのです。いのちが神さまから与えられていることを信じることは、神さまとわたしたちの関係性を再確認する時です。
もう一つ、申命記5章に書かれている十戒は、安息日を守る理由にエジプトからの解放が書かれています。わたしたちはエジプトから解放されたわけではありませんが、人間の力ではどうすることもできない罪の鎖から解放されました。安息日は十字架や救いの象徴でもあるのです。この神さまとの愛の関係にあることを、忙しい仕事から離れて思い返すのが安息日なのです。