安息日学校部

20250408安河内アキラ解説

2025年第4期「ヨシュア記に学ぶ信仰の教訓」
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第8課  信仰の巨人——ヨシュアとカレブ  11月22日

 

暗唱聖句:あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。 ヘブライ13:7

                                          

今週の聖句:民数記13:6、30~32、ヨシュア記14:6~14、ルカ18:1~5、ヨシュア記19:49~51、Ⅱコリント3:18、ローマ12:1、2

                                          

今週の研究:今週は、ヨシュア記に登場する2人の信仰の巨人、カレブとヨシュアの個人的な手本について深く考察します。イスラエルの歴史の最も重要な時期に、彼らがその世代の中で際立ち、神の民の生活の中で重要な役割を果たせたのは、なぜでしょうか。

                                          

月曜日:カレブは、主がモーセを通して彼に与えてくださった約束、すなわち彼が足を踏み入れた土地にいつか入ることができるという約束を決して忘れませんでした(民14:24)。40年後、彼はその土地に関する自分の報告を、「わたし(が)思ったとおり」(ヨシュ14:7)の言葉であったと言っています。彼の報告は、神の導きと助けがあれば、イスラエルはその土地を征服できるという確信に基づいていたのです。

カレブは、各部族が最終的に所有する領土は、彼らが主の約束を主張する覚悟と、信仰によって踏み入る土地の広さに直接比例することを理解していました。神の約束は、私たちの意志とは関係なく実現するという意味で、自己実現的なものではありません。むしろ、神の約束は、断固とした行動を伴う信仰を要求するのです。ヘブライ語の「ウライ」(ヨシュ14:12)という言葉は〔日本語訳では「……なら」〕、恐れや疑いをあらわすこともありますが、通常は、希望や、何か良いことが起こるという期待を意味します(創16:2、民22:6、11、23:3)

                                           

水曜日:ヨシュアが残ったものから選んだ町の名前は、イスラエルの2番目の指導者の高潔な品性を証明しています。第一に、ヨシュアは、すべての民が彼らの割り当てを受け取るまで待ち、第二に、自分の嗣業の土地として、人口密集地や最もすばらしい町の一つを選ぶのではなく、地味な町、あるいは廃墟の町を選び、そこを苦労して再建しようとしたのです(ヨシュ19:50と比較)。

さらに、ティムナト・セラは、シロの近く、聖所の近くにあり、そのことは、ヨシュアの優先事項がどこにあり、彼の心が何に結びつけられていたのかを示しています。確かに、生まれ変わったイスラエルの民が約束の地に導かれ、神の助けによって、各部族と一族の嗣業の土地を確保したあとであれば、ヨシュアがもっとすばらしい嗣業を要求しても異論はなかったでしょう。しかし、ヨシュアは最も重要なことに焦点を合わせて質素な生活を送ることに満足し、のちにダビデが表明した祈りを体現しました。「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り/主を仰ぎ望んで喜びを得/その宮で朝を迎えることを」(詩編27:4)。

                                         

木曜日:使徒パウロは、ローマの信徒への手紙のまとめの章において、私たちの生活を形作ろうとする二つの対立する力について語っています。一方では、さまざまな影響力を持つ周囲の世界が、私たちを日々、その型に押し込もうとして、外から内へと働きかけ、私たちの内部の状態に影響を与えます。

この影響に対抗するために、聖霊は、青虫が美しい蝶に変身するのと同じように、私たちを内から外へと変えることがおできになります。しかし、そのような変化が起こるためには、私たちは自分自身を神にささげ、神が私たちの中で始められたこの善い業を続けてくださるよう(フィリ1:6)求める必要があります。結局のところ、私たちは聖霊の導きに従って歩むことを、一瞬一瞬、意識的に選択しなければならないのです。

                                         

今週はヨシュアとカレブの生き方から学んで行きます。彼らは出エジプトからカナン征服に至るまでの功労者であることは、だれもが認めていたでしょう。そして二人はイスラエルの民の中で最も高齢だったのです。だから彼らは自分や一族が希望する最良の場所を嗣業として選んでもだれもがそれを認めるでしょう。けれどもカレブは休むことを選ぶのではなく、未征服の最強の敵が住んでいる場所を自らの嗣業として選んで、そこを得るために戦いました。そしてヨシュアは最後にシロの幕屋の近くの自分の嗣業の地としました。イスラエルの民が神さまとの正しい礼拝を続けるように見守って行くためだったのです。

今週の暗唱聖句は大切なことを教えています。人生の最期は、その人の生き方の象徴であり結果なのです。信仰深い老後は、それまでに生き方の集大成なのです。高齢になってあわてて神さまの関係を深めようとしても難しいですね。若いころから神さまに従った生き方を選んで行ったからこそ、最後まで信仰の勇者として歩むことができたのです。
今日、ネットなどで様々な方々が自らの老後の経験などについて語られています。定年後の生活は、自分で何を選ぶか自由なのです。中には若いころからの夢を実現した方がいます。けれどもそれを叶えることができなかったという話しも書かれています。この違いはお金のあるなしではなく、少しの勇気と健康がポイントになっているとわたしは思います。どんなにやりたいことがあっても、健康でなければできません。おそらくヨシュアもカレブの健康だったからこそ、最後まで勇者として働くことができたのでしょう。わたしたちの教会が健康の原則について教えている結果は、よりよい奉仕を継続するだけでなく、幸せな老後につながっていきます。そして誰かの幸せのために働こうとする時に、神さまは導いてくださいます。それを信じる信仰を働かせてください。信じて前進する時に、神さまがともに働いてくださることを見ることができるでしょう。