第7課 究極の忠誠——戦場での礼拝 11月15日
暗唱聖句:何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 マタイ6:33
今週の聖句:ヨシュア記5:1~7、出エジプト記12:6、Ⅰコリント5:7、ヨシュア記8:30~35、申命記8:11、14、ヘブライ9:11、12
今週の研究:新しい世代が土地の獲得に取り組む前に、彼らは土地の真の所有者との特別な関係を十分に認識する必要がありました。契約のしるしの更新は、イスラ エルが無事にヨルダン川を渡ることができるようにしてくださった神の恵み深い奇跡的な行為への応答として行われたのです。神との契約は、神が私たちのためにすでに成し遂げてくださったことへの感謝の応答であるべきであり、神の要求に律法主義的に従うことで、何らかの利益を得ようとする行為であってはなりません。
月曜日:対照的に、第二世代の物語は荒れ野で始まり、ヨルダン川の渡りが続き、割礼と過越祭の祝いを経て、イスラエルの敵であるカナンの住民に対する主のもう一つの奇跡的な介入が期待される決定的な瞬間へと続きます。過越祭の祝いは、これまでのあらゆる行為と共に、イスラエルの歴史における新しい時代の始まりを告げるものなのです。
また、犠牲の小羊の象徴によって、過越の食事は、イスラエルの人々がエジプトの奴隷状態から解放されたことを指し示していました。しかし、それはまた、私たちを罪の奴隷状態からあがなった神の小羊による、その対型的な成就を指し示していました(ヨハ1:29、36、Ⅰコリ5:7、Ⅰペト1:18、19)。主の晩餐において、イエスは自らを究極の犠牲としておささげになる前に、過越祭をご自分の死の記念に変えられました(マタ26:26~29、Ⅰコリ11:23~26)。
しかし、過越祭や主の晩餐は、さらに栄光に満ちた現実を指し示しています。それは、救われた大勢の人が天のカナンに入ることです。啓示を受けたヨハネは、この対型的な「渡河」の出来事を、14万4000人が水晶に似たガラスの海、つまり対型的な葦の海やヨルダン川を神の玉座の前で歩くこととして(黙4:6、7:9、10)、また、小羊の婚宴の宴会で対型的な過越祭や主の晩餐を祝うこととして描いています(マタ26:29、黙19:9)。
火曜日:戦争と征服の重要性にもかかわらず、もっと重要なことがあります。それは、神の律法の要求に忠実であることです。征服は、イスラエルに対する神の計画の実現と全人類の回復のための一歩にすぎません。律法の戒めに忠実であるかどうかは、人類の運命における究極の問題なのです。ヨシュアは、祭壇の石とは別の、しっくいが塗られた大きな石に律法の写しを書きました(申27:2~ 8と比較)。したがって、十戒も書かれたと思われるこの石は、祭壇の近くで別の記念碑となり、契約に含まれる特権と義務をイスラエルの人々に絶えず思い起こさせました。
水曜日:私たち人間は、忘れっぽい傾向があります。私たちは、困惑するほど増えつつある日常生活の要求を、ますます短い時間の中に詰め込んでおり、同じ頻度や強度で繰り返されない物事は、どうしても忘れてしまいます。聖餐式のたびに、私たちは主に再献身し、契約の誓いを新たにする特別な機会を得ています。このような機会を、個人の再献身の機会としてだけでなく、集団として神への忠誠を新たにする機会として捉えるのは、良いことです。ますます個人主義が強まる社会において、私たちは同じ世界観、同じ価値観と信仰、そして同じ使命を共有する共同体に所属することの力を再発見する必要があります。
木曜日:「わたし(神)の住まい」である聖所の設立は、ご自分の民の中に住まれるという神の約束の成就をあらわしており(出25:8、レビ26:11、12)、この書の中心的主題を明らかにしています。イスラエルのただ中に神がおられることが、土地の占有を可能にしてきたのであり、イスラエルと、彼らを通して全地にとっての継続的な祝福の源となっていくのです(創12:3)。神を礼拝することは、土地の征服や割り当てよりも、中心的かつ優先的な位置を占めるのです。幕屋、そしてのちの神殿の存在は、神が彼らの中に臨在しておられることと、契約に従う義務が民にあることを常に意識させる助けとなったはずです。
今週は戦いの最中に、神さまから命じられて行った、割礼、過ぎ越しの祭りなどについて学びます。イスラエルの民がヨルダン川を渡ってエリコの近くに到着しました。彼らは神さまの力で川を渡ることができ、士気も上がっていることと思われる時に、神さまは割礼と過ぎ越しの祭りをするように命じられます。敵前で祭りを行う、これはとても危険なことでした。
2023年10月7日、ガザを支配しているハマスはイスラエルを急襲しました。これはシムハット・トーラという祭りの最中だったのです。この祭りは仮庵の祭りの最終日に行われ、ユダヤ教徒の家では毎日創世記から申命記までのモーセの五書を読みます。それが一年で一周します。その終わりと始まりがこの日だそうです。ガザの戦争についてはここでは述べるつもりはありませんが、彼らは祭りの時を狙って戦いを仕掛けて来たのです。
イスラエルの民がエリコの面前で、割礼と過ぎ越しのまつりを行うことも、同じように危険なことでした。けれども神さまは彼らに祭りを実施するようにお命じになりました。それはこの戦いは神さまがなさることと、神さまの守りを信頼するように教えるためでした。そしてキリストの時代までも彼らが年に三回、定められた時にエルサレムに巡礼をしていました。これも神さまの守りを信頼しているから行うことができたのです。
後半の学びではエバル山とゲリジム山に集まって、祝福と呪いについての律法の書を朗読しました。レビ記26章には従う民を祝福することと、背を向ける民を神さまは愛して彼らを気づかせるために呪いを送ることが書かれています。その最後には彼らを異国の地へ散らすと書かれており、後の歴史を見るとその通りになって行くのです。また申命記にも繰り返し従う民を祝福し、拒む民に神さまは呪いを通して悔い改めるように導かれることが書かれているのです。
先週の学びで書きましたが、ヨシュア記には「あなたはどちらを選びますか?」と問いかけられているのです。ヨシュアはカナンの地の占領が進み、民が定住を始める前に、神さまに従うことを選ぶように民に告げているのです。彼らは神さまの力強い働きを見てきました。けれどもその力を信頼するか否かは、彼ら一人ひとりが決めねばならなかったのです。そしてこの問いかけは、今日もあなたに語りかけられているのです。