安息日学校部

20250406安河内アキラ解説

2025年第4期「ヨシュア記に学ぶ信仰の教訓」
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第6課  内なる敵  11月8日

 

暗唱聖句:心を探り、そのはらわたを究めるのは/主なるわたしである。それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。 エレミヤ17:10

                                          

今週の聖句:Ⅰペトロ1:4、ヨシュア記7章、詩編139:1~16、エズラ記10:11、ルカ12:15、ヨシュア記8:1~29

                                          

今週の研究:約束の地の占領を行っている間、イスラエルは、最も危険な敵は彼らの陣営の外にではなく、彼らの兵士の中にいるという苦い教訓を学ばねばなりませんでした。彼らの前に立ちはだかった最大の難題は、カナン人の町の要塞化された壁でも、カナン人の高度な軍事技術でもなく、自分たちの陣営の中で、主の命令を故意に無視しようとする個人のかたくなな意志だったのです。

                                          

日曜日:イスラエルがアイの住民に敗北したおもな理由は、二つありました。アカンの罪と、自分たちの力に対するイスラエルの人々の過信です。後者のゆえに、彼らはアイへの攻撃の前に主の御旨を尋ねることを怠り、敵の力を過小評価してしまいました。

ヤハウェとイスラエルの間の契約は、個人と集団の両レベルで人々に関係していました。契約に照らせば、イスラエルは神に選ばれた民の不可分な統一体として扱われます。したがって、その構成員の1人、あるいは数人の罪は、契約共同体全体に罪を負わせることになります。主が言われたように、「イスラエル(単数)は罪を犯し、(彼らは)わたしが命じた契約を破(った)」(ヨシュ7:11)のです。

                                           

水曜日:ヤハウェの戦略は、イスラエルの最初の敗北を戦術的優位に変え、アコルの谷(ヘブライ語で「苦悩」)を希望の門に変えました(ホセ2:17〔口語訳2:15〕と比較)。イスラエルの人々に対する最初の勝利で自信過剰になったアイの住民は、撤退と敗北を装うイスラエル人に対し、同じ戦略を繰り返して攻撃します。ひとたびアイの住民が要塞から誘い出されると、町からあまり離れていないところに陣取っていた3万人のイスラエルの人々は(ヨシュ8:4)、空っぽの町を占領して、火を放ちます。ヨシュア記8:7は、勝利をもたらすのは戦略でなく、勝利を与え、アイの町をイスラエルの人々に引き渡される主ご自身であることを明らかにしています。8章は、この書のほかのどの章よりも軍事的側面が物語の中心を占めていますが、この聖句は、勝利がヤハウェの賜物であるという根本的な真理を強調しているのです。

今回は、目に見える奇跡的な神の介入はありませんが、アイに対する勝利は、第一世代のエジプト人に対する勝利や、直近のエリコに対する勝利に劣らず、神の助けによるものでした。成功の鍵は、ヨシュアが主の言葉を信じ、それに揺るぎなく従ったことにあります。この物語に見られる原則は、今日の神の民にとっても、たとえどこに住んでいようとも、どんな困難に直面していても、当てはまります。

                                         

木曜日:しかしその直後、彼はこの敗北によって神の御名と評判が傷つくことに大きな懸念を示しています。「カナン人やこの土地の住民は、このことを聞いたなら、わたしたちを攻め囲んで皆殺しにし、わたしたちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、御自分の偉大な御名のゆえに、何をしてくださるのですか」(ヨシュ7:9)。

この言葉は、イスラエルに対する神の目的の中心となる主題と原則を明らかにしています。神は、イスラエルの周囲にいる異教の民に、ご自身が神に従う民のためにどれほど偉大なことを行うかを見てほしいと望まれましたが、ラハブのように、彼らもまた、神の民の征服の力によってイスラエルの神について学ぶこともできました。一方で、ここでのように物事がうまくいかなかった場合、異教の民は、イスラエルの神が弱く、無力であると見なし(民14:16、申9:28参照)、カナン人の抵抗を強めることにもなりかねませんでした。

言い換えれば、ヘブライ人が土地を占領するという状況においても、大きな問題と原則が関係しており、そこには異教徒にとってもイスラエルにとっても唯一の希望であられる神に誉れと栄光を帰すことが含まれていたのです。

                                         

金曜日:「アカンを死に至らせた恐ろしい罪の根は貪欲であった。これは、すべての罪の中で最も一般的なもので、最も軽視されている。……アカンは罪を告白したけれども、時はすでに遅く、彼には何の役にも立たなかった。彼は、イスラエルの軍勢がアイで敗北し、失望したのを見た。しかし、彼は進み出て罪を告白しなかった。彼は、ヨシュアとイスラエルの長老たちが、言葉で表現できない大きな悲しみのうちに、地にひれ伏したのを見た。もし彼がその時に告白していたならば、それは、真の悔い改めの証拠となったことであろう。しかし、彼は、まだ黙したままであった。彼は、大きな犯罪が行われたこと、そして、その罪の性質さえもはっきり宣言されたのを聞いた。しかし、彼は唇を閉じていた。それから厳粛な調査が始まった。彼の部族、氏族、そして家族が指摘されたとき、彼の心は、恐怖に震えたことであろう。それでも彼は告白しなかったので、ついに、神の指が彼を指さすに至った。こうして、彼は、罪をこれ以上隠すことができなくなって事実を認めた。同様の告白が、なんと多くなされていることであろう。事実が証明されたあとで、それを認めることと、神とわれわれだけに知られた罪を告白するのとは、非常な相違がある。

                                         

今週はヨシュア記7,8章のアイとの戦いについて学びます。この戦いは、最初の戦いで大都市エリコを陥落させ、次に近くの町アイを攻めることになりました。ヨシュア記にはカナン全土を占領する戦いの記録が書かれていますが、その中でアイの町の戦いは、おそらく唯一の敗戦の記録なのです。決して大きな戦いではなかったのですが、2章を用いて記録されています。

日曜日の引用文に「イスラエルがアイの住民に敗北したおもな理由は、二つありました。アカンの罪と、自分たちの力に対するイスラエルの人々の過信です。」と書かれています。金曜日の引用文でアカンの罪の根は貪欲と書かれています。過信は、神さまを見ないで自分たちの判断だけで物事を進めようとしてしまうことです。どちらも人間が陥りやすい危険なことです。その結果イスラエルの民は敗戦してしまったのです。

今期の学びをしながら、ヨシュア記の隠れたテーマは「あなたはどちらを選びますか?」という問いかけではないかと考えています。神さまはイスラエルの民を愛して、導かれて来ました。そしてカナン人を滅ぼすために率先して働くと約束されています。けれどもあなたは、その約束を信じて信頼することを選びますか?と問われています。ラハブは、この問いかけに対して神さまを選んだのです。アカンはどうだったのでしょうか。最初から金や銀を持って行こうと考えていたのでしょうか。ここで金が50シュケル、銀が200シュケル見つかったと書かれています。1シュケルは11.4gと書かれていますので、金が500gくらい、銀が2キロくらいあったのを彼は見つけてしまったのでしょう。彼は当然ヨシュアの命令を知っていたはずです。けれども彼は貪欲な声に従ってしまったのです。そして天幕の下に保管してあったと書かれているので、家族も知っていたのでしょう。神さまは彼らに一夜の猶予を与えられました。けれども彼らは神さまの招きに応えませんでした。これはカナン人も同じではないでしょうか。彼らは出エジプトからの神さまの働きを見聞きして来たのです。けれども神さまからの光を頑なに拒み続けたのです。

ヨシュアは晩年にイスラエルのために、あなたはどちらに従うのか今日選びなさいと問いかけています。(ヨシュア24;15)この問いかけは、今日のわたしたちにも同じように投げかけられているのです。貪欲や自己過信でまちがった選びをしていないでしょうか。もしそれに気づいたら、今ならまだ戻るチャンスがあるのです。アカンにもその機会があったのです。恵みの時を大切にして行きましょう。