第5課 神があなたのために戦われる 11月1日
暗唱聖句:ヨシュアがただ一回の出撃でこれらの地域を占領し、すべての王を捕らえることができたのは、イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからである。 ヨシュア記10:42
今週の聖句:創世記15:16、レビ記18:24~30、Ⅱテモテ4:1、8、出エジプト記23:28~30、申命記20:10、15~18、イザヤ9:5(口語訳9:6)
今週の研究:旧約聖書における神の戦争という問題は、難しいものです。神は旧約聖書の中に、宇宙の主権者として登場されます。したがって、起こることはすべて、何らかの形で神の意志と直接的または間接的に関係しているに違いありません。ですから、「神はなぜそのようなことを許されるのか」という疑問は、避けることができません。
今週も引き続き、神が承認された戦争の複雑さ、神の戦争の限界と条件、旧約聖書の預言者が示した最終的な平和の幻、およびそのような戦争の霊的な意味について探っていきます。
日曜日:カナンの住民の罪が何を意味するのかを完全に理解するには、ヨシュア記の向こう側を見る必要があります。子どもの生けにえ、占い、呪術、魔術、降霊術、心霊術など、これらの民の忌まわしい習慣がヒントを与えてくれます(申18:9 ~12)。
カナン人の宗教は、豊穣を保証する自然現象が神々と女神たちの性的関係によって左右されるという信仰に基づいていました。そのため、彼らは自分たちの性行為を神々の性行為と重ね合わせ、神々や女神たちを促して同様の行為をさせるために、儀礼的な性行為を行いました。このような考えは、男娼、女娼の双方が乱交の儀式に従事する「神聖な」売春制度を生みだし、これもまた彼ら自身の宗教的慣習の一部となったのでした!
国家は、その民が礼拝する神々よりも高い道徳的水準に達することはできません。自分たちの神々に対するそのような理解の結果、カナン人の宗教的慣習に、聖書が特に警告していた子どもの生けにえが含まれていたのも不思議ではありません。
つまり、カナン人の根絶は、あとからの思いつきではなく、カナンの地をイスラエルの人々に与えるという神の決定の直後に決まったことでした。カナンの住民には猶予期間、つまり彼らの中に暮らしていた族長たちの証言を通して神とそのご品性を発見する機会を得る追加の恩恵期間が与えられました。彼らにはその機会がありましたが、明らかに彼らはそれを無駄にし、主が最終的に彼らを止めざるをえなくなるまで、恐ろしい習慣を続けたのです。
火曜日:火曜日:カナン人に対する神の当初の目的は、絶滅ではなく、追い出しでした。イスラエルが征服の戦いにどう関与せねばならなかったかを記した箇所を調べてみると、約束の地の住民に対して行われた追い出しや追い散らしについて述べた言葉が用いられています。破壊をあらわし、イスラエルが行為の主語となっているもう一つの言葉のグループは、異教の礼拝に関わる品物や破壊せざるをえない物など、ほとんどが無生物を対象としています。明らかに、異教の礼拝所と祭壇は、カナン人の宗教の主要で中心的なものでした。
聖戦は、おもにカナンの堕落した文化と社会に向けられています。汚染されることを避けるために、イスラエルは堕落を助長していたあらゆる要素を破壊しなければなりませんでした。しかし、カナンの全住民と、征服前に、あるいは征服中であっても、神の主権を個人的に認めた人々は、移住によって逃れることができました(ヨシュ2:9~14、士師1:24~26と比較)。カナン人の中で滅亡の運命をたどったのは、城塞都市に引きこもり、イスラエルの人々に対する神の計画に頑固に反抗し続け、心をかたくなにした人たちだけだったのです (ヨシュ11:19、20)。
水曜日:繰り返しになりますが、この世に罪が出現して以来、中立という立場はありません。人は、神の側に立つか、神に反抗するかのいずれかです。一方の側は命、永遠の命につながり、もう一方の側は死、永遠の死につながります。
完全な破壊を実行することは、罪と悪に対する神の正しい裁きをあらわしています。神は、その裁きの実行の一部を、自ら選ばれた民である古代イスラエルに委ねられました。この破壊への献身は、神の神権によって厳格に統制され、征服という歴史の一定期間と、古代カナンという明確な地理的領域に限定されていました。昨日の研究で学んだように、滅びの対象となった人々は、一貫して神の目的に反抗し、逆らい、決して悔い改めませんでした。したがって、彼らを滅ぼすという神の決定は、恣意的でも国家主義的でもありませんでした。
人々は恣意的に保護されたり、滅びの対象にされたりすることはありませんでした。ヤハウェとの関係から利益を得た人々も、反逆によって彼らの特権的な地位を失う可能性がありましたし、滅びの対象とされていた人々も、ヤハウェの権威に服従して生き残れる可能性がありました。
木曜日:今週の研究のおもな焦点は、神が命じ、支援された旧約聖書の戦争でしたが、旧約聖書の預言書には、同じように重要なもう一つの主題があることに言及しておく必要があります。その主題とは、平和なメシアの時代という未来像です。
エリシャの発案で、アラム軍に食事を与えた物語を考えてみてください。アラムの兵士を虐殺する代わりに(王下6:22)、エリシャは彼らに最高の理想である平和を示しました。それは、神がご自分の民にいつも望んでおられたものです。興味深いことにエリシャは、敵を取り囲む目に見えない軍隊の優位性を十分に認識していました(同6:17)
先週と今週は愛の神である聖書の神さまが、なぜ多くの人を戦いによって滅ぼしていったかについて学んでいます。水曜日の学びにも書かれていますが、わたしたちは中立を選ぶことはできません。そして最後は罪は滅ぼされて行くのです。その流れの中で、光を拒んだ人たちへの裁きが執行されていったのです。水曜日の最後に書かれていますが、その裁きはイスラエルの民だから救われるのではなく、神さまに従うことを選んだか否かで決まって行くのです。
そしてこの戦いには、もう一つの意義がありました。それは神の民に悪い影響が出ないためでした。異教徒の退廃した魅力的な習慣は彼らと神さまの関係から離れる危険性がありました。悪魔はそれを目的にしてカナン人を用いていたのです。これ以上汚染が広がらないように外科的な処置をするのと同じなのです。火曜日の学びでも書かれていますが、わたしたちはカナン人の根絶ばかりに目が行ってしまっていますが、彼らがカナンの地から出て行くことで、イスラエルの民との接触を避けることができたのです。
木曜日の学びでエリシャの時代に起きたことが書かれています。神さまは預言者エリヤやエリシャの時代にも不思議な方法でイスラエルの国を守られました。けれども神さまの目的は平和のうちに多くの人が神さまに従うことを選ぶことです。このような裁きの施行は最後の手段であり、できれば平和のうちに多くの人が神さまを選ぶことが、みこころなのです。神さまはわたしたちを救われて、そしてわたしたちを祝福することによって神さまの愛を平和のうちに多くの人に伝えようとしているのです。
今期の学びでは、ヨシュア記の中では有名なエリコの攻略については取り上げていません。また来週、アイの戦いに学びますが、今週の暗唱聖句になっていますが、10,11章でカナンの連合軍との大きな戦いがあります。ヨシュア日没を一日遅らせることを神さまに願い大勝利を納めました。(ヨシュア10:13)けれども今期の学びでは、この戦いについてもほとんど書かれていません。今期は神さまがモーセとの約束を、ヨシュアをとおして成就されたか、そして神さまの導きに人がどのように応えて、そしていっしょに働くときにどのような成果が与えられるか、そこに視点があてられています。ぜひこのような視点で今期の学びを続けてください。