第4課 あらゆる争いの背後にある争闘 10月25日
暗唱聖句:主がこの日のように人の訴えを聞き届けられたことは、後にも先にもなかった。主はイスラエルのために戦われたのである。 ヨシュア記10:14
今週の聖句:ヨシュア記5:13~15、イザヤ37:16、黙示録12:7~9、申命記32:17、出エジプト記14:13、14、ヨシュア記6:15~20
今週の研究:旧約聖書の時代に、神に選ばれた民がこのような行為に及んだことを、私たちはどう理解すればよいのでしょうか。旧約聖書の信頼性、権威、史実性を損なうことなく、「好戦的な」神のイメージと神の愛のご品性(例えば、出34:6、詩編86:15、103:8、108:5〔口語訳108:4〕)を調和させることは、どうすれば可能なのでしょうか。
今週と来週、私たちはヨシュア記やそのほかの箇所に見られる、神の命令による戦争という難しい問題を探求します。
月曜日:神は、責任を負うことのできる被造物を宇宙に住まわせ、愛するための前提条件である自由意志を彼らにお与えになりました。彼らは神の御旨に従って行動することも、逆らうことも選択できます。最も力のあった天使のルシファーは、神に反逆し、多くの天使を道連れにしました。
イザヤは「たとえ話」(ヘブライ語で「マシャル」)をしており、その話は、直近の歴史的文脈を超えた意味を伝えています。ここでは、バビロンの王が、反抗、自己満足、傲慢の象徴なのです。同様にエゼキエルは、ティルスの君主(エゼ28:2)とティルスの王(同28:11、12)を区別しています。ここでは、地上の領域で活動する君主が、天の領域で活動する王の象徴になっているのです。
ダニエル10:12~14によると、このような反逆的な天の存在は、地上における神の目的の達成を妨げます。私たちは、天と地のこのようなつながりを踏まえて、神が是認されたイスラエルの戦争を理解しなければなりません。私たちはそれらを、神とサタン、善と悪の大きな争いが地上にあらわれたものとして認識する必要があります。すべては、堕落した世界に神の正義と愛を最終的に回復することを目的としているのです。
火曜日:古代近東の戦争観によれば、人々の間の争いは、究極的にはそれぞれの神(または神々)の間の争いであると考えられていました。出エジプト記12:12は、主がファラオに対してだけでなく、エジプトの神々、すなわちエジプトの抑圧的な権力と不公正な社会制度の背後にいた影響力の強い悪霊たち(レビ17:7、申32:17)にも裁きを行われたと宣言しています。
結局のところ、神は罪と戦っており、この争いを永遠に容認されることはありません(詩編24:8、黙19:11、20:1~4、14)。確実かつ回復不能なほどに罪と同一化した人間と同様に、堕落したすべての天使も滅ぼされます。このことを踏まえて、カナンの住民との戦いは、十字架で頂点に達し、神の正義と愛のご品性が正当化される最後の審判で完結するところの争闘の初期段階として捉えられなければなりません。
カナン人を完全に絶滅するという考えは、神が全宇宙の悪の代表者と宇宙規模で戦っておられるという聖書の世界観に基づいて理解されなければなりません。究極的な争点は、神の名声とご品性なのです(ロマ3:4、黙15:3)。罪が人間の存在の内に入り込んでしまったために、誰も中立の立場であることはできません。人は神の側に立つか、悪の側に立つか、いずれかでなければなりません。したがって、このような背景を念頭に置いて、カナン人の根絶は、最後の審判の予告として捉えられるべきです。
水曜日:軍事技術の訓練を受けていない無力なイスラエルの人々のために、神が奇跡的に介入されることがパターンとなりました。出エジプトは、イスラエルのために神が介入されるモデル、範例となったのです。ここでは、戦いがヤハウェによってなされるだけでなく、イスラエルは戦わないように要求されています(出14:14)。神は戦士であられ、主導権は神にあるのです。神が戦略を立て、手段を決め、作戦を指揮されるのです。ヤハウェがイスラエルのために戦ってくださらなければ、彼らが成功する可能性はありません。
エレン・ホワイトはこのことを、神が、「戦争によってではなく、従順と神の命令への無条件の服従によって彼らが約束の地を獲得することを意図された」(『サインズ・オブ・ザ・タイムズ』1880年9月2日)事実のあらわれであると解釈しています。
エジプトから解放されたときのように、神が彼らのために戦ってくださるのです。彼らがなすべきことは、ただ静かにして、神の力強い介入を目撃することだけでした。
歴史は、イスラエルが神を十分に信頼していたときはいつでも、戦う必要がなかったことを示しています(王下19章、代下32章、イザ37章参照)。神の理想的な計画では、イスラエルは自分たちのために戦う必要がありませんでした。彼らがカナン人との戦争に参加することを神が許されたのは、出エジプト後に表明された彼らの不信仰の結果でした。出エジプトの際にエジプト人に対して剣を振り上げる必要がまったくなかったように、カナン征服においても、戦う必要はまったくなかったのです(申7:17~19)。
木曜日:神はご自分の原則を曲げることなく、ご自分の民がいるレベルに降りて来て、彼らを理想的な計画へ、つまり神の介入に対する完全で無条件の信頼へと絶えず呼び戻されます。実際、戦争に関する律法(申20章)が与えられたのは、イスラエルの不信仰によって引き起こされた40年間の荒れ野での経験のあとのことでした。新たな状況は新たな戦略を必要とし、その時初めて神は、カナン人を完全に絶滅するよう、イスラエルに求められたのです(同20:16~18)。
戦争は、イスラエルにとって必要な現実となっただけでなく、ヤハウェに対する彼らの忠誠心が試される機会ともなりました。神は彼らを見捨てず、むしろ彼らが神に完全に依り頼む経験を通して、ご自身の力を目撃することを得させたのです。
イスラエルの人々が征服に参加したことは、ヨシュア記の終わりでヨシュアが出した結論から明らかです。ここでは、カナン人がイスラエルの人々に戦いを挑んだと言われています(ヨシュ24:11)。エリコの城壁の崩壊は、神の奇跡の結果でしたが、イスラエルの民は積極的に戦闘に参加し、エリコの住民の頑強な抵抗に立ち向かわなければなりませんでした。
イスラエルが武力紛争に参加したことは、ヤハウェの助けに対する無条件の信頼を育む方法となりました。しかし、イスラエルは常に、それぞれの戦いの結果は最終的に主の御手の中にあり、その紛争の結果に影響を与えることができる唯一の方法は、主の約束に対する信仰か、不信仰の態度であるかを思い起こさせられました(ヨシュ7:12、13、10:8)。選ぶのは、彼ら自身でした。
今週と来週は愛の神である聖書の神さまが、なぜ多くの人を戦いによって滅ぼしていったのでしょうか。その答えをヨシュア記の中から学びます。この問いかけは聖書を学び始めた方が、よくされる質問であるし、聖書につまずく人の中には、この問題が始まりとなる人がいることも事実です。ですから神さまが信じない民を滅ぼすことについての学びはとても大切なのです。
今週の聖句の最初にヨシュア記5章13節からが選ばれています。ここはヨシュアが主の軍勢の長と会う場面です。ヨシュア記の1章や3章で、神さまはヨシュアに語られています。これは声だけだったのか、実際にだったのかわかりませんが、ヨシュアは神さまとは初対面ではありませんでした。けれども、ここでは「あなたは敵、味方?」と聞いています。大きな戦いの前、光り輝く軍勢の長が顕れたら、ヨシュアがこのような質問をするのもわかります。その後、ヨシュアは彼を礼拝します。彼はヨシュアの礼拝を止めなかったので、主の軍勢の長はキリストなのでしょう。彼は砂漠の中での放浪者だったのです。武器もなければ訓練も受けておらず、戦術もありません。神さまに従う以外、この戦いに勝利する方法はありませんでした。
火曜日の学びで、古代において戦いは民族だけでなく、その後ろに立っている神と異教の神と都の戦いでもあったと書かれています。日本でも戦国時代などは自らの国の神々を参拝してから出陣しています。負ければ領土がなくなるどころか生活のすべて奪われるからです。だからこそ最後には神頼みとなったのでしょう。けれどもわたしたちは神と神との戦いが見える場所だけではなく、人間が見ることができない全宇宙においての善と悪との戦いであることを忘れてはならないのです。そして最終的には最後に神さまが勝つことを聖書は宣言しています。それと同じことがヨシュア記では行われているのです。
カナン人たちは直接見てはいなかったかもしれませんが、神さまが出エジプトに際してイスラエルの民を奇跡的な方法で導かれたこと、葦の海を渡ったこと、40年間の砂漠での暮らしを支えられたことなど、神さまが生きている方であることのしるしをはっきりと知る機会が与えられたのです。その結果、ラハブの信仰が育まれたのです。このことは、もう一つ大切なことを教えています。しるしや奇跡を見ただけでは、人は神さまを信じることができないのです。そこから神さまを見つけて信じようとしないと、それらは彼らのものにならないのです。
神さまはわたしたちにどちらを信じるか問いかけています。最後の裁きまでに、必ず答えを出さねばなりません。カナンの人が滅ぼされたのは、彼らが選んだ結果だったのです。