安息日学校部

20250313安河内アキラ解説

2025年第3期「出エジプト記」
PDFダウンロード

第13課   幕屋  9月27日

 

暗唱聖句:雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。……旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである。 出エジプト記40:34、38

                                          

今週の聖句:出エジプト記33:7~34:35、申命記18:15、18、ヨハネ17:3、ローマ2:4、ヨハネ3:16、 Ⅱコリント3:18

                                          

今週の研究:旧約聖書における神の民の本来の役割は(今日の私たちと同様)、主と密接な関係を保ちながら生活すること、主を礼拝し、仕えること、そして、ほかの人々に神の正しい姿を示すことでした(申4:5~8)。

それゆえに、私たちの本来の使命は、神の正しいご品性と、神の愛情深く、正しい行為を周囲の人々に伝えることです。人々が神に引かれ、彼らに対する神の無私の愛を確信するとき、彼らは人生を神にささげ、神の言われることが自分のためになると知って、その言葉に従うでしょう。
聖所は、人類に対する神の親密さを説明し、信仰をもって神のもとに来た人々を神がいかに救われるのかという最も大いなる真理を啓示していました。

                                          

日曜日:旧約聖書の教会における安息日は、さまざまなメッセージを伝えています。その本質は、次の五つの要点にまとめることができるでしょう。
(1)神は創造主であり、聖書は、この驚くべき基礎的な宣言で始まっています(創1:1)。神の天地創造をはっきりと記念するものが安息日です(同 2:2、3、出20:8~11)。神が私たちの創造主であられるというこの真理から、ほかのあらゆる聖書の真理が生じています。
(2)メシアが来られるという希望は、蛇(サタン)に打ち勝ち、悪に対する勝利をもたらす「子孫」に関する神の約束を中心としています。
(3)神はご自分の王国を樹立されますが、安息日はその前触れです。
(4)救いは主からもたらされ、神の民は、神が彼らの救い主でありあがない主であること、救いが神の恵みとしてのみ与えられることを証しします。
(5)神は、あらゆる人の最終的な裁き主です。執拗に神に反抗し、否定する者には、未来はありませんが、神はご自分に従う者たちには、永遠の命を与えられます。

                                           

火曜日:幕屋の奉仕は、福音の視覚的実物教訓であり、神の救済計画の全体を示していました。さまざまな儀式は、
(1)神がいかに罪を憎み、いかに対処されるのか、
(2)神が悔い改めた人々をいかに救われるのか、
(3)悪人の運命はどのようなものか、
(4)神がいかにして罪のない輝かしい未来を保証されるのかを表現していました。

幕屋(聖所)では、1年を通じて、二つの異なる、しかし密接に関連した儀式(日ごとの儀式と年ごとの儀式)が行われていました。この2段階の働きは、神がいかに罪を扱い、罪人を救われるかを示していました。日ごとの儀式を通して、神は悔い改めた人々に、ご自身が罪を赦し、慈悲深く救いを与えることを保証されました。この救いの賜物を受け取るためには、犠牲をささげなければならず、これらの犠牲はメシアの死を指し示していました。その血によって、私たちは「あらゆる罪から清められます」(Ⅰヨハ1:7)。罪の告白とキリストの義の衣を受け取ることが、この賜物の中心でした(詩編32:1、2)。こうして、悔い改めた罪人は赦しを保証され、救いを喜ぶことができました。

贖罪の日に行われる年ごとの儀式は、神がいかに罪を根絶し、罪の問題を解決し、罪のない未来を保証されるのかを示していました(レビ16章、ヨハ1:29)。現在、天の聖所におけるキリストの二重の奉仕は、私たちに対する神の働きの別の表現であり(ヘブ7:25)、悪の問題に最終的な解決をもたらします(ダニ7:13、14、22、27、8:14、黙21:4)。
聖所は神を礼拝し、賛美し、感謝をささげるための場所でした。礼拝とは、神との関係を維持することであり、その神がご自身との交わりに私たちを招き入れてくださるのです。

                                           

水曜日:聖書には、働きが完了したと述べられている場面が三つあります。
(1)創造週の終わりに、神は創造の働きの完了を強調しておられます(創2:1~3)。
(2)幕屋が完成したときに、聖書は、「モーセはこうして、その仕事を終えた」(出 40:33)と宣言しています。
(3)ソロモンが神殿の工事を終えたときにも、同様に表現されています(王上7:51)。

天地創造とイスラエルの聖所とのこのつながりは、宇宙的な次元、つまり主が新しい地で、つまり「神の幕屋」である新しいエルサレムで、あがなわれた者たちとともに住まれる時を指し示しています(黙21:2、3、22:1~4と比較)。

神が幕屋をご自身の臨在で満たされたこと(出40:34)は、モーセの誕生に始まり、10の災いによるエジプトの神々の敗北、エジプトからの脱出、エジプト軍の敗北、そして最後に、シナイ山での神の啓示へと続いたさまざまな出来事の壮大なクライマックスでした。

                                         

木曜日:受肉していた間、イエスは人類の中に宿られました。なんと計り知れないへりくだりでしょう!永遠の神が、人間の1人として、私たちのところに降りて来てくださったのです。それは、彼が本当にインマヌエルであることを、つまり「神は我々と共におられる」ことを私たちに保証するためでした。

マタイ18:20 でイエスは、2人または3人が彼の名によって集まるならば、ご自身もその中にいると言われました。キリストは、聖霊の臨在を通して、ご自分の民とともにおり、ご自分と親しい関係になるよう、ご自分に従う者たちを招いておられます。「見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう」(黙3:20、聖書協会共同訳)。

                                         

今週で出エジプト記の学びが終わります。奴隷だったイスラエルの民を神さまは解放されて、荒野へ導かれても日ごとの必要に応えられ、そして民との契約である十戒を与えられました。そして出エジプト記は幕屋の建立で物語が終わります。神さまが民の中にともに住んでくださる、出エジプトの目的の一つが達成されるのでした。

わたしはかつてある教会で働いていた時に、小グループで創世記を最初から学んで行きました。創世記が終わって引き続いて出エジプト記と学びが進んで行きました。シナイ山あたりまでは順調に読んでいったのですが、ここで立ち止まってしまいました。それは25章~31章、35章~39章に書かれている、神さまからの聖所の建設についての説明と準備について、ほぼ同じ内容が二回書かれているのです。今期の学びを始めるにあたり、ここをどのように学ぶのか興味がありました。

おそらく神さまがモーセに語られた時には、もっと詳しく語られたのでしょう。また設計図というと箱舟を作ったノアにも神さまは語られています。(創世記6:14参照)以前も書きましたが、現代の造船工学において、船が最も安定する幅や高さの比率があるそうですが、それはノアの箱舟の比率だそうです。神さまは最高の設計者でもあるのです。出エジプト40章には「モーセは主が命じられたとおりにすべてを行った」と何回も書かれています。これは聖所が神さまの命令に従って作られたことを強調しています。幕屋の奉仕や神さまのご臨在については、引用した本文をご覧ください。

最後に今週の学びの前半に「ほかの人々に神の正しい姿を示すことでした」とあります。神さまはわたしたちを祝福することで、神さまの愛を伝える役割を果たすのが御心でした。彼らが金の子牛を作ってしまった時に「アロンは彼らに勝手なふるまいをさせて、敵対する者の嘲りの種になった」(出エジプト32:25)と書かれています。イスラエルの民が出エジプトをしてから、エジプトだけでなくまわりの国々にとっても彼らの動きを注視していたのです。彼らが今後どこへ行くのか、それによって周辺の民族としての存亡がかかっているといっても過言ではありません。きっと彼らはイスラエルの民を遠くから近くからいろいろな方法で観察をしていたことでしょう。アロンの時のような醜態もありましたが、神さまのすばらしい業を見たのはイスラエルの民だけではなかったのです。神さまは彼らにも語りかけられ悔い改めるチャンスはありましたが、神さまを選ぶことをしませんでした。

神さまは今日もいろいろな方法でわたしたちに語りかけてくださいます。けれどもそれを受け入れるか否かはあなたが決めることなのです。そして光を拒むことは、周辺の国々と同じ運命を歩むことになるのです。