安息日学校部

20250310安河内アキラ解説

2025年第3期「出エジプト記」
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第10課  契約と設計図  9月6日

 

暗唱聖句:モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。 出エジプト記24:3

                                          

今週の聖句:出エジプト記24:1~18、Ⅰコリント11:23~29、レビ記10:1、2、エゼキエル36:26~28、出エジプト記25:1~9、出エジプト記31:1~18

                                          

今週の研究:シナイでの契約の批准は、神がご自分の民との間に持つことを望まれた特別な関係を強化するものでした。その儀式において人々は、神が要求されたすべ てのことにおいて神に従うと二度叫びました。「わたしたちは主が語られたことをすべて行います」と、彼らは宣言したのです。彼らも本気でそうするつもりでしたが、自分たちの不完全さ、もろさ、力のなさを知りませんでした。契約の書が読まれたあとに、民に血がふりかけられたのは、キリストの功績によってのみイスラエルが神の命令に従えることを示していました。

                                          

日曜日:聖書の生ける神は、関係の神です。私たちの主にとって重要な要素は、物や計画などではなく、人です。従って、神は人間に細心の注意を払い、神の活動の第一の目的は、個人的な関係を人間と築くことにあります。結局のところ、「愛である」神は、関係を重視される神でなければならないでしょう。なぜなら、関係のない愛は、存在しえないからです。

イエスは、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハ12:32)と言われました。神は、私たちの倫理的な振る舞い、正しい教義、一連の適切な行動だけでなく、何よりも、私たちとの個人的で親密な関係に関心を寄せておられます。天地創造の際に定められた制度(創 1、2章)も「関係」に関するものであり、一つ目は、神との縦の関係(安息日) に関する制度であり、二つ目は、人間同士の横の関係(結婚)に関するものでした。

                                           

火曜日:イスラエルの人々は、神の言葉に従います、と三度熱心に誓いました(出19:8、24:3、7)。たとえ聖書が、私たち人間は、弱く、もろく、罪深いと教えていても、従順であることは重要です。この悲しい真実は、古代イスラエルの歴史だけでなく、神のあらゆる民の歴史を通じて明らかにされてきました。

私たちは、神に従おうと決心することができます。それが私たちの役割です。私たちは、神に身を委ねる選択を一瞬一瞬しなければなりません。私たちには神に仕えるという意識的な選択さえも実行する力がないからです。しかし、私たちが自分の弱さを神にささげるとき、神は私たちを強くしてくださいます。パウロは、「わたしは弱いときにこそ強い」(Ⅱコリ12:10)と言っています。

 

                                           

水曜日:神は、さまざまな手段を通じてご自分の民を教えておられましたが、その一つが聖所でした。聖所のあらゆる奉仕は、イエスを指し示していました。それらは、何世紀もあとにイエスを通して実現される救済計画の実物教訓でした。

出エジプト記25:10~27:21には、幕屋とその奉仕について、多くの詳細が記されています。神はモーセに、契約の箱、供えのパンの机、燭台、祭壇、垂れ幕、その色や寸法など、幕屋の建て方と祭具の作り方に関する具体的な指示を含む設計図をお伝えになりました。モーセは、神が示された型に従って幕屋を建てなければなりませんでしたが(出25:9、40、26:30)、それは天の聖所を写していました(ヘブ8:1、2、9:11)。地上の聖所は、イエスの死と天の聖所での働きが開始するまで重要な役割を果たしていましたが、それにより無効となり、その真理は、キリストの死によって至聖所を隔てていた垂れ幕が裂けたことに象徴されています(マタイ 27:51、マルコ 15:38)。

                                         

金曜日:幕屋は、神の民の告白された罪のあがないが成し遂げられる特別な場所でした。それは確かに、救済計画全体が、荒れ野にいるイスラエルの子らに詳しく啓示された場所でもありました。義認、聖化、裁きといったことがすべて、そこで教えられたのです。すべての動物のいけにえは、イエスの死、罪の赦し、そして最終的には、罪が拭い去られることを指し示していました。そしてまた、いけにえとともに、義の基準である神の律法も存在していました。

                                         

今週の学びは、神さまからわたしたちに関係を結んでくださり、そして神さまが彼らの中に住んで罪の赦しを理解できるように聖所を与えられたのでした。神さまが十戒を与える前に食事をした73人の中からも背教者が出たことが書かれています。彼らはエジプトを出る時から多くの神さまの不思議が業を見て来ました。けれどもすぐにそれを忘れてしまい不信仰に陥ったのです。わたしは聖地巡礼をしたことはありませんが、実際にシナイ山へ登ったことがある先輩牧師が、シナイ山への途中の道は砂漠で何も無く「こんなところで彼らが40年間暮らせたのは、神さまの力が無ければ決して無理だと思う」と話していました。けれども食べ物も乏しく水も無くとなったら、今までの導きなどを忘れて、現実の必要に応えられていないことへの不満を、わたしもきっと神さまに告げてしまっているかもしれません。人間には、現実の厳しさの前で、神さまを忘れてしまう弱さがあるのです。

けれどもそのようなわたしたちの中に神さまが住んでくださり、救済計画を実現するためにキリストを送ってくださったのです。それは神さまからわたしに親しい関係を結ぶためのものでした。そしてこの神さまの愛は、今でも同じように変わらないものです。わたしたちがすることは、その愛を信じて応えることです。けれども最初に書きましたが、奇跡を見ても背信する人もいるのです。大切なのは神さまをわたしを愛してくださっていることを実感していることではないでしょうか。たくさん愛されていることに気づくことができていれば、わたしたちは神さまにつながり続けて行けるのです。