安息日学校部

20250212安河内アキラ解説

2025年第2期「聖書の預言の学び方」
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第12課  前兆 6月21日

 

暗唱聖句:王神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。 Ⅱテモテ1:7

                                          

今週の聖句:ダニエル2:31~45、ダニエル3:1~12、17、18、黙示録13:11~17、ローマ 1:18~25、使徒言行録12:1~17、マタイ12:9~14

                                          

今週の研究:今週は、終末時代の諸事件を驚くほど詳細に予示する聖書の物語を、さらに2つ見ていきます。
まず、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの記事を研究しますが、この記事は、黙示録13章に描かれている問題を明らかに暗示しています。次に、新約聖書に目を向けますが、初期のクリスチャンの経験もまた、現在からキリストの再臨までの間に予想されることを理解する助けとなることがわかるでしょう。
いずれの例も、驚くべき勇気を際立たせており、最も困難な状況の下で心の平安を見いだすための鍵を提供しています。言い換えれば、確かに終末時代の諸事件は、神に忠実であり続けようとする者たちにとって困難で、試練に満ちたものとなるでしょう。しかし、最終的に、私たちはこれらの出来事を恐れではなく、希望を持って見るべきなのです。

                                           

火曜日:神の民は、獣とその像とは対照的に、「天と地、海と水の源を創造した方」、つまり創造主を礼拝するように招かれています。3人のヘブライ人の青年は、同様の脅威に直面して、同じ創造主である神以外の何者も拝むことを拒みました。したがって、創造主ではなく像を拝めという命令によって、ドラの平野で起こったことと、創造主ではなく像を拝めという命令によって、世界中で起こることとは、どんなに状況が異なっていても、原則は同じなのです。

礼拝は、必ずしもひれ伏したり、香をたいたりすることだけを意味するのではありません。私たちは、最終的に忠誠を誓うものを礼拝します。神がどなたであるか、つまり私たちの創造主であり、─イエスが私たちのために成し遂げてくださっていることのゆえに─救い主でもあることを考えると、言うまでもなく、神だけが礼拝を受けるにふさわしいお方です。それ以外はすべて偶像礼拝です。おそらくこのことは、イエスの次の厳しい言葉を説明するのに役立つでしょう。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」(マタ12:30)。終末の諸事件は、まさにこの真実の劇的なあらわれとなるのです。

                                           

水曜日:水曜日:ヤコブは首をはねられ、次はペトロの予定でした。クリスチャンに対する死刑が行われたのです。おそらく、この物語の最も注目すべき点の一つは、人生最悪のはずの夜に、ペトロがぐっすりと、天使が彼をつついて起こさなければならないほど! 眠っていたという事実にあるでしょう。
言うまでもなく、ペトロは奇跡的に解放され、信者たちが集まっているところへ行きました。彼らは、祈っていたにもかかわらず、ペトロが本当に解放されたことをなかなか信じられませんでした。聖書は、彼らが「非常に驚いた」と記しています。このことは、私たちがどれほど頻繁に祈りながら、神が実際に答えられることをいかに信じていないかを考えさせます。

救われた信者もいれば、殺された信者もいました。終わりの時が近づくにつれて、同じようなことが起こるでしょう。ペトロでさえ、その時は助かったものの、最終的には信仰のために死にました。イエスご自身も、ペトロがどうなるかを告げておられました。「『はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。』 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、『わたしに従いなさい』と言われた」(ヨハ21:18、19)。

                                           

木曜日:マタイ12章で、イエスが手の萎えた男を安息日にいやされたあと(マタ12:9 ~13)、宗教指導者たちは、いかに反応しましたか。「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」(同12:14)。第七日安息日のせいで死ぬのでしょうか。ヨハネ5:1~16では、第七日に再び奇跡的ないやしがなされたのち、指導者たちは、「イエスを迫害し、殺そうとした。イエスが安息日にこのようなことをなさったからである」(ヨハ5:16、英訳聖書)。

「人間の言い伝え」対「第七日安息日」のせいで死ぬのでしょうか(聖書は、安息日を日曜日に置き換えていないように、安息日にいやすことを禁じていません)。ここでのイエスに関する具体的な問題は、終末の諸事件における問題と同じでありませんが、それに近いものです。つまり、「人間の法律」対「神の律法」ということであり、いずれの場合も、争われている法は、聖書の安息日を中心にしています。

                                           

今週の学びはダニエルの三人の友人と初代教会における迫害を通して、終末時に預言されている教会の苦しみについて学びます。キリスト教会は全世界で宣教を続けて行く中で、様々な場所で苦しみを受けています。けれどもそのような時に固く立って信仰を表明したのが、今週学ぶダニエルの三人の友人たちです。なぜここにダニエルがいなかったのはわかりませんが、三人は逃げも隠れもせずに王様の前で神さまに従うことを表明しました。

このような困難な時について今回は二つのことを考えてみましょう。このような状態が突然やって来たわけではないと思います。聖書には書かれていませんが、おそらく彼らはいろいろな方法で迫害を受けないように働いたと思います。そのような働きは重要なのです。神さまを信じるか否かまで対決してしまう前に、できれば障害を取り除くことができれば最善なのです。そのためには彼らが普段から忠実な働きをして信頼されていなければ、話を聞いてもらうことができないでしょう。日頃の生きざまが問われて来るのです。もう一点は、迫害を受けた結果についてです。ある人は助けられて、ある人は殉教しています。このちがいは人間の行為の結果ではありません。神さまがすべてをご覧になった最善の方法とお取りになったのです。なぜそうなったか、それは天国へ行った時に神さまが教えてくださるでしょう。

今日、聖書のみを信仰と行為の基準とするというプロテスタント教会の中にも、人間の願望などから生まれた教会の伝承などに従った教えが入ってきてしまっています。なぜわたしたちは礼拝するのでしょうか。創造者である神さまを信じてそして讃美をするためです。終末時代には、人間の教えに従うか、それとも神さまのみことばに従うかが問われる時がやってきます。その時に、わたしはしっかりと立つことができるでしょうか。そのためにも毎日祈り、そしてみことばを読んで神さまとつながっていることが大切なのです。それだけでなく、越えられない苦しみは与えられないという約束を信じて行きましょうね。