第9課 詩編における例 (その2) 5月31日
暗唱聖句:神よ、すべての民が/あなたに感謝をささげますように。すべての民が、こぞって/あなたに感謝をささげますように。諸国の民が喜び祝い、喜び歌いますように/あなたがすべての民を公平に裁き/この地において諸国の民を導かれることを。 詩編67:4、5
今週の聖句:詩編46編、エレミヤ4:23~26、詩編47:2~5(口語訳1~4)、Ⅰテサロニケ4:13~17、
詩編75編、黙示録14:6~12
今週の研究:しかし預言は、罪と苦しみ、裁き、善と悪の戦い、正義と不正義の本質、迫害などに関連する重要な問題も扱っています。
詩編も、これらの問題を深く扱っており、暗い落胆から抑えきれない喜びに至るまで、人間のありとあらゆる感情を探求しています。私たちは詩編の中に、イスラエルが闇の勢力との戦いに備えているのを見ます。また、なぜ神はもっと直接的かつ即座に悪に取り組んでくださらないのかという疑問と格闘している人々の姿を見ます。この疑問は、間違いなく、私たち誰もが問うたことがあるはずです。私たちは答えを求めて聖所に導かれ、そこで、創造主としての神が繰り返し語られていることを知ります。このような問題や疑問は、今日の私たちも同じように格闘しているものではないでしょうか。それは言うまでもありません。だからこそ私たちは、これらの重要な真実をより深く知るために、詩編を引き続き学びます。
月曜日:ダニエルに示された王国はどれも、神の民にとって安住の地ではありませんでした(いくつかの王国は、他の王国よりも優れていましたが)。しかし私たちは、神の国の市民権があり(フィリ3:20)、この地球の混沌のはるか上には不動の王座があること(エゼ1:26参照)を知っています。イエスは、キリストの再臨の時が近づくにつれ、世界はさらにひどい混乱に陥るだろうと教えられましたが(マタ24章)、私たちは、地球の状態にかかわらず、信仰によって耐えることができます。なぜなら、神が制御を失わず、約束を果たしてくださることを、私たちは知ることができるからです。「すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔」(詩編46:7、8〔口語訳46:6、7〕)。短期的には、物事はうまくいきませんし、今後もそうでしょう。しかし、長期的にはどうでしょうか。イエスのおかげで、見通しはまったく違うのです。
水曜日:神が裁きの中で正されることの一つは、堕落したこの世で起こった権力の濫用です。堕落した人間は、もはや他者や神の栄光のために生きるのではなく、自分自身のために生きます。今日、私たちはさまざまな意味で、この宇宙には意味も客観的な道徳基準も存在しないと信じることを選択した結果とともに生きています。
問題がどれほど深刻であっても、信者として私たちは、希望を持って生きること、そして現在の出来事によって未来を判断しないことに気づかされます。文明の柱が、神を信じない人々の心や精神によって、あるいは聖書に基づかない神に対する見方を持つ人々によって着実に侵食されているのを見るとき、絶望するのはたやすいことです。私たちは現在、道徳的価値観が攻撃されている時代に生きています。人間の性別、男性と女性といった基本的な事柄でさえ、少なくとも世界の一部地域では攻撃されています。ある種の不道徳、つまりこれまで多くの人が内輪であっても話すことを恥じてきた事柄が、今では公の場で称賛され、喝采を浴びています。それほど状況は悪化しているのです。
木曜日:詩編67編は、「神が……御顔の輝きを/わたしたちに向けてくださいますように/あなたの道をこの地が知……るために」(詩編67:2、3〔口語訳67:1、2〕)という神への呼びかけで始まっています。救済計画において、神は、罪人が神の栄光によって滅ぼされることなく、輝くその御前に再び近づける道を備えられました。そして今、この地上の人生においても、キリストの十字架は、神の御顔が私たちを照らすことを可能にしているのです。
しかし、それだけではありません。神は、私たちが神の光をこの世のほかの人々に反射させることを意図しておられます。これがイスラエルに与えられた任務であり、それゆえ神殿はすべての国々のための祈りの家となるべきでした。「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(イザヤ56:7)
今期は預言の学び方について勉強しています。今週は詩編の中から預言に語られていることと共通する善と悪との戦い、正義、不正義、迫害の本質などについて学びます。これは目には見えない善と悪との戦いが行われてきたこと、そして先期の安息日学校聖書研究ガイドの学びでしたが、神さまと悪の力の差は歴然としていますが、苦しみがあるのは、神さまは何か意図があって悪の力が働くことをおゆるしなっていることがあるのです。例えば人の死が良い例でしょう。神さまは人を永遠に生かす力をお持ちです。けれども神さまがいのちをお取りになった人生は終わります。わたしたちは癒しを求めて祈ります。けれどもその祈りがすべてかなえられるのではありません。
同じように人間の社会でも、すべてが理想のようには進んで行きません。「なぜわたしたちは苦しみ続ければならないでしょうか」という祈りはいつの時代でも訴え続けているのです。日本でも江戸時代や第二次世界大戦時などにキリスト教を信仰することによって迫害を受けました。逆に今は平穏に信仰をすることができますが、残念ながらこのような日に終わりの時が来ると預言されています。だからこそ、今わたしたちは何ができるのでしょうか。
木曜日の学びで、「わたしたちが受けている光を反射することを求められている」と教えられています。「どうしたら救われるのでしょう」という問いかけは、生き方の方向が自分に向いています。けれども聖書は、「どうしたら誰かの幸せのために働けるのでしょう」と生きるように勧められています。最後に神さまが問われるのは、羊と山羊のたとえにあるように、自分の救いのために何をしたかではなく、どれだけ神さまのかわりに愛の行為をしたのか、それを問われるのです。(マタイ25:31~)
預言は、罪に満ちた世の中が最後に神さまの勝利で終わると示しています。これはわたしたちへの希望なのです。辛く苦しいことがあっても、越えられない苦しみは与えないという神さまの約束を信じて前進してください。(コリント第一10:13)