安息日学校部

20250208安河内アキラ解説

2025年第2期「聖書の預言の学び方」
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第8課  詩編における例(その1)  5月24日

暗唱聖句:また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。 黙示録14:1

                                          

今週の聖句:ヘブライ9:11~15、詩編122編、詩編15編、詩編24編、 出エジプト記33:18~23、詩編5編、詩編51:9~17(口語訳7~15)

                                          

今週の研究:詩編を注意深く読むと、黙示録、特に地上における神の残りの教会の最後の働きを説明する黙示録14章を生き生きとしたものにさせる詳細な記述が見つかります。神の終末時代の民には、昔のイスラエルと同じ使命が与えられています。すなわち、私たちは諸民族の光となり、創造主を礼拝し、創造主に従うよう、すべての人に最後の憐れみ深い呼びかけをするために存在しています。

神の歌集に含まれているいくつかの詳細な記述は、地球史の最後の時代における私たちの役割を理解し、認識する新たな方法を与えてくれるのです。

                                           

月曜日:ダビデの詩には、神の御前に出ることを許された人々が描写されていますが、その条件は、ただの罪人が満たすにはかなり困難なものです。私たちの中で、自分はいつも完全な道を歩いてきたと心から言える人がいるでしょうか。あるいは、いつも心に真実の言葉があったと言えるでしょうか(詩編15:2)。私たちの誰も、「揺らぐことがない」(同15:5)などとは言えません。もし私たちが、一度も罪を犯したことがないと言うなら、聖書は、私たちの内に真理はないと教えています(Ⅰヨハ1:8)。

私たちがシオンの山に立つことができるのは、小羊のおかげです。それ以外の結論に達することはありえません。小羊は、ダビデの詩では言及されていませんが、突然、黙示録14章の描写の中にあらわれます。まるで黙示録14章がダビデの問いに答えているかのようです。神の小羊がシオンの山の上、すなわち、聖所の中に立たれた今、私たちも、信仰によって私たちに与えられた神の小羊の完全な義によって、そこにいることができます。「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」(ヘブ10:19、20)。イエスの血がなければ、私たちにどんな希望があるでしょうか。実質的に、何もありません。

                                           

水曜日:ダビデは、「悪人は御もとに宿ることを許されず」(詩編5:5〔口語訳5:4〕)と主張していますが、そのことに注目するのは有益です。幕屋の目的は、神がご自分の民の間に住まれることであり、同じことがキリストの王国にも当てはまります(黙21:3参照)。神の御座に近づこうとする者は、あがなわれなければなりません。

ダビデが詩編5:8(口語訳5:7)で礼拝行為について述べていることも注目に値します。礼拝行為は、大争闘の中心的な問題です。黙示録13章は、「礼拝」について5回言及しており、三天使のメッセージは、「創造した方を礼拝しなさい」と世界に呼びかけています。ダビデは、「わたしは……あなた〔神〕を畏れ敬います」と語り、残りの民のメッセージは、「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである」(黙14:7)と世界にもう一度伝えることです。

                                           

木曜日:神の御前に召されるということは、最終的には送り出されるということです。神はその英知により、あがなわれた人々に、堕落した世界に対する神の直接的な声としての役割を委ねられました。ある時点で、地上における神の民の影響力が強く感じられるようになるでしょう。黙示録18:1は、罪に堕ちたこの惑星に対する神の最後の嘆願が全世界を輝かすだろうと述べています。

「人は、ひとたびキリストのもとに来るや否や、イエスがいかに尊い友であるかをほかの人に知らせたいと望みます。人を救い、清める真理は、どうしても心のうちに秘めておくことができません。私たちがキリストの義の衣をまとい、内住する聖霊の喜びで満たされているならば、黙っていることはできないはずです。もし主の恵みを味わい悟ることができたならば、何か言いたくなるものです。フィリポが救い主を見いだしたときのように、ほかの人々を主のみ前に誘わずにはいられなくなるでしょう」(『キリストへの道』改訂第三版文庫版111、 112ページ)。

黙示録14章の三天使のメッセージは、「永遠の福音」(黙14:6)に基づいています。つまり、「天と地、海と水の源を創造した方」(同14:7)を礼拝することや、バビロンの崩壊(同14:8)や 、「獣とその像」(同14:9)を拝むことについての宣布がなされる前から、福音の基礎、イエスによる救いの基礎が、宣べ伝えられています。なぜなら、三天使の警告とメッセージは、それを宣べ伝える人々がイエスと、イエスが彼らのためにしてくださったことのうちに持っている希望と約束を離れては、何の意味も持たないからです。「永遠の福音」を離れては、この世に向けて語るべき価値のあるものは何もありません。

                                           

今週と来週は詩編を預言の関係について学びます。詩編の学びなのに暗唱聖句は黙示録14章で天国における礼拝の様子について聖句が選ばれています。ここに14万4千人の者が神さまのそばにいます。彼らの額には神と小羊の印が押されています。神の印が押されている、それは神さまの所有物となった民であり、救われた民なのです。水曜日の引用文に書かれていますが、救われるためには、自分の力ではなくキリストに罪を贖ってもらわねばなりません。今週の学びの前半では、詩編の中で語られている、罪の贖いについて学んで行きます。

今週の学びの本文とは少し離れますが、救われた人が14万4千人と書かれていますが、これは象徴的な数字です。12×12×1000です。12は旧約聖書で神の祝福の始まりとなったイスラエルの12部族、次の12は新約聖書で福音を託された12弟子を指しています。そこから福音が広がって行ったことを1000は示しています。14万4千人というのは、ここと黙示録7章に出てきます。7章で14万4千人の説明のすぐ後に「あらゆる国民、部族から数えきれない大群衆が小羊の前に立つ」(黙示録7:9参照)と書かれています。救われるのは14万4千人ではなく、数えきれない人たちが天国へ入れていただくことができます。

そして彼らは神さまの前に立って礼拝します。礼拝は神さまを崇め讃美する行為です。詩編は今日の讃美歌です。礼拝に用いられていたものです。黙示録に書かれている三天使の使命は、わたしたちに真の礼拝に立ち返るように勧告をしているのです。預言はわたしたちに創造主を礼拝するように招いています。それは詩編においても同じなのです。神さまをあなたの主とする時に、まことの礼拝がこの地上でもなされるのです。