安息日学校部

20250206安河内アキラ解説

2025年第2期「聖書の預言の学び方」
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第6課  犠牲を理解する 5月10日

暗唱聖句:そして、彼らは新しい歌をうたった。「あなたは、巻物を受け取り、その封印を開くのにふさわしい方です。あなたは、屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、御自分の血で、神のために人々を贖われ」 黙示録5:9
                                           
今週の聖句:イザヤ1:2~15、ヘブライ10:3~10、出エジプト記12:1~11、Ⅰコリント5:7、
ハガイ2:7~9、イザヤ6:1~5、黙示録4:7~11
                                          
今週の研究:今週は、玉座の間の場面の明確な主役である屠られた小羊、イエスを理解するために、犠牲という主題を見ていきます。イエスは、ほかの誰にもない価値ある存在として受け入れられ、その比類なき価値は、主が犠牲制度を通してなさっておられたことを雄弁に物語っています。それは、誰もが驚嘆する究極の犠牲を払われた主が、限りなき愛の神であることを明らかにしています。
                                           
日曜日:それは、この世の王国を動かしているのと同じ精神、つまり自己満足の精神です。カインは自分の好きなように生き、自分のやり方で単に形だけの儀式を神にささげようとしたのです。カインは神を、自分の針路を定めるうえでの迷惑なもの、障害物と見なしながらも、形だけの儀式を行う程度には神を恐れていたとしか考えられません。
しかしアベルは、神が要求しておられた犠牲、つまり神が約束された来きたるべきメシアを示す犠牲(創3:15)をささげました。それが、カルバリーにおけるキリストの救済行為を指し示す小羊でした。
「アベルは、贖罪の大原則を理解した。彼は自分が罪人で、彼の魂と神との間の交わりを、罪とその刑罰である死が妨げているのを知った。彼は、ほふられた犠牲、すなわち、犠牲にされた生命を携えて来て、彼が犯した律法の要求を認めた。彼は、流された血によって、来るべき犠牲、カルバリーの十字架上のキリストの死を見た。そして、彼は、そこでなされる贖罪を信じて、自分が義とされ、供え物が受け入れられた証拠が与えられた」(希望への光 』38ページ、『人類のあけぼの』第6章)
                                           
月曜日:犠牲を伴う儀式は、飛行機代金の支払いに少し似ています。飛行機のチケットを購入しても、代金に相当する旅行がすぐに手に入るわけではありません。代わりに搭乗券を渡されます。これは、これからの旅の象徴、または約束です。あなたは、搭乗券を好きなだけ眺めていることはできますが、それはあなたを目的地まで運んでくれるわけではありません。ただし、ひとたび搭乗して旅が始まれば、支払ったものが手に入り、紙の搭乗券は不要になります。
犠牲の動物も同様でした。それらには果たすべき重要な役割がありましたが、ひとたび真の犠牲がささげられると、無意味になりました。地上の聖所の〔第一の部屋である〕聖所と至聖所の間の垂れ幕がイエスの死によって引き裂かれたとき、その現実があらわされました。「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(マル15:38)。神殿を含む犠牲制度全体が、イエスの十字架の死を指し示していました。ひとたびイエスが十字架で約束を果たし、死に勝利して復活されると、予型は不要になったのです。
                                           
木曜日:サタンは神に対して多くの非難を浴びせ、神は独断的で、利己的で、厳しいと主張していますが、神の玉座を一瞬見ただけで、サタンの嘘は暴かれます。「屠られた小羊」(黙5:12)なるキリストのありのままの姿を見ることで、私たちは父なる神の真の姿がわかります。イエスを見ることで、父なる神の真の姿がわかるというのは(ヨハ14:9)、なんという慰めでしょうか。私たちは、父なる神がどんなお方であるかという最大の啓示を、私たちのために十字架で死なれたイエスに見ることができるのです。
したがって十字架は、私たちに二つのことを示しています。第一に、神がご自分を身代わりの犠牲にするほど私たちを愛しておれることと、第二に、私たちが十字架によってしか救われえないほど罪深く、堕落していることです。
                                           
金曜日:また、神そのものであるイエスの死によってしか、罪の問題を解決できなかったほど、罪がいかに深く、人類がいかに堕落しているかということについて、考えてみてください。もし、神の統治の原則に反することなく、私たちを救う別の方法があったなら、神は間違いなくそれを実行されたことでしょう。
「しかし、神の愛は、すでに、人間を贖う計画を立てていた。破られた神の律法は、罪人の生命を要求した。人間に代わって、その要求に応じられるのは、全宇宙にただ1人しかいなかった。神の律法は、神ご自身と同様に神聖であるから、罪の贖いをすることができるのは、神と等しい方だけであった。罪を犯した人間を律法ののろいから贖い、再び、天と調和させることができる者は、キリストのほかになかった。キリストは、罪のとがと恥をその身に負われるのであった。罪は、天父とみ子を離れさせるほど、聖い神にとっていまわしいものであった。キリストは、堕落した人類を救うために悲惨のどん底に降りて来られるのであった」(『希望への光』33ページ、『人類のあけぼの』第5章)。
                                           
今期の学び中で、わたしたちは「予型」と「対型」という言葉を学びました。予型は、預言のように神さまが将来に向けて、何かかたちのあるものを使って語られることで、今週の犠牲制度などが予型です。犠牲の動物は十字架のキリストを示しています。対型は予型で示されたものの結果で、予型の犠牲で表された対形として十字架があります。
木曜日と金曜日の学びに、罪の解決のためには十字架による犠牲しかなかったと書かれています。別のもっと簡単な方法があったら、神さまはまちがいなくそれを選択されていたでしょう。神さまはわたしたちのためにこれだけ大きな犠牲を払ってくださいました。神さまの愛の大きさを示していますね。
月曜日の学びで、飛行機に乗ることを用いて救いについて教えています。わたしたちが子どもの時には「ふくいんの汽車」という讃美歌がありましたね。この時代には飛行機に乗ることが一般的でなかったので、汽車になったのでしょうが、教えようとしていることは同じです。福音の汽車には無償で乗れるです。神さまはキリストによって代わりに汽車賃を払ってくださいました。けれども乗ることを選ぶのはあなたなのです。たとえタダでもあなたが乗らなければ天国へは行けません。神さまがあなたのために払ってくださった大きな犠牲を無駄にしないようにしましょう。