安息日学校部

20250202安河内アキラ解説

2025年第2期「聖書の預言の学び方」
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第2課  基礎となる創世記  4月12日

暗唱聖句:その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った.「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」ヨハネ1:29
                                           
今週の聖句:イザヤ40:7、8、創世記22:1~13、ヨハネ3:16、黙示録5:5~10、Ⅰコリント15:15~19、黙示録12:1~9
                                          
今週の研究:今週、私たちは黙示録の核となる重要な概念を少しだけ研究します。核となる概念はたくさんあるので、いくつかを選びますが、それは、黙示録の背後にある古代的な基礎を理解することで、聖書を学ぶ者たちが聖句に含まれる無数のニュアンスを理解できるようになるという非常に重要な点を明らかにするためです。そのニュアンスの一つひとつが、人間の本質、神の本質、そして私たちの宇宙と、ひいては私たちの人生において繰り広げられている争いの本質について重要な洞察をもたらしてくれます。
                                           
日曜日:現代世界の多くは、「真実(真理)」ではなく、「真実性」について語ります。なぜなら、「真実」とは、時間の経過とともに変化しうるもの、影響を受けやすいものだと考えられているからです。あるいは、「真実」という概念自体が疑わしいと見なされる場合もあります。
しかし、神が真理を確立するとき、ご自分の考えを変更されることはありません。ひとたび神がご自分の民に真理を教え始められたなら、聖書の同じ原則や主題が繰り返されるときに、その意味は変わることがなく、むしろ、さらなる光がその意味に当てられるという事実を私たちは期待できます。したがって、預言を研究するうえで、多くの重要な概念が初めて説明されている創世記をよく理解し、その基礎的な理解を伴って聖書の残りの部分を探求することは、極めて理にかなっているのです。
                                           
水曜日:私たちはよく、「死は生の一部にすぎない」と言います。それは嘘です。死は、生の対極であり、生の破滅です。それは、地上で私たちが経験するはずのなかった異質な侵入者なのです。私たちが死というものに慣れてしまったにもかかわらず、死に遭遇すると、私たちの心は今でも強く反発します。まるで人類全体がまだ、死には根本的に何か問題があることを認識しているかのようです。死は痛みを伴うものですが、子どもの死のように、特に悲劇的に思える場合もあります。たいていの場合、私たちは、親が子どもより先に死ぬと予想しており、それが正常な順序であると受け入れてきました。
しかし、聖書に記録されている最初の死は、予想される順序に反しています。アダムとエバは、自らの死を経験する前に、正しい息子が正しくない兄に殺されるという死の悲劇を経験しました。それは、極めて不当な死でした。
アベルのように、不義なる者たちによって殺された、義なるイエスのことを考えてみてください。キリストの死ほど不当な死があったでしょうか。アベルの死と十字架上のキリストの死の間には、ほかにどんな類似点があるでしょうか。アベルの死の性質は、イエスが「死と陰府の鍵」を持っている理由と、神がイエスによって私たちに何を与えてくださっているかを理解するうえで、いかに助けとなるでしょうか。
                                           
木曜日:聖書には、サタンが全世界を惑わす記事が二つあります。一つは、人間が2人だけだったときの創世記の記事です。もう一つは、黙示録12章と13章の記事であり、サタンは、「全人類を惑わす者」(黙12:9)、また海の獣に力を与え、「全地の人々」(同13:2、3、口語訳)が驚いて獣を拝むようにさせる者として描かれています。聖書の預言に見られる主題の一つは、この大争闘の不変の本質です。神のご品性と言葉は変わりませんが、悪魔の野望も変わりません。
幸いなことに、この大争闘の本質が変わらず、また聖書の預言的な書の中に明確な言及があるので、クリスチャンは時代の流れを見極め、霊的な落とし穴がどこにあるのかを認識することができます。神は常に神でおられ、悪魔も変わりません。サタンはさまざまな変装をするかもしれませんが、何千年にもわたる堕落した人類史は、黙示録に描かれた預言的なシナリオとともに、サタンがエデンで用いた計画から決して逸れないことを示しています。神は私たちに知恵と見分ける力を与えることを約束してくださっており(ヤコ1:5)、聖書の確かさで武装した私たちは、悪魔の嘘にだまされる必要はありません。しかし残念なことに、非常に多くの人がこれまで悪魔の嘘にだまされてきましたし、これからも非常に多くの人々─大多数─が、だまされることでしょう。
                                           
今週の学びは黙示録と創世記のつながりについて勉強します。このような視点で語られることはあまりありませんね。けれども旧約聖書は救い主キリストが与えられる、そして新約聖書は神さまがすべての罪を終わらせて救ってくださるというメッセージで一貫して書かれているわけで、それが黙示録までつながっているという視点で読むことは大切なことですね。アダムとエバが罪を犯してすぐに神さまは救いの道をお示しになりました。(創世記3:15参照)神さまはいつの時代でも、人々に救い主を信じるように呼び掛けておられるのです。聖書は一貫して救いの招きをしています。
今週の学びでは創世記に書かれている「予表」がいくつか例として書かれています。それは預言ではありませんが、キリストの働きを当時の人間を通して示そうとされたのです。今週はアブラハムがモリヤの山で息子をささげる場面が書かれています。これはキリストの十字架の犠牲や神さまの深い愛についてわたしたちに教えているのです。また出エジプト記のモーセの働きなども、人々をエジプトから救い出す働きは、神さまの導きをわたしたちに教えるものです。このように聖書の中には予表を用いて神さまは語られることがたくさんあります。
木曜日の引用文に書かれていますが善と悪との戦いは創造以前から始まっているのです。そのように考えると聖書は一貫してわたしたちへ救いの道を示す神さまのことばなのです。このような視点でみことばを読むこと、また今期の学びを続けて行くことはとても大切だと思います。