安息日学校部

20250108安河内アキラ解説

2025年第1期「神の愛と正義」

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第8課  自由意思、愛、神の摂理  2月22日

暗唱聖句:これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。 ヨハネ16:33

今週の聖句:ルカ13:34、エレミヤ32:17~20、ヘブライ1:3、申命記6:4、5、エフェソ1:9~11、ヨハネ16:33

今週の研究:聖書の強力な証拠は、神がすべての出来事を決定しておられるわけではないことを示しています。それどころか、神は人間に自由意志をお与えになり、彼ら(や天使たち)は、神の意思にまったく反する行動を選択することさえできるのです。堕罪、罪、悪の歴史は、この自由意志を悪用した結果の劇的かつ悲劇的なあらわれです。救済計画は、自由意志の誤用によって引き起こされた悲劇を解消するために立てられました。

火曜日:神が全能であられるということは、神が論理的に不可能なこともおできになるという意味ではありません。したがって、誰かが神を自由に愛するように、神が原因となって勝手に決めることはおできになりません。自由に何かをすることが、勝手に決められることなく何かをすることを意味するのであれば、定義上、誰かに自由に何かをさせることは不可能です。要するに、これまで見てきたように、そして改めて強調しなければならないことですが、神は誰に対しても、神を愛するように強制することがおできになりません。強制された瞬間に、それはもはや愛ではないからです。
神を愛しなさいという最も重要な掟は、神がすべての人にご自分を愛してほしいと本当に願っておられることの証拠です。しかし、すべての人が神を愛しているわけではありません。では、なぜ神は、すべての人が神を愛するようになさらないのでしょうか。繰り返しになりますが、愛が愛であるために、愛は自由に与えられなければならないからです。

水曜日:エフェソ1:11は、神は「御心のままにすべてのことを行われる」と明言しています。これは、神がすべてをご自分の望むとおりに起こされるという意味なのでしょうか。エフェソ1:9~11だけを読むと、この見解を肯定しているように思えるかもしれません。しかしこの解釈は、先に見た、時として人が「神の御心」(ルカ7:30)を拒むことを示す多くの聖句と矛盾しています(ルカ13:34、詩編81:12~15〔口語訳81:11~14〕と比較)。聖書自体に矛盾がないとしたら、これらの箇所をどのように理解すれば互いに調和するのでしょうか。
この箇所は、私たちが神の「理想的御心」と呼ぶものと「救済的御心」と呼ぶものの違いを認識すれば、完全に納得がいきます。神の「理想的御心」とは、神が実際に起こることを望まれることであり、もしすべての人が常に神が望まれるとおりに行うならば起こることです。一方、神の「救済的御心」とは、時として神の好まれることから逸脱する被造物の自由な決定を含む、あらゆるほかの要素をすでに考慮に入れた神の御心のことです。エフェソ1:11は、神の「救済的御心」を指しているようです。

木曜日:特に苦しみや試練の時に、人の信仰は揺らぐことがあります。神がこの世の苦しみや試練から免れさせてくださる、あるいは免れさせてくださるはずだと誤って思い込んでいるからです。しかし、イエスはそれとはまったく異なる話をし、ご自分の弟子たちに、この世では試練や苦難を経験するだろうと警告なさいました。しかし、希望はあります。なぜなら、キリストがすでに世に勝っておられるからです(ヨハ16:33)。
私たちが苦しみや試練に遭遇するという事実は、神が私たちにそれを望んでおられるということを意味しません。私たちは、大争闘という全体像を常に心に留めておくべきです。しかし、神は悪しき出来事からも善をもたらすことがおできになると、私たちは確信することができます。そして、もし私たちが神を信頼するなら、神は私たちの苦しみさえも、私たちを神に引き寄せ、私たちが他者を思いやるように動機づけるために用いることがおできになります。

神さまにできないことはありません。神さまは全知全能ですと教会では教えますが、神さまにできないことがあります。できないというよりもなさらないと考えた方が良いのかもしれません。それは人間の自由を尊重されるからこそ、人の心を強制されないことです。わたしたちに与えられた自由というのは、神さまが与えてくださった大きな愛からなのです。
キリスト教会の中で「予定説」を信じているグループがあります。彼らの考えは、神さまは救われる人をあらかじめお決めになっている。だから伝道の成果などに一喜一憂するのではなく、自分たちの役割を果たして行けばよいと考えています。もし人間の救いがあらかじめ神さまによって決められているとしたら「一人でも多くの人が救われるために忍耐して待っておられる」(ペテロ第二3:9参照)というみことばの意味はどうなってしまうのでしょうか。
それでは神さまのわたしたちへのご計画はないのでしょうか。神さまはわたしたちを愛していろいろな道を開いてくださいます。けれどもそれに従うか否かはあなたの決断なのです。もし進むことができなかったら、神さまは別の道を用意してくださるのです。またもし神さまの想いに背を向けてしまったとしても、神さまは導き続けてくださり、まちがい気づいたら戻ってくるように導かれるのです。
最後に残念ながら聖書は神さまを信じることによって苦しみが無くなるとは教えていません。けれども今週の暗唱聖句は、キリストが十字架の前夜の二階座敷での説教の最後の約束ですが、苦しみの中でもわたしたちが平和を得ることができるよう、すべてに勝利したと宣言されています。神さまは、わたしたちがどのような時にも勝利できるように自由とともに贖いの計画を立ててくださり、キリストが十字架で完成をしてくださったのです。わたしたちに与えられた自由は、これほど大きな神さまのご計画に中にあるのです。