安息日学校部

20250105安河内アキラ解説

2025年第1期「神の愛と正義」

PDFダウンロード

                               

第5課  神の愛と怒り  2月1日

暗唱聖句:しかし、神は憐れみ深く、罪を贖われる。彼らを滅ぼすことなく、繰り返し怒りを静め/憤りを尽くされることはなかった。 詩編78:38

今週の聖句:詩編78編、ヨナ4:1~4、マタイ10:8、マタイ21:12、13、エレミヤ51:24、25、
ローマ12:17~21

今週の研究:神の怒りは常に、悪と不正に対する神の正しく愛に満ちた反応です。神の怒りは、完全な善と愛に突き動かされた義憤であり、すべての被造物の繁栄を願ってのものです。神の怒りは、悪と不正に対する愛の適切な反応にすぎません。したがって、悪は神を刺激して激情に駆り立て、悪の犠牲者には好意を、悪の加害者には反感を抱かせます。つまり神の怒りは、神の愛のもう一つの表現なのです。

日曜日:聖書によれば、愛と正義は絡み合っています。神の怒りは、悪に対する愛の適切な反応です。なぜなら悪は、神が愛する人を常に傷つけるからです。神が恣意的に、または不当に激怒したり、怒ったりされた例は、聖書にありません。
また、神の民が繰り返し神を見捨て、裏切る一方で、神は何世紀にもわたって、あらゆる合理的な期待を超えた憐れみを忍耐強く与え続け(ネヘ9:7~33)、辛抱強い憐れみと慈愛の底知れぬ深さを示されました。実際、詩編78:38によれば、「神は憐れみ深く、罪を贖われる。彼らを滅ぼすことなく、繰り返し怒りを静め/憤りを尽くされることはなかった」のです。

水曜日:聖書全体を通じて、神は、虐げられた人や抑圧された人を保護する熱情と、加害者や抑圧者に対する義憤を繰り返し示しておられます。もし悪がなければ、神はお怒りにならないでしょう。神の怒りは、ご自分の被造物を害するものに対してのみ、常に向けられるのです。
哀歌3:32、33によれば、神は進んで(文字どおりには、「心から」)苦しめられることはありません。神は悪人に裁きを下すことを望まれませんが、愛が最終的に正義を要求するのです。
この真実は、神がいかに長い間ご自分の民を赦ゆるし続け、悔い改めて神と和解する機会を繰り返し与えてこられたかに示されています。預言者たちを通して、神は何度もご自分の民に呼びかけられましたが、彼らは耳を傾けませんでした(エレ35:14~17、詩編81:12~15〔口語訳81:11~14〕参照)。

木曜日:聖書によれば、裁きを下す権利は神にあり、神がそうされるときは、常に完全な正義をもってなされます。旧新約聖書は、明確に復讐を神にゆだねています。パウロがローマ12:19で書いているように、「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」(申32:35の引用)からです。
神は最終的に不正と悪に対して裁きを下されますが、キリストはご自分を信じるすべての人のために道を開いてくださいました。実にそれは、「来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」(Ⅰテサ1:10、ロマ5:8、9と比較)。そして、それは神の計画によります。「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです」(Ⅰテサ5:9)。神の怒りが無効になることはありませんが、イエスを信じる者は、キリストのゆえに、そのような怒りから救い出されます。

聖書は神さまを信じたら、安楽な生活を送れるとは約束していません。信仰の戦いは生涯続くでしょう。また時には成長のために、厳しい試練が与えられるかもしれません。それらすべてを含めて、神さまがわたしたちを愛してくださっていることを信じて信頼して行くのです。
今週は神さまの怒りについて学びます。神さまの怒りは人間のような感情に流されてなさることではないこと、神さまの怒りは義憤であることが書かれています。神さまは人々が悔い改めるのを忍耐強く待たれます。わたしたちがすることは、神さまの赦しに甘えるのではなく、今すぐ罪を離れて神さまに立ち返ることなのです。けれども聖書は最期の裁きがあることも預言しています。これらの時をお決めになるのは神さまなのです。これは人間の都合で決まるわけではありません。神さまが最善と思われる時をお決めになるのです。わたしたちができることは、その神さまの決定を信じること、そして神さまとつながり続けることなのです。
再臨の後に千年期があると預言されています。そこで神さまは、なぜあの時にこんな苦しみがあったかを教えてくださいます。わたしたちはその時に、神さまの裁きや怒りの真意を知ることができるのです。