安息日学校部

20250103安河内アキラ解説

2025年第1期「神の愛と正義」

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第3課  神に喜ばれるために  1月18日

暗唱聖句:お前の主なる神はお前のただ中におられ/勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ/愛によってお前を新たにし/お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。
ゼファニヤ3:17

今週の聖句:ルカ15:11~32、ゼファニヤ3:17、エフェソ5:25~28、イザヤ43:4、ローマ8:1、ローマ5:8、マルコ9:17~29

今週の研究:私たちは神に喜んでいただいているのでしょうか。想像しがたいことですが、罪によって堕落し、悪に染まりやすい私たちであっても、確かに私たちは神に喜んでいただけるのです。私たちは神を喜ばれせることができます。しかし、それはキリストを通してのみです。

月曜日:ゼファニヤ3:17は、あがなわれたご自分の民に対する神の喜びを力強く示しています。この1節には、喜びをあらわすヘブライ語のほぼすべての言葉が詰め込まれており、あがなわれた民に対する神の喜びが表現されています。まるで、その日の神の喜びの大きさを表現するには、どの言葉もそれだけでは十分でないかのようです。
この聖句によれば、神のおられる場所が、ご自分の民の「ただ中」であるということにも注目してください。愛の関係から生じる和解は、神の間近なご臨在によってもたらされるのです。あの父親が遠く離れた息子を見つけて走り寄ったように、ここで神はご自分の民のただ中におられます。

火曜日:詩篇146:8(口語訳)によれば、「主は正しい者を愛される」のであり、Ⅱコリント9:7によれば、「喜んで与える人を神は愛してくださる」のです。まず、これらの聖句に書かれていないことに注目してください。神は正しい人だけを愛しておられるのでもなければ、喜んで与える人だけを愛しておられるのでもありません。神はすべての人を愛しておられるのです。しかし、これらの聖句が何か大切なことを伝えるためには、神が「正しい人」と「喜んで与える人」を特別な意味で愛しておられるという意味でなければなりません。箴言15:8、9で触れたことにヒントがあります。神がこういった人々を愛されるのは、彼らに満足しておられるという意味においてなのです。

木曜日:信仰がなければ、神に喜ばれることはできませんが(ヘブ11:6)、イエスはどんなに小さな信仰でも受け入れてくださいますし、信仰(つまり、キリストの執り成し)によって、私たちは神に喜んでいただくことができます。信仰によって、また私たちのためのキリストの働きのゆえに、私たちは、神が喜ばれるような形で応答することができるのです。それは、価値のない贈り物を子どもが持って来たときに、人間の父親が喜ぶのと同じです。
したがって、私たちはパウロの助言に従って、神に「喜ばれる」ことを目標とすべきです(Ⅱコリ5:9、10、コロ1:10、Ⅰテサ4:1、ヘブ11:5と比較)。また、私たちの利益が愛する人々の最善の利益を含むように変えられ、私たちの愛が他者にも届くほど広げられるよう、神に願い求めるべきです。「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい」(ロマ12:10~13)

今週の学びは神さまを喜ばせることについて学びます。わたしは神さまを喜ばせるために何をしたら良いと考えるべきではないと思っています。神さまが喜んでくださるのは、わたしたちが歩んだ結果なのです。ではそうなるために何が大切なのでしょうか。それは互いの関係性ではないかと思います。わたしは今から20年くらい前に、牧師をしながら幼稚園のお手伝いをしていました。幼稚園児は先生のことが大好きです。子どもたちに「先生は、みんなが悪いことをすると悲しくなるよね!」と話すと、「先生を悲しませないようにします」と答えてくれます。それは子どもたちは先生のことが好きで、信頼しているからなのです。
同じように、わたしたちも心から神さまを愛して信頼していれば、当然神さまの言葉に従っていきます。神さまの言葉に従うこと、それは神さまの愛のうちに留まることでもあるのです。(ヨハネ15:10)何かをすれば喜ばれるのではなく、神さまを心から愛して信頼していれば、結果として神さまの言葉に従って生きることになり、それが神さまの喜ばれる生き方となるのです。それによってわたしたちは唯一の道であるキリストに従っていくのです。それが神さまの望まれる道でもあるのです。