第2課 契約上の愛 1月11日
暗唱聖句:イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」ヨハネ14:23
今週の聖句:Ⅱペトロ3:9、申命記7:6~9、ローマ11:22、Ⅰヨハネ4:7~20、ヨハネ15:12、Ⅰヨハネ3:16
今週の研究:ヨハネ3:16のあとには、次の聖句が続いています。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハ3:17)。もしそれが神のご一存で決まることなら、すべての人が神の愛を受け入れて救われるでしょう。しかし、主はご自分の愛を誰にも強要なさいません。受け入れるか拒絶するかは、人の自由なのです。
月曜日:神の「ヘセッド」は、神の慈愛が極めて信頼でき、揺るぎなく、永続的であることを示しています。しかし同時に、「ヘセッド」の恩恵を受けるには条件があり、神の民が従順であり、その関係を維持しようとする意志が必要です(サム下22:26、王上8:23、詩編25:10、詩編32:10、代下6:14参照)。
神の揺るぎない愛は、あらゆる愛の関係の基礎であり、私たちはその愛に匹敵することができません。神は私たちを喜んで造られただけでなく、キリストによって私たちのためにご自身を喜んで与えてくださいました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハ15:13)。疑いもなく、神の愛は、主が「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順で」(フィリ2:8)あられたときに最大限にあらわされました。
火曜日:これらやそのほかの聖句において、神との愛の関係の恩恵を享受することは、神の愛に対する人間の応答が条件であると、繰り返し表現されています。しかし私たちは、神が誰かを愛することを実際におやめになるなどと誤って考えるべきではありません。これまで見てきたように、神の愛は永遠です。そして、ホセア9:15には、神がご自分の民について、「わたしは、もはや彼らを愛さない」と言っている箇所がありますが、同書の後半で、「わたしは……喜んで彼らを愛する」(ホセ14:5〔口語訳14:4〕)と宣言しておられるのを覚えておくことは重要です。ホセア9:15は、神がご自分の民を完全に愛されなくなるという意味ではありえません。そうではなく、神との愛の関係における特定の側面や恩恵の条件つきについて言及しているに違いないのです。そして、この関係を継続するためには、神の愛にどのように応答するかが重要です。
木曜日:ヨハネ15:12のすぐあとで、イエスは弟子たちに、「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(ヨハ15:14)と言われました。イエスは彼らに、どんなことをお命じになったでしょうか。何よりも、イエスは弟子たち(や私たち)に、ご自分が彼らを愛されたように他者を愛しなさいと命じられたのです。ここでもほかの箇所でも、主は私たちに、神を愛し、互いに愛し合いなさないと命じておられます。
要するに、私たちは限りない負債を赦されたのであり、それは決して返済できない負債、十字架でのみ支払われた負債であることを認識しなければなりません。それゆえ、私たちは神を愛し、賛美し、他者に対して愛と恵みをもって生きるべきです。ルカ7:47が教えているように、多く赦された者は多く愛するが、「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」のです。私たちの中で、自分がどれほど赦されてきたかを自覚していない人がいるでしょうか。
神を愛することが、他者を愛することを伴うのであれば、私たちは言葉と行為の両方で神の愛のメッセージを緊急に伝えるべきです。私たちはこの世の日常生活において人々を手助けするとともに、神の愛の管となり、新しい天と地における永遠の命を約束してくださるお方を彼らに示さねばなりません。
神さまの愛を「条件付きの愛」と表現する場合があります。神さまはすべての人を愛して救おうとされています。けれども条件が付きます。それはあなたがそれを受け入れるかなのです。親は、子どもにとって最善と思われることを経験から知ることができます。けれども子どもはそれを選ばないかもしれません。神さまも同じです。神さまを信じることによって永遠のいのちを得ることができます。神さまは、すべての人に与えたいのです。けれども、神さまはその決断をわたしたちに任せてくださいました。
そしてもう一つ、今週の暗唱聖句にもありますが「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る」とあります。これは救われるための条件ではありません。もしあなたがほんとうに神さまを信じて信頼していたら、神さまの命令を守りませんか。救われるためではなく、愛する方から言われたことを、愛の応答として喜んで実施するのです。この順番をまちがえると信仰が苦行になってしまうのです。
いつも書いていますが、神さまがなさることと、わたしのすることは異なります。今週の学びは、わたしたちがすることについて教えています。これが神さまとわたしとの関係が始まります。神さまの受け入れた人を、神さまはますます愛してくださり導かれるのです。