第13課 結び――イエスとその言葉を信じる 12月28日
暗唱聖句:あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。 ヨハネ5:39
今週の聖句:ヨハネ21章、ヨハネ11:9、10、ヨハネ8:42~44、ヨハネ4:46~54、Ⅱテモテ3:16、ヨハネ15:1~11
今週の研究:イエスと3年以上一緒にいて、これから起こることを何度もイエスが告げられていたにもかかわらず、弟子たちは、十字架刑と復活に対する準備ができていませんでした。
残念なことに、彼らはイエスの言葉をそのまま信じていなかったのです。今日、私たちも同じことをする危険性があります。神の御言葉を聞いたり、読んだりしても、それに耳を傾けず、それにとどまらず、それに従わないことがありうるのです。つまり、御言葉を私たちの思考と行動を導くべき光として受け入れないのです。残念なことに、知らず知らずのうちに、あまりにも多くのクリスチャンがこのような状態に陥っています。
ヨハネによる福音書の最後の研究となる今週、私たちはこの福音書の重要なポイントをいくつか見ていきます。それらのポイントは、私たちがイエスを単に頭で知るのではなく、彼をよりよく知り、彼とその言葉により親しくなるのに役立ちます。
日曜日:実際、ペトロの返事は、謙虚さに焦点を合わせています。これまで何度も失敗を経験しているので、彼は、「より低い次元の言葉」を謙虚に用い、あえて自分を主張しすぎないようにしたのでしょう。そして、この謙虚さこそがイエスのお認めになったものであり、ペトロを宣教活動に復帰させるうえで極めて重要なものでした。疑いもなく、謙虚さは宣教にとって最も重要な資質の一つです。なぜならその焦点は、自分でなく、イエス・キリストだからです。
ペトロの復帰と初代教会の指導者としての役割は、イエスが復活されたことを示す最も強力な証拠の一つです。イエスがペトロを宣教活動に復帰させられなかったなら、彼の目覚ましい働きを説明することは難しいでしょう。
月曜日:ほかの人に焦点を合わせるのではなく、イエスに焦点を当てるという考えは、今週の残りの研究にも強くつながっています。イエス、そしてイエスだけが私たちの救い主です。人々は必ずあなたを失望させ、もしかしたら傷つけることさえあるかもしれません。
火曜日から木曜日にかけて扱う真理は、イエスを知り、イエスに従うことを目的として、神の言葉を理解するという主題を取り上げます。イエスは、ほかの人が私たちに与えてくれる助け、助言、導きとは関係なく、私たちの主であり、導き手です。
水曜日:もし私たちがイエスの言葉を信じたいのであれば、聖書の言葉を信じなければなりません(ヨハ5:46、47)。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」(ヨハ8:31)。もし私たちが神の言葉を疑うなら、それは私たちの内にとどまることができません(同5:38)。「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである」(同12:48、49)。
神の言葉を聞くというのは、情報を受動的に受け取る以上のことです。神の御心を行うことでもあるのです。そして、これが御言葉を聞くことへの能動的な反応です。「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」(ヨハ7:17)。
そして、このように神の言葉を聞いて行うことが、神に対する愛の表現なのです。「イエスはこう答えて言われた。『わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む』」(ヨハ14:23)。
木曜日:その秘訣は、イエスとのつながりを保つことです。イエスは、「神の言」「命のパン」「世の光」「羊の門」「良い羊飼い」「復活と命」「道」「真理と命」「まことのぶどうの木」です。
三位一体の神とその言葉である聖書は、磁石のようなものです。抵抗しなければ、私たちはそれらに引き寄せられていきます。「神の声は御言葉を通して私たちに語りかけているが、私たちが聞くことになる声はたくさんある。しかしキリストは、『ここにキリストがいる』、また『あそこにいる』と言う人たちに気をつけるべきだとおっしゃった。そうであれば、すべてを聖書に照らすことなく、彼らが真理を持っていないといかに知ることができるだろうか」(『アドベント・レビュー・アンド・サバス・ヘラルド』1888年4月3日号、英文)。私たちは自分自身の見解を、神の言葉の中に示されている見解に従わせなければなりません。
今年の後半はマルコによる福音書、そしてヨハネによる福音書を通してキリストの生涯を学びました。あなたはこの半年間で、キリストが語られた言葉からどんな声を聴きましたか?
さて、今週の暗唱聖句ヨハネ5:39ですが、わたしは聖書研究を始める人の最初に教えるみことばの一つです。聖書は何のために書かれたのでしょう。何回も書いていますが、神さまの役割とわたしたちがすることが別です。聖書の中に永遠をいのちに至る道を探そうとするのは、ひとつまちがうと自分の力で天国に入ろうとするまちがいを犯します。天国に入るためにはキリストの十字架を信じねばなりません。聖書はわたしたちが愛の神さまを知って信じることができるようになるために書かれたものなのです。この目的と順番をまちがえると大変なことになります。
そして聖書は繰り返して「謙虚であれ」と教えています。天国に入るためには幼子のようにならねばならない、謙虚でないと、と考えると苦しいですね。これは順番や目的をまちがえてしまう典型的な例なのです。なぜ謙虚でなければいけないのか、その目的は神さまとつながり続けるためなのです。傲慢になれば神さまが見えなくなり人間は失敗をするのです。キリストとつながり続ける、キリストを信じることを選ぶように聖霊もわたしに働き続けるのです。
わたしたちがすることは、この世に降ってくださったキリストを、わたしの救い主として信じることです。そのためにヨハネは福音書を残したのです。