第12課 栄光の時 12月21日
暗唱聖句:そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」 ヨハネ18:37
今週の聖句:ヨハネ18:33~19:5、ヨハネ19:17~22、ヨハネ19:25~27、ルカ2:34、35、ヨハネ20:1~18、Ⅰコリント15:12~20
今週の研究:ヨハネによる福音書の山場は、イエスの十字架刑と復活です。最初の10章は、およそ3年半を扱っていますが、それとは対照的に11章から20章までは、およそ1、2週間を扱っています。
しかしヨハネは、十字架をイエスの即位として、特にこの福音書全体を通して何度も言及されている「時」に結びつけながら描いています(ヨハ7:30、8:20、12:27)。十字架刑は、ローマ人が用いた最も不名誉で恥ずべき処刑方法だったので、即位というのは皮肉な見方です。この対比が、ヨハネの伝える深い皮肉を指し示しています。つまり、イエスは恥辱の中で死なれましたが、それは同時に、救い主としての輝かしい即位でもあったのです。
火曜日:ヨハネ19:17~22が示すように、ピラトは、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語で「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」(ヨハ19:19)という罪状書きを書きました。宗教指導者たちはそれを書き換えることを求めましたが、ピラトは認めませんでした。その罪状書きは、イエスに関する真実の無言の証人であり、イエスが王として十字架上で即位されることを示すしるしの一つでした。そこには、まさに彼らの王、ユダヤ人の王であられるイエスが、普通の犯罪人のように十字架にかけられていたのです。
「ピラトよりも、あるいはユダヤ人よりも高い権力が、その罪状書きをイエスの頭上にかけるように命じたのだった。神の摂理によって、それは思いを目覚めさせ、聖書を調べさせるのであった」(『希望への光』1071ページ『各時代の希望』 第78章)
水曜日:ペトロが墓に入ったあと、ヨハネも中に入りました。ヨハネ20:8によると、彼も「入って来て、見て、信じた」と書かれています。なぜヨハネは、埋葬用の布がそこにあり、頭を包んでいた布が折り畳まれて離れた所にあるのを見て、イエスが死者の中から復活されたと信じたのでしょうか。この疑問に答えるには、そもそもなぜ墓が空だったのかを考える必要があります。最も典型的な答えは、墓荒らしでしょう。しかし、この説明は三つの理由から受け入れられません。第一に、マタイは、墓が見張られていたと述べています(マタ27:62~66)。第二に、墓荒らしは通常、貴重品を盗むのであって、腐った死体は盗みません。第三に、墓荒らしは急ぐため、埋葬用の布を畳むことはありません。ですから、頭を包んでいた布が折り畳まれているのを見たヨハネが、イエスは死者の中から復活されたと信じたのも当然でしょう。
木曜日:天使たちと同じような言葉で、見知らぬ人はこう尋ねます。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」(ヨハ20:15)。彼女は庭師と話しているのだと思い、イエスの遺体を見つける手助けを求めました。
その見知らぬ人は、一言、「マリア」と言います。それは世界を変えた一言の啓示でした。突然、驚いたマリアは、復活されたイエスが自分に話しかけておられることに気づき、その人がイエスであることを認めます。イエスは、御父のもとに上らなければならないので、ご自分を引き留めてはならないと、彼女にお求めになりました。しかしマリアには、イエスが「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへ……上る」(ヨハ20:17)ことを弟子たちのところへ行って告げるという任務があります。マリアはその使命を果たしました。彼女は弟子たちに、自分が主を見たことを告げ、また、主が彼女にお伝えになったことを残らず話したのです(同20:18)。
今週の研究に書かれていますが、ヨハネによる福音書の後半は受難週の前後の数週間を扱っています。これは他の福音書も同様ですが、ヨハネによる福音書が受難週に関する割合が多いのではと思います。それは旧約聖書は救い主が与えらえれるという約束が書かれており、この約束が成就するのはキリストの十字架によるものだからです。
水曜日の学びの引用文に、ヨハネがキリストの墓に入って来て信じた理由が書かれています。これはヨハネにとって、とても衝撃的なことだったのでしょう。小さな描写ですが、大切なことを教えていますね。たしかに墓泥棒はきれいに布はたたんでいかないでしょう。
木曜日のマリアとキリストとの会話ですが、わたしはいつも不思議に思っていました。マリアはキリストの顔を忘れるわけはありません。涙に曇って見えなかったのでしょうか。話しかけてられ始めてキリストと気づきます。園丁とまちがえるくらいですから、栄光の姿ではなかったのではとも思います。復活してキリストに最初に出会ったのは、弟子たちではなくこのマリアでした。キリストは弱い女性、そして罪をゆるされた女性にまっさきにあわれたのです。
キリストの復活は、罪に勝利された栄光の姿でした。このことがほんとうにあった! ヨハネは実際にあったことと伝えるために、そして読者が信じることができるように、受難週のできごとを細かく記録して、神さまの愛を伝えようとしたのでした。