安息日学校部

20240410安河内アキラ解説

2024年第4期「ヨハネによる福音書の主題」

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第10課   道、真理、命  12月7日

暗唱聖句:いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。 ヨハネ1:18

                                           

今週の聖句:ヨハネ13:1~20、ヨハネ14:1~3、ダニエル7:27、ヨハネ14:5~11、ヨハネ1:14、コロサイ1:16、17、ヨハネ5:38~40

                                           

今週の研究:ヨハネによる福音書は、四つの主要な部分に分かれています。それは、「序言」(ヨハ1:1~18)、「しるしの書」(同1:19~12:50)、「栄光の書」(同13:1~ 20:31)、「結び」(同21:1~25)です。これまでの学びでは、おもに「序言」と「しるしの書」に焦点を合わせ、イエスの奇跡(しるし)、対話、教えを通して、彼が何者であるかを明らかにしてきました。ここからの研究は、特にヨハネによる福音書の第三の部分である「栄光の書」に移っていきます。

今週の研究は、まず別れの説教の目的と、イエスが弟子たちの足を洗われたという重要なエピソードを取り上げます。次に、ヨハネ14章の「わたしは道であり、真理であり、命である」という発言に目を向けます。

                                           

日曜日:イエスの行動の意義は、彼が何者であるかということに関係しています。ヨハネ13:13で、イエスはご自分が教師であり、主であると述べておられます。弟子たちはイエスをそう呼び、イエスもそのとおりであることを示しておられます。これらの称号は、権威と力をあらわしています。

しかしイエスは、権威と力が自己権力の拡大のためではなく、奉仕のために用いられるべきだと教えられます。アドベンチスト教会は、正式には「謙遜の儀式」と呼ばれるものを「主の晩餐」の準備の儀式と見なし、イエスの模範のこの意義を受け入れてきました。

                                           

月曜日:イエスはこう言われました。「行って……用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハ14:3)。これは明らかに主の再臨の約束です。

その約束を信じる根拠は何でしょうか。多くの人は、聖書の預言の成就だと言うでしょう。確かに、それは事実です。しかし、ヨハネ14:3では、その根拠が異なっています。この節の「戻って来(る)」は、ギリシア語の現在形動詞で、これは「現在形の未来的用法」と呼ばれる使い方です。この用法は、未来に起こる出来事を確かなものとして語り、あたかもそれがすでに起こっているかのように表現します。したがって、この箇所は、「わたしは必ず再び来る」と訳すのが正しいのです。

主の再臨に対する私たちの希望の根拠は、単に聖書の預言の成就だけではありません。それはまた、より確かなこととして、この約束をされたお方に対する私たちの確信に基づいています。主はご自分の民のために必ず戻って来ると言われました。私たちは、誰が約束をしたのかということのゆえに、その約束に信頼を置くことができるのです。

                                           

水曜日:イエスが真理であるとはどういうことか、考えてみてください。イエスは 「ロゴス」、つまり初めから神と共にあり、万物を創造されたお方です(ヨハ1:1~4)。永遠から永遠に至るまで父なる神と一体であるイエスは、父なる神の特徴を備えられており、それゆえ、「わたしはある」でもあるのです。イエスの存在は、誰にも、何物にも左右されません。知識を含め、存在するものは何一つ、イエスから離れては存在しません。存在するもの、創造されたものはすべて、イエスによってのみ創造され、イエスの中にのみ存在するのです。「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」(コロ1:16、17)。

イエスは単に真理の体現者ではありません。彼こそが真理そのものなのです。真理は観念や概念ではありません。真理はひとりのお方なのです! 真理であるイエスを、この世界を照らす太陽にたとえることができます(ヨハ8:12)。C・S・ルイスはこう述べています。「私は、太陽が昇ったことを信じるように、キリスト教を信じる。なぜなら、私は太陽が見えるだけでなく、太陽によってほかのすべてが見えるからだ」(『神学は詩なのか』15ページ、英文)。

私たちがこの世界を正しく解釈できるのは、真理であるイエスのおかげです。

                                           

木曜日:聖書は科学の教科書ではありません。原子分裂の方法や脳手術の方法を説明しているわけでもありません。しかし、聖書はもっと重要なことを説明しています。聖書は、私たちの宇宙が意味を持っていることの背景を教えています。聖書は扉を開く鍵であり、見ることを可能にする光です。それがなければ、神の存在、宇宙における神の役割、私たち自身の起源、人生の意味、そして未来について、私たちは闇の中にいることになるでしょう。

                                           

キリストの説教や聖書の預言は、まだ預言が成就していないのに完了形で書かれていることがあります。キリストの二階座敷での説教の結びの言葉「わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33参照)これなどは典型的な例です。まだキリストは十字架におかかりになっていません。けれどもキリストはすでに勝利されたと宣言されています。これはなぜでしょうか。それは神さまのことばは、必ずそのとおりになるからです。神さまが語られた約束は確実なのです。だからこそ、再臨や天国の約束も確かなのです。そして神さまは、今日でも生きて働いてくださっているのは、わたしたちが守られていることを通してあかしできます。神さまは生きていてくださっているとしたら、聖書の約束は今も確かなものなのです。

木曜日の引用文で、聖書は科学の本ではありませんと説明されています。けれどもこの世界のすべてのものの根源を教えています。いのちは偶然を繰り返したものではなく、神さまによって与えられたものなのです。そしていのちの意味について教えているのです。神さまがいらっしゃると信じて科学を学ぶのと、そうでないのはまったくちがいます。いのちが与えられたものと信じて謙虚に生きること、これは神さまのみこころなのです。