安息日学校部

20240409安河内アキラ解説

2024年第4期「ヨハネによる福音書の主題」

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第9課   命の源   11月30日

暗唱聖句:わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 ヨハネ14:6

                                           

今週の聖句:ヨハネ1:4、ヨハネ10:10、ヨハネ1:12、13、ヨハネ6:61~68、

民数記13:23~33、マタイ4:1~4

                                           

今週の研究:「わたしはある」という主題がヨハネによる福音書全体を貫いており、今週の暗唱聖句は、その主題を反映しています。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハ14:6)。「わたしはある」というお方は、世の光であり、命のパンであり、羊の門であり、良い羊飼いであり、まことのぶどうの木です。

今週も引き続き、ヨハネによる福音書の中に示された神の啓示について学び ます。また、イエスがメシアであるという強力な証拠にもかかわらず、イエスを拒絶する人たちがいたという、物事の裏側についてもさらに詳しく探ります。このことを研究する理由は、二つあります。一つは、同じ過ちを犯さないためであり、もう一つは、同じ過ちを犯す恐れのある人々に、私たちがどのように手を差し伸べられるかを知るためです。

                                           

日曜日:この命という言葉(ギリシア語で「ゾーエー」)は、ヨハネによる福音書に36回出てきますが、それは新約聖書における用例の約25パーセントに相当します。ヨハネ1:4、5において、この言葉は地球上の命の源を指すだけでなく、救いとも結びついています。ヨハネによる福音書の残りの部分の至るところで、この命(「ゾーエー」)という概念は、ほとんどの場合、永遠の命、救済の約束として表現されています(ヨハ3:15、16、36、4:14、36、6:27、40、47、54、68、10:27、28参照)。天地創造の際に命をお与えになったお方は、失われた世界に救いと永遠の命をもたらすお方でもあるのです。

キリストは、父なる神を明らかにするために来られました。なぜなら、「いまだかつて、神を見た者はいない」からです。「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハ1:18)。イエスのご品性を見ることによって、私たちは父なる神のご品性を知ることができます。

                                           

火曜日:ヨハネが福音書を書いたのは、私たちがイエスを信じるためであり、また、信じてイエスの御名により永遠の命を受けるためでした(ヨハ20:31)。ヨハネ1:12、13では、この過程が二つの段階で説明されています。第一に、私たちはイエスを受け入れる、つまりイエスを信じます。第二に、イエスは私たちに神の子となる権威、または力を与えてくださいます。それを13節は、神によって生まれると説明しています。このように、クリスチャンになるには、人間的な側面と神的な側面があります。私たちは信仰によって行動し、主を受け入れ、光に心を開かねばなりませんが、神が心を再生してくださるのです。

実際、信仰自体は、神の言葉を聞くことによってもたらされる神の賜物です(ロマ10:17)。「キリストに対する真の永続的な信仰を持つためには、御言葉の中にあらわされているキリストを知らなければならない」(『キリスト教教育の基礎』433ページ、英文)。「人間の心に働きかけ、教え導く聖霊が、神に対する信仰を生み出してくださる」(『SDA聖書注解』第7巻940ページ、英文)。

御子をメシアとして信じる者、受け入れる者は、永遠の命を得ます。ヨハネはまた、イエスが語られた言葉を受け入れること、信じることを強調しています(ヨハ5:24、38、47)。確信をもたらすのは、聖霊の役割です(同16:7、8、ロマ8:16と比較)。

                                           

水曜日:ヨハネによる福音書には、聖書全体の中で最も悲しい記述が含まれています。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。……言ことばは世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハ1:5、10、11)。「わたしはある」というお方は、ご自分の多くの民に拒絶されたのです。パウロがのちに、「自分の確信を捨ててはいけません」(ヘブ10:35)と警告しているのも不思議ではありません。これまでに何度も見てきたように、キリストが拒絶されたのは、人々が彼の言葉を受け入れなかったからでした。

                                           

宗教に問われることは「わたしがどこから来て、どこへ行くのでしょう」という問いかけです。わたしのいのちはどこから、どのようにして、今ここにいるのでしょうか。先日、親しい友人が突然人生の終わりを迎えました。それまで病に伏せていると聞いていなかったので突然に最期がやってきたのでしょう。わたしたちは自分のいのちについて選ぶことができませんが、死についても選ぶことができません。

それぞれの宗教は、どこへについては極楽浄土のような未来を示していますが、どこからについては答えがありません。聖書ははっきりと神さまが創造されて、日々いのちを与えてくださっていると教えています。先日の友人の死などを見ると、神さまが与えて取られるというみことばに納得します。たまたまた偶然、今日を生きているのではないのです。

毎回、同じようなことを書いていますが、キリスト教のいろいろな書き方をしていますが、わたしたちがやらねばならないことは一つしかありません。火曜日の引用文に、そこがとてもわかりやすく書いてあります。クリスチャンになるためには人間的な側面と神的な側面があります。神さまは、イエスさまによる罪のあがないをしてくださいました。そしてわたしたちは、それを信じることです。心から信じれば、行いが伴ってくるのです。この順番をまちがえるから、互いにさばきあってしまうのです。

けれども、キリストが地上に来てくださったのに拒絶した人たちも多くいました。残念ですが、これは彼らの選びなのです。今日、神さまがいらっしゃることのしるしは、わたしたちのまわりにたくさん与えられています。またわたしたちの教会には預言者を通して光も与えられているのです。多くの人は拒絶しないにしても見ようとしていないのです。わたしたちが、与えられている光をまわりの方々にわかりやすく示す役割が与えられています。わたしたちは救いを信じるだけでは神さまのみこころにかなっていません。与えられたすばらしい宝を自分の手の中で持っているままでよいのでしょうか。わたしが行きます!と神さまの招きに応えて伝えに行きましょう。