第8課 旧約聖書の預言の成就 11月23日
暗唱聖句:しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。 ヨハネ5:36
今週の聖句:ヨハネ5:17、20、36~40、46、47、ヨハネ13:18、ヨハネ17:12、
エレミヤ2:13、ゼカリヤ9:9、ヨハネ8:12~30
今週の研究:今週私たちは、ヨハネがイエスをメシアとして明らかにした方法をさらに見るとともに、イエスをキリストとして認める有力な理由があったにもかかわらず、一部の人が彼を拒絶し続けた理由を考えます。彼らの過ちから何を学べるでしょうか。
日曜日:イエスは、父なる神との密接な共労関係を示すためにしるしを用いられました。2人は一体でした。御業は、「父がわたし(イエス)の内におられ、わたしが父の内にいること」(ヨハ10:38、同14:10、11も参照)を示していたのです。
イエスが来られた目的は、彼を遣わされたお方の業を行い、その業が世に明らかにされるためでした。つまり、イエスが来られたのは、御父が望まれる業を行うためであり、イエスが行われた御業は、イエスが父なる神のもとから来られたことをはっきりと証明するものであったのです。
しかし、すでに見たように、説得力のあるしるしや多くの人の証しにもかかわらず、人々は依然として信じようとしませんでした。
もしイエスが単刀直入に、自分はメシアであると言っておられたら、宗教指導者たちはイエスに不利なことを探し出し、彼を責め立てたことでしょう。それを知っておられたからこそ、イエスは代わりに、ご自分がなさった業を指し示されたのです。もしイエスが、自分はキリストであると言われたら、彼らはそれを簡単に否定しようとするでしょう。しかし、そのしるし、行い、不思議な業を否定することができたのでしょうか。それらは、イエスが何者であり、どこから来られたのかを示す強力な証拠でした。
火曜日:ヨハネだけでなく、ペトロ、パウロ、マタイ、マルコ、ルカ、そのほか新約聖書のあらゆる記者は、聖霊の霊感を受けて、ナザレのイエスの生涯、死、復活、神の御座への昇天などが、いかに旧約聖書の預言の成就であったかを何度も強調しています。
そしてイエスは絶えず弟子たちに、ご自分の働きを予告していた聖書を指し示しておられましたが、弟子たちは、聖書がイエスの死と復活を指し示していることを、いつ理解したのでしょうか。弟子たちがそのことを最終的に理解したのは、イエスが死んで復活し、彼らの前に姿をあらわされてからのことでした。「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」(ヨハ2:22、同20:9も参照)。
木曜日:イエスは、宗教指導者たちが「わたし(イエス)もわたしの父も知らない」(ヨハ8:19)と言われました。彼らは両者を知っているべきでしたが、自己欺瞞に陥っていたのです。彼らは、自分たちの言い伝えや哲学にあまりにもとらわれていたため、イエスが目の前におられ、あらゆることを行い、あらゆることを言った(つまり、父なる神を力強く啓示した)にもかかわらず、依然として彼を拒絶しました。
次にイエスは、「あなたたちは下のものに属している」(ヨハ8:23)と彼らに言われました。言い換えれば、どんなに宗教的であったとしても、彼らは霊的で敬虔な人間ではなかったということです。彼らは「信心を装(って)」(Ⅱテモ3:5)いましたが、それだけでした。彼らは外面的には敬虔でしたが、内面的には不信仰だったのです。
イエスさまの時代の聖書は旧約聖書しかありませんでした。旧約、古い約束ですが、それはアダムとエバが罪を犯した直後に、救い主が与えられるという約束が与えられました。それから神さまは、預言者を通して、救い主が与えられるという約束を何回も与えられたのでした。
むかしも今も、神さまはことばを通してわたしたちに語りかけられています。救い主が与えられるという約束を信じる者には希望となって力を与えたのです。ルカ24章に記録されているエマオへの途上で、キリストが弟子たちに預言を解き明かして語られました。彼らは復活したキリストとは気づかずに、ただみことばで励まされたのです。そのみことばの力は、今日も同様です。みことばの約束は、わたしたちを神さまへ結びつけるのです。
神さまは、みことばを通して語りかけられます。けれども弟子たちでさえ、旧約聖書の預言の意味をほんとうに理解したのは復活後と火曜日の学びに書かれています。祭司や律法学者など、キリストが神の子であるというしるしを通して語られても彼らは信じませんでした。
それは今日でも同様です。聖書には安息日が日曜日に変更されたとは一言も書かれていません。また死んだらすぐに昇天するとも書かれていないのです。けれども多くの教会はそれを信じています。彼らは教会の伝承を根拠としているのです。その伝承は、人間の思いを悪魔が巧みに用いてできあがったものです。そのおかげで、みことばの光を正しく理解できなくなっています。わたしたちもみことばが語ろうとしていることから聴いているでしょうか。謙虚にみことばと向きあって行くことは、すべての人にとって大切なことなのです。