第7課 信じる人は幸いである 11月16日
暗唱聖句:イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。 ヨハネ20:29
今週の聖句:ヨハネ8:54~58、創世記12:3、ローマ4:1~5、ヨハネ12:1~8、 ヨハネ19:4~22、
ヨハネ20:19~31、ダニエル2章、ダニエル7章
今週の研究:ヨハネは彼が書いた福音週の研究:ヨハネは彼が書いた福音書全体を通して、異なる背景、信条、経験を持つ さまざまな人々を登場させ、イエスが何者であったかを証言しています。
この中にはどのような人々がいましたか。なぜ彼らはイエスの正体を証ししたのでしょうか。
月曜日:この福音書には、繰り返し登場する一つの主題があります。イエスは人の心の内をご存じだという主題です(ヨハ2:24、25、6:70、71、13:11、16:19)。今回のシモンの宴会でも、イエスはユダの心の内を知っておられます。ヨハネは、ユダが何者であったかを注意深く指摘しています。ユダは、私腹を肥やす「盗人」(同12:6)でした。
火曜日:ヨハネは、イエスがキリストであられることを証しするために、さまざまな立場の多くの証人を招いてきました。そして今、ヨハネは、イエスを裁いた総督ピラトを招きます。ピラトはローマ人であり、総督であり、裁判官であるため、イエスについてのピラトの声明は重要です。イエスが何者であるかを告げる人のほとんどは、ユダヤ人か、裕福でも権力者でもない人たちでした。
総督は、最終的にイエスに死刑を宣告しましたが、それでもなお、イエスの無罪を三度宣言しています(ヨハ18:38、19:4、6)。また、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」(同19:19)という罪状書きを十字架の上に掛け、イエスが何者であるかという証しをしました。しかしピラトは、キリストが無実であることを証言したにもかかわらず、イエスを死刑に処しました。
ピラトは、真理そのものであるイエスが目の前に立っているにもかかわらず、暴徒が彼を痛めつけるままにし、イエスに死刑を宣告したのです! 自分の良心と心が正しいと告げることに従わないことの、なんと悲劇的な実例でしょう。
水曜日:トマスは自分の信仰の条件を規定しています。イエスを信じることに対するこのような態度は、ヨハネによる福音書の中に何度も登場してきました。ニコデモはイエスに、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう」(ヨハ3:4)と答えました。井戸の女は、「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか」(同 4:11)と尋ねました。パンと魚で養われた群衆も、「どんなしるしを行ってくださいますか」(同6:30)と求めています。
ヨハネによる福音書が反論するのは、「見てから信じる」というこの態度です。イエスは、復活後にトマスに会われたとき、来て、見て、(復活したご自分の体に)触れなさい、と招かれました。が、そのあとに、「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハ20:29)と言っておられます。
「神は私たちに、信仰の基礎を置くのに十分な証拠を与えたうえでなければ、信じるようお求めになりません。神の存在も、品性も、み言葉の真実性もみな、私たちの理性に訴えるあかしによって立証されており、しかもそのあかしは大量にあります。けれども神は、疑う余地をまったく取り除かれたのではありません。私たちの信仰は、外見的なものの上にではなく、証拠の上に築かれねばなりません」(『キリストへの道』改訂第三版文庫版150、151ページ)。神の御言葉、天地創造、そして個人的な体験を通して、私たちはイエスを信じるための証拠を信じられないほどたくさん与えられているのです。
木曜日:なぜなら、ヨハネによる福音書の説得力ある記事だけでなく、私たちには、神殿の破壊(マタ24:2)、世界中への福音の宣布(同24:14)、大背教(Ⅱテサ2:3)、堕落した邪悪な場所であり続ける世界(マタ24:6~8)など、イエスやほかの聖書記者が預言したことの多くが実現するのを見るという大きな強みがあるからです。イエスの公生涯の間、彼の弟子たちは嫌がらせを受ける男女の小さな集団であり、人間的に考えれば、とうの昔に歴史から消え去っているはずでした。私たちと同様、こういったことがすべて実現することを、どうして彼らは知りえたでしょうか。実際、私たち自身の信仰そのものが、福音が全世界に伝わるというイエスの預言の成就として存在しています。
そして約2000年後の今日、私たちもイエスに従う者として、イエスと、彼が私たちのためにしてくださったことを証しする特権を得ています。私たちがイエスを自分のメシアとして知ることができるのは、ナタナエル、ニコデモ、サマリアの女の判断やファリサイ派の人々の教えによるのではありません。私たちがイエスを世の救い主として受け入れるのは、罪を悟らせる聖霊の力の下で聖書を読むことによってです。
そして、私たち1人ひとりが、それぞれの方法と、それぞれの神との関係によって、語るべき物語を持つことができます。私たちの物語は、劇的なものではないかもしれませんが、それは問題ではありません。重要なのは、私たち自身がイエスを知ることであり、ヨハネによる福音書に登場する人々のように、私たち自身の方法でイエスを証しすることです。
今週は、キリストに出会った人が、救い主としてあかしをする場面について学びます。このことを考える前に覚えておきたいのは、キリストの姿は聖画に描かれているような、一人白い服を着て背が高くて、見るからにすてきな人ではありませんでした、イザヤ53章に預言されているように、見るべき美しさは無かったと書かれています。そんな彼に出会い、彼の話や働きなどを見て、彼から神の子としての姿を見出して、イエスさまを救い主として信じて行くのです。
ヨハネによる福音書は、四福音書の最後に書かれました。ヨハネの晩年には、生きているイエスさまに直接会った人は少なくなりました。彼はイエスさまに会ったことがない人たちに、彼は旧約聖書に約束された救い主であることを伝えるために、この福音書を書きました。だからイエスさまに出会った人が、どのように彼のことを救い主とあかしをしているか、このことも記録しているのです。
火曜日の学びで、ローマ帝国の総督ピラトが出てきます。彼はイエスさまを死刑から解放できる立場でした。神さまは、しばしばこのように信じているならば、行いを通してあかしをするように召されることがあります。ほんとうに信じていれば、その後のことが見えなくても前進できるはずです。
水曜日にトマスの話しが出てきます。わたしたちは何かがかなえられたら信じるということをしていないでしょうか。ギデオンが天使にしるしを求めました。(士師記6章)神さまは彼の願いに二回応えられました。このような例がないわけではありません。けれども神さまがなさろうとしている時と、わたしたちの願いが異なることもしばしばあります。わたしたちは信じて前進しながら時を待つことも求められるのです。条件を付けて信じるのは、神さまをわたしたちのところへ引き下ろす行為です。わたしたちが考えているより、神さまがなさることはもっと大きいかもしれません。神さまが最善をしてくださることを信じて、今できる一歩を踏む出すこと、これが信仰生活なのではないでしょうか。