第6課 イエスについてのさらなる証し 11月2日
暗唱聖句:わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。 ヨハネ12:32
今週の聖句:ヨハネ3:25~36、ヨハネ1:32~36、ダニエル7:18、ヨハネ6:51~71、 ヨハネ5:36~38、ヨハネ7:37~53
今週の研究:今週の研究では、イエスを目撃し、彼について証言した何人かの人に目を向けます。これらの出来事の一つひとつに、イエスの真の姿の一端が明らかにされており、それらが一体となって、メシアなるイエスをより深く描き出しているのです。
月曜日:バプテスマのヨハネは、ヨハネ1:31で、「わたしはこの方を知らなかった」と述べています。それでは、彼はどのようにしてイエスをメシアとして知るようになったのでしょうか。その答えは、バプテスマのヨハネを遣わされた主が、事前に彼にこう言われたからです。「“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」(ヨハ1:33、34)。言い換えれば、神がバプテスマのヨハネに、イエスはメシアであることを明らかにされたのです。
「(キリストは)神の力、神の知恵である」(Ⅰコリ1:24)。イエスがキリストであるという知識は、御霊の確信させる力によって、神ご自身から与えられます。この主題は、ヨハネによる福音書の中で頻繁に登場します。救いは、この世の哲学、科学、高等教育からもたらされるものではありません。救いは、イエスに対する信仰と従順のうちに心をゆだねることによってのみ、神から与えられるものなのです。
火曜日:ペトロが驚くべき告白、つまりイエスが何をお持ちであり、何者であられるかについて、もう一つの証しをしたのは、この時でした。「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」(ヨハ6:68、69)。
弟子たちはすでに数年間、イエスと共に過ごし、旅をし、彼の奇跡を見たり、説教を聞いたりしてきました。彼らは経験から、イエスに匹敵する人物は誰もいないことを知っていました。どんな状況であっても、イエスが来られた目的についてまだ大きな誤解をしていても、このお方こそメシアであるという確信が彼らに芽生えたのです。イエスの死と復活のあとに初めて、彼らは、イエスがなぜ来られたのかを理解し始めました。
木曜日:逮捕に向かった下役たちでさえ、イエスとその雄弁な言葉にひるんでしまいました。ファリサイ派の人々は、別の質問で下役たちに応じます。「議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか」(ヨハ7:48)。ファリサイ派の人々のこの質問は、イエスと面会したあと、彼らの陰謀からイエスを守ろうとしていたニコデモを再び登場させる機会をヨハネに与えました。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」(同7:51)。
ニコデモはイエスをメシアとして受け入れたのでしょうか。この場面は彼が受け入れたことを証明するものではありませんが、この行為とイエスの死後に彼がしたことの間に(ヨハ19:39、40参照)、ニコデモが実際にイエスを信じるようになったという確かな証拠を、聖書は示しています。
つまり、ファリサイ派の人々の質問に対する答えは、「いる」です。実際に、ファリサイ人の1人がイエスを信じたのです。
キリストの復活の際に、生前キリストが三日後によみがえると話されていましたが、弟子たちは理解していませんでした。けれども祭司長たちは覚えていて、弟子たちがキリストの亡骸を盗んで墓が空になって復活したと言わないように、キリストが埋葬された墓の前に兵士を配置したのです(マタイ27,28章を参照)。 けれども日曜日の朝に地震が起こり、天使がやってきてキリストは復活したのでした。その時の番兵たちは「恐ろしさのあまり死人のようになった」と書かれています。この時代、天使が顕れることはほとんどありませんでした。彼らはおそらく精鋭の兵士だったことでしょう。彼らにとっては想像もできなかった恐ろしい光景だったのでしょう。
今週の話し合いの中で、キリストがメシアである証拠が与えられたのに、従う人と拒絶する人がいるのはなぜでしょうと質問がありました。どのような証しがなされても、伝えられた人がそれを信じなければ意味がありません。キリストの復活は、イエスさまが神の子である明確な証しでした。けれども祭司長たちは、頑な心のままでした。人間には感情があります。彼らはキリストに対する妬みや憎しみで固まっていました。また既得権益を守るために必死だったのかもしれません。素直に光を受けることができなかったら、そこから光を受けることができないのです。幼子のようにならないと天国には入れない(マタイ18:3参照)と教えられているのは、子どものように素直に受け入れて信じることが大切なことを教えていますね。