安息日学校部

20240403安河内アキラ解説

2024年第4期「ヨハネによる福音書の主題」

PDFダウンロード

                               

第3課   執筆の背景—-序言   10月19日

暗唱聖句:初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 ヨハネ1:1

                                           

今週の聖句:ヨハネ1:1~5、創世記1:1、ヨハネ1:9~13、ヨハネ3:16~21、ヨハネ9:35~41、マタイ7:21~23、ヨハネ17:1~5

                                           

今週の研究:今週の研究では、福音書の冒頭に戻ります。そこでは、聖霊によってヨハネが霊感を受け、読者を導こうとしている方向性が示されています。新約聖書の記者は、書き出しの最初の言葉や段落で、自分が取り上げようとしている主題を提示することがよくあります。ヨハネも同様で、彼の主題は、天地創造の前までさかのぼる、イエス・キリストについての最も重要な真理を、壮大な宇宙の成り立ちの一部として提示されています。

今週の研究では、まず序言(ヨハ1:1~18)から始め、その主要な主題を要約します。その後、これらの主題をヨハネによる福音書のほかの箇所にも見ていきます。

                                           

月曜日:ヨハネは、この言葉をまったく違う意味で用いています。彼は、真理である「ロゴス」が天と地の間に漂う幽玄で抽象的な概念ではないと主張します。「ロゴス」は1人の人、すなわち受肉して私たちの間に宿られたイエス・キリストだというのです(ヨハ1:14)。

ヨハネにとって、「ロゴス」は神の言葉です。さらに重要なのは、神が私たちと関係を持ってくださることです。神は最も驚くべき方法で人類にご自分をあらわされました。神は私たちの1人となられたのです。ヨハネによる福音書では、「ロゴス」は、時間と空間に入り、語り、行動し、個人的なレベルで人間と関係を持ってくださる永遠の神をあらわしています。永遠の神が私たち人間の1人になられたのです。

ヨハネ1:14で使徒ヨハネは、「ロゴス」が「肉となって、わたしたちの間に宿られた」と述べています。「宿る」と訳されている元のギリシア語は、天幕を張ることを意味します。ヨハネは、出エジプト記25:8を暗示していますが、そこでは神がイスラエルの人々に、ご自分が彼らの中に住めるよう、聖所、つまり幕屋を造りなさいと言われました。同様に、受肉によって、神の御子なるイエスは人間の肉体に入り、人々と接触できるよう、その栄光を覆われたのでした。

                                           

水曜日:興味深いことに、「信仰」に相当する名詞(ギリシア語の「ピスティス」)がヨハネによる福音書には一度も登場しません。しかし、「信じる」(「ピステウオー」)という動詞は、新約聖書全体で合計241回登場するのに比べて、98回も登場します! 明らかに、この動詞はヨハネによる福音書の中でとても大きな主題です。名詞ではなく、動詞をこのように用いることは、クリスチャンになることの非常に積極的な意味を示しているのかもしれません。イエスを信じる者になるというのは、私たちが行うことであり、単に知的に信じることだけでなく、生き方にあらわれるのです。ご存じのように、悪魔でさえイエスを信じています(ヤコ2:19参照)。

                                           

木曜日:この福音書で、イエスに栄光を与えるという考えは、イエスの時、すなわち、イエスの死の時の概念と結びついています(ヨハ2:4、7:30、8:20、12:23~27、13:1、16:32、17:1と比較)。十字架がイエスの栄光の時なのです。

この考えは非常に逆説的です。なぜなら、古代ローマ世界では十字架刑が最も恥ずべき屈辱的な処刑方法だったからです。この驚くべき対比、つまり、十字架上の神は、人間の物語と神の物語が絡み合っていることを示しています。

人間的なレベルでは、イエスは弱さの中で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びながら、軽蔑された犯罪者として苦しみのうちに亡くなられました。この人間的な、十字架の暗い側面は、特にマタイとマルコによる福音書の中に示されています(マタ27:46、マコ15:34)。

しかし、十字架の輝かしい側面が、特にルカとヨハネによる福音書の中に示されています(ルカ23:32~47、ヨハ19:25~30)。それは救いの場、憐れみの場であり、神の御子がご自身を父なる神にささげられた場所でした。

なんと皮肉なことでしょう。神の最大の栄光は、神ご自身がこの世の罪を負われるという、神の最大の恥辱の中にあらわれるのです。

                                           

ヨハネによる福音書の冒頭は、初めて読んだ人には意味がわからないことばが続きます。ヨハネはイエス・キリストが創造主であることを、ここをはっきりと明示したいがために、このような言葉で書き始めました。聖書は神さまがいらっしゃること、そしてその神さまが創造主であることをわたしたちに伝えています。その創造の記念日として安息日を制定して、創造主を礼拝するように神さまは求めているのです。これは神さまの招きに応えることにもなるのです。

そしてヨハネによる福音書の中で重要な言葉として「信じる」と「栄光」について水曜日と木曜日の学びから引用しました。今期は、この二つの言葉が学びを導いて行くのかもしれませんね。今期の序論となる学びが、第三課となっています。その前の二課ではキリストの奇跡を通して、キリストが神性を顕されたことが書かれています。ここまでは神さまの働きです。それをどのように信じるのか、これはわたしたちの応答です。

そして栄光とはなんでしょうか。イエスさまは、それが人として生きた自分に向けられることが無いようにされました。神さまの栄光が讃えられるように彼は働かれたのでした。神さまはわたしたちを通して、神さまを顕そうとされています。わたしたちが与えられた神さまからの祝福が、まわりの人への流れて行くような歩みをしたいものです。

ヨハネは創造主であるイエスさまが、この地上で神の子、救い主として働いてくださったことを、そばにいた弟子として記録を残しました。わたしたちのすることは、そのキリストを信じることです。悪魔はわたしたちを失望させようと、様々な働きかけをしてきます。けれども信じて、信頼して進むわたしたちを必ず導いてくださいます。今、わたしは海外で働いています。自分の力ではどうしようもできないことばかり、その中だからこそ、余計に神さまの導きや守りがあります。日本にいては気づけなかったことです。神さまの約束はたしかです。