安息日学校部

20240402安河内アキラ解説

2024年第4期「ヨハネによる福音書の主題」

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第2課   神性のしるし   10月12日

暗唱聖句:イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 ヨハネ11:25、26

                                           

今週の聖句:ヨハネ6:1~15、イザヤ53:4~6、Ⅰコリント5:7、ヨハネ6:26~36、ヨハネ9:1~41、Ⅰコリント1:26~29、ヨハネ11章

                                           

今週の研究: 今週の研究では、イエスの神性を示す三つの大いなるしるしを見ていきます。印象的なのは、いずれの場合にも、その奇跡を信じない人や、その重要性を認識しなかった人がいたことです。ある人にとって、それはイエスに背を向ける時に、ある人にとっては霊的盲目の度合いを深める時に、ある人にとってはイエスの死を企てる時になりました。しかし、別の人たちにとっては、イエスがメシアであると信じる時になりました。

                                           

日曜日:この記事の多くの細部が、イエスを出エジプトのモーセと重ね合わせています。過越祭の時期(ヨハ6:4)は、エジプトからの大いなる解放を指し示していますし、モーセがシナイ山に登ったように、イエスも山に登られます(同6:3)。イスラエルの人々が荒れ野で試みられたように、イエスもフィリポを試みられます(同 6:5、6)。パンが増えたことは(同6:11)、マナを思い起こさせます。食べ残しを集めたことは(同6:12)、イスラエルの人々がマナを集めたことを思い起こさせます。拾い集めた食べ残しは12の籠を満たしましたが(同6:13)、それはイスラエルの十二部族と同じ数です。また人々は、イエスは「世に来られる預言者である」(同6:14)と言いましたが、それは申命記18:15で予告された「わたし(モーセ)のような預言者」と重ね合わさります。これらすべては、イエスが新しいモーセであり、ご自分の民を解放するために来られたことを指し示しているのです。

このようにヨハネは、イエスが単にしるしや不思議な業をなさったということを示すのではなく、その文脈において、ユダヤ人にとって特別な意味を持つはずのしるしや不思議な業をなさったのだということを示しています。要するに、イエスの神性を彼らに指し示していたのです。

                                           

水曜日:ヨハネ9章のこの長い部分は、イエスが舞台の主役ではない、この福音書の唯一の箇所ですが、イエスが論議の対象であることは確かです。罪についての質問からこの箇所が始まったように(ヨハ9:2)、ファリサイ派の人々は、イエスが安息日に盲人をいやされたのでイエスを罪人と考え(同9:16、24)、いやされた男を「全く罪の中に生まれた」(同9:34)者と中傷します。

奇妙な逆転が起こります。盲人は、イエスに対する感謝と信仰を深めるにつれ、肉体的にだけでなく霊的にも、ますます見えるようになっていきます。それとは対照的に、ファリサイ派の人々の理解は、ますます盲目的になり、最初はイエスに関して意見が分かれていましたが(ヨハ9:16)、やがてイエスがどこから来たのかわからなくなってしまいます(同9:29)

安息日にいやしが許されるのは、緊急の場合に限られていました。この男は38年間体が不自由でした。したがって、彼のいやしに緊急性はありませんでした。しかも、床を担がせるどんな必要性があったのでしょうか。このような奇跡を起こすことができる神の力を持つ者なら、安息日に床を家に運ぶことが許されるかどうかも知っているはずだと、誰もが思うでしょう。明らかにイエスは、時として真の信仰を妨げてきた人為的な規則や規定を超えて、より深い聖書の真理へ彼らを導こうとしておられたのです。

                                           

木曜日:イエスは盲人に視力を与えることで(ヨハ9:7)、ご自分が世の光(同8:12、 9:5)であることを示されたように、ここでラザロを死者の中から復活させることで(同11:43、44)、ご自分が復活であり、命であることを実証しておられます(同11:25)。この奇跡は、ほかのどの奇跡よりも、イエスが命の与え主であり、神ご自身でおられることを示しています。それは、イエスが神の御子であり、私たちは信じることで、彼を通して命を得ることができるというヨハネの主題(同20:30、31)を強く裏づけるものです。

しかし、多くの目撃者が信じた(ヨハ11:45)この驚くべき物語(同11:45~ 54)が終わるまでに、悲しい皮肉が見られます。イエスが死者を復活させることができることを示されてもなお、イエスを殺して阻止できると考える人がいるのです。神の知恵と力とは対照的な、なんという人間の弱さでしょう!

                                           

今週はキリストがなされた、5000人への給食、盲人の癒し、ラザロの復活について学びます。この三つに共通していることは、神さまでなければ絶対にできない驚くべき奇跡をなされました。

まず5000人給食ですが、神さまがわたしたちの必要に応えてくださる方であることを示しています。今日日本で、わたしちは食べるの困る経験をしてはいないでしょう。けれども今日、富の偏在によって飢餓に苦しむ人がいます。神さまは、富んでいる者に「なぜ富が与えられているか」考えるように語りかけているのかもしれません。

キリストの癒しの中で盲人の癒しの記録が多いと思います。生まれつきの盲人は、本人か先祖の罪の結果という言われもない苦しみの中にありました。キリストは、このような人間の偏見や誤解による罪から解放しようと、働かれたのでした。

ラザロの復活については、今週の暗唱聖句にもありますが、キリストが復活の希望を与える力があることをわたしたちに示しています。神さまでしかできないことを示されたことで、キリストが約束された救い主であることをわたしたちに語りかけています。次は、あなたがそのキリストを信じるか否かです。神さまは信じるあなたを必ず天国まで導いて行かれます。