第13課 復活された主 9月28日
暗唱聖句:若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」マルコ16:6
今週の聖句:マルコ15:42~47、マルコ16章、コロサイ2:10~12、Ⅰコリント15:1~8、ダニエル9:24~27、ヨハネ20:11~18
今週の研究:マルコによる福音書の最終章である16章では、イエスの死後に起こった出来事を見ていきます。まず、イエスの復活のタイミングと、なぜ女たちが日曜日の朝に墓へ行ったのかを考えます。アドベンチストは、日曜日の神聖さを支持するために復活の朝が誤用されるため、復活の朝を敬遠することがあります。しかし、私たちは敬遠することなく、日曜日の復活から残念ながら生じた偽りの神学をよそに、日曜日の復活をいかに喜ぶことができるかを見ていきます。
次に、今週の研究では、マルコ16章の最初の節を説明し、それらの言葉をこの福音書全体を貫く主題と結びつけます。月曜日と火曜日の研究では、これらの概念について考察します。
最後に、今週の締めくくりとして、水曜日と木曜日にマルコ16章の残りの部分を調べ、私たちに与えられている使命について検討します。この研究は、福音を世界中に伝えるというこの福音書の読者への挑戦で終わります。
日曜日:聖書には、復活の記念として日曜日の神聖さをほのめかす言葉は一つもあり ません。復活の記念とはバプテスマです。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ロマ6:4)。
日曜礼拝に関する誤った神学にもかかわらず、アドベンチストとして、私たちは日曜の朝のイエスの復活を喜ばなければなりません。イエスはご自分の死と復活によって「死」に勝利されたので、その復活によって、私たちは自分の復活を確信します。
月曜日:まず、人がなすべきことは、創造主としての神を信じることだけです(創1、2章参照)。そうすれば、復活や奇跡についての考えは、合理的になります。宇宙を創造し、地上の命を生み出された神は、もしご自身が望めばイエスを復活させる力を確かに持っておられました。つまり神の存在は、イエスの復活を当たり前だけでなく、納得のいく合理的な出来事にするのです。
また多くの人が、復活のキリストを見たと証言しました。弟子たちを含め、大勢の人が最初は信じませんでした。しかも、1人の非常に強固な敵であったパウロは、復活された主を見たと主張するだけでなく、その経験が彼の人生の軌跡全体を、根本的に変えたと主張しています。最後に、復活の主を見たと主張する人々によって設立されたキリスト教会の台頭は、どう説明したらよいのでしょうか。なぜこの人たちは、うそだとわかっていることのために喜んで死を選んだのでしょうか。彼らの一貫した証言は、イエスの復活の有力な証拠です。
水曜日:生きているイエスを最初に見たのはマグダラのマリアで(ヨハ20:11~18)、ほかの女たちも同様にイエスを見ました(マタ28:8~10)。復活の主を最初に見たのが女たちであったことは、重要な点です。古代世界において、女は目撃者として高い地位を得ていなかったので、もしこの話が捏造されたものであれば、最初の目撃者として男の名を挙げる可能性がはるかに高かったでしょう。しかし、それは男でも、11人の使徒でもなく、1人の女でした。彼女は弟子たちに良い知らせを伝えに行きますが、予想どおり、彼らは彼女の証言を信じません。それはおそらく、その証言が夢のように思えたからであり、残念ながら、マリアが女であったためでしょう。
イエスの復活の物語の擁護者たちは、女たちがイエスを最初に見たというこの事実を、物語の真実性を示す有力な証拠として用いてきました。
木曜日:イエスはまた、悪霊を追い出すこと、新しい言葉を語ること、危害から守られること、病人をいやすことなど、弟子たちの働きに伴うしるしについても述べられます。ある人たちはマルコ16:18を誤解し、クリスチャンは毒蛇をつかむことで信仰を示すことができるなどと解釈しています。ここではそのような傲慢な行為を認めていません。イエスが述べておられるのは、使徒言行録28:3~6の場合と同様、パウロが他者に奉仕したように、人が宣教に携わるときの保護についてなのです。
言うまでもなく、聖書は、クリスチャンが常に危害から守られるとは教えていません。時として神は、福音の働きを前進させるために奇跡を起こすことが適切であると判断されますが、時としてクリスチャンは、自分の証のゆえに苦しむことがあります。そのような状況において、彼らの我慢強い忍耐は、未信者にとって信仰の力のもう一つのしるしとなります。
マルコによる福音書の学びも、いよいよ最終週となりました。今週はキリストの復活について学びます。この稿では何回も書いていますが、聖書を読むための公式があります。それは「神さまは創造主である」ということです。神さまが命じたら、天地のすべてができたと聖書は伝えています。これを信じることができれば、キリストの復活は、神さまの力によれば決して難しいことではないのです。
そしてこの復活を信じることは、わたしたちも死から復活して天国へ入ることができる約束なのです。本文に書かれていますが、わたしたちはまちがった神学とは別に、復活はわたしたちの信仰の希望なのです。
最後にキリストは、福音を伝える人への守りの約束をしています。けれども今日までの歴史には多くの殉教者もいるのです。わたしたちは、これらのすべてを含めて、神さまがわたしたちを愛して導いてくださっていることを疑わずに信じねばなりません。
わたしが働いているインドネシアアドベンチスト大学は、今年で開学75周年です。インドネシアは第二次世界大戦で日本が降伏した二日後に独立宣言をしました。けれどもオランダは再占領をするために軍隊を送り、4年間の内戦になり独立を勝ち取りました。この独立した時に開校しています。学内に歴代学長の写真がありますが、最初の数代はおそらくアメリカからの宣教師の指導を受けているのでしょう。
この大学があるバンドン市はジャカルタから約150キロ、標高700メートルで気候も良く学園都市として発展し、市内には多くの大学があります。アドベンチストの大学は、自然豊かな場所に建てられていて、この大学も市街地から15キロくらいのところに建てられています。開校当初、地域のみなさんはキリスト教の大学ができることに反対していました。ある晩に、地域のみなさんがこの大学を襲って追い出そうと計画して、大学へ向かいました。ところが大学のまわりには白い衣を着て馬に乗った人たちが守っていたのです。彼らは、畏れを抱いて帰って行ったそうです。
神さまは生きておられて、神さまのために働く者を守ってくださるのです。