第12課 試みられ、十字架につけられる 9月21日
暗唱聖句:三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。マルコ15:34
今週の聖句:マルコ15章、ルカ13:1、詩編22:19(口語訳、詩篇22:18)、ヨハネ20:24~29、ヨハネ1:1~3、ダニエル9:24~27
今週の研究:マルコ15章は、「受難物語」の中心です。イエスの裁判、有罪判決、兵士たちによる嘲笑、十字架刑、そして彼の死と埋葬が描かれています。この章の出来事は、おそらく記者が淡々と事実を語っているため、ありのまま、簡潔明瞭に詳しく記されています。この章全体を通じて、皮肉が重要な役割を果たしています。
今週研究するこの章は、「お前がユダヤ人の王なのか」というピラトの質問から始まり、嘲笑する兵士たち、十字架上の罪状書、「他人は救ったのに、自分は救えない」という宗教指導者たちの侮辱、アリマタヤのヨセフの予期せぬ登場に至るまで、痛ましい皮肉に満ちています。しかし、それにもかかわらず、それらの皮肉がイエスの死とその意味に関する力強い真理を明らかにしています。
日曜日:皮肉なことに、イエスはメシアであると同時にユダヤ人の王でもあります。冒瀆と扇動に対する彼の有罪判決は、間違っていました。むしろ彼は、敬意と崇拝を受けるべきでした。それでもイエスは、依然、王として振る舞っておられます。ピラトに対する彼の返答は、「それは、あなたが言っていることです」(マコ15:2)というもので、要領を得ません。彼はこの称号を否定も肯定もされません。この返事は、イエスが王ではあるが、異なる種類の王であることを示唆しているのかもしれません(ヨハ18:33~38と比較)。
マルコ15:9、10は、自覚と無自覚の研究です。ピラトは、宗教指導者たちがねたみのためにイエスを引き渡したことを自覚していますが、群衆に尋ねる ことで、自分が宗教指導者たちの術中にはまりつつあることは自覚していません。彼らは群衆を扇動し、イエスの十字架刑を要求します。ピラトはひるみます。十字架刑は、とりわけ彼が無実だと考えている者に、あまりにもむごい殺し方だったからです。異教徒の総督がメシアの釈放を望み、一方で宗教指導者たちがメシアを十字架につけることを望むとは、なんと痛ましい皮肉でしょう。
火曜日:彼らの嘲笑的な言葉の一つが際立っています。彼らはマルコ15:31で、「他人は救ったのに、自分は救えない」と言っています。十字架上でのイエスの無力さを強調するために、彼らは、イエスが他人を助けたと述べています(このギリシア語の動詞は、「救う」「いやす」「救出する」を意味する)。こうして、皮肉にも彼らは、イエスが救い主であることを認めているのです。皮肉はさらに続きます。イエスがご自分を救えなかった、あるいは救おうとなさらなかったのは、彼が十字架で他人を救っていたからでした。
水曜日:この箇所で印象的なのは、マルコ1:9~11のイエスのバプテスマとの類似点です。
【バプテスマ(マコ1:9~11)】
ヨハネがイエスにバプテスマを授ける
ヨハネ(エリヤと同一視、マコ9:11~13)
天が裂ける
“霊”(「プネウマ」)
「愛する子」という神の声
【十字架(マコ15:34~39)】
イエスのバプテスマ (マコ10:38と比較)
エリヤを呼ぶ
垂れ幕が裂ける
息を引き取る(「エクスプネオー」)
「神の子」という百人隊長の声
これらの類似点が示唆するのは、マルコ1章のイエスのバプテスマが、ダニエル9:24~27で預言されたイエスの宣教の開始であるように、15章の十字架は、彼の宣教の頂点であるということです。十字架上の死は、ダニエル9:24 ~27の預言の一部も成就します。神殿の垂れ幕が裂けたことは(マコ15:38)、犠牲制度が終わり、救済史の新しい段階の始まりを示しています。
木曜日:このことが重要なのは、イエスは十字架上で死んだのではなく、気を失っただけだという後の主張のためです。ローマの総督に対する百人隊長の証言は、その主張に真っ向から反論しています。何しろ、ローマ人は犯罪者の処刑方法をよく知っていたのですから、確実にイエスは死んだのです。
ヨセフは亜麻布を持って来てイエスを包み、岩を掘って作った墓に遺体を納めました。この墓は、歩いて入ることができるほどの大きさでした(マコ16:5)。福音書の記者は、ヨセフとともに、その場所を目撃した2人の女性、マグダラのマリアとヨセの母マリアについて記しています。この2人は、サロメと一緒に遠くから十字架刑を見守りました。3人とも日曜日の朝に墓へ行き、イエスの防腐処理を終わらせようとしていました(マコ16:1)。
この3人の女性に、なぜ言及されているのでしょうか。彼女たちはマルコ16章の空の墓の証人、すなわち、イエスの復活の重要な証人となるからです。
今週の学びは、キリストの十字架についてです。キリストの働きの中心でもあり、わたしたちの救いのために無くてはならないことでした。今週の学びで、キリストを十字架につけるまで、様々な人が彼のことを冒とくしています。もし彼らがキリストのほんとうの姿を知っていたら、このようなことをしたでしょうか。
キリストは公生涯の間、神の子であることを示されました。マルコの福音書の前半は、彼は何者か?という問いかけへの答えと学んできましたね。彼は自らがキリストであると示したのです。それでもキリストを十字架につけてしまった人たちは信じなかったのです。
イエスさまはマタイ25章で、貧しい人への働きはわたしにしたのだと教えています。もしわたしたちが蔑んだり、悪口を言う相手が、かたちを変えてわたしたちのまわりにいらっしゃるキリストだったら、あなたはどうするでしょうか。神さまはすべての人を愛された、それは相手がだれであっても愛された。それが神さまの大きな愛なのですね。
キリストが十字架で亡くなられた時に、キリストの足元には弟子のヨハネと女性たちがいました。当時は庶民に個人の墓など無く、仮に用意できたにしても、キリストの死が突然だったので、それどころではなかったでしょう。そこにアリマタヤのヨセフが登場します。彼の物語は四福音書にすべて記録されています。キリストが復活されて墓か空になるためには、彼が墓を提供しなければなりませんでした。彼は高位だったので、キリストの亡骸を十字架から譲り受けることができました。もしそうでなければ、キリストが罪人として当時の庶民の死体の行き先であった谷などへ持って行かれてしまったでしょう。
モルデカイがエステルに、今あなたが立たねばと彼女を促しました(エステル4:14)。同じように、神さまのためにあなたにしかできない働きがあるかもしれません。神さまがわたしに立ち上がるように声をかけてくださった時に、勇気を出した立ち上がること、これは神さまの召しに応えることです。このあとアリマタヤのヨセフがどうなったかは聖書には書かれていません。もしかしたら彼はこのことで立場を失ったかもしれません。けれども聖書に名前が残されているので、きっとキリストを信じて歩んだのでしょう。