安息日学校部

20240311安河内アキラ解説

2024年第3期「マルコによる福音書」

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第11課   捕らわれ、裁かれる   9月14日

暗唱聖句:こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」マルコ14:36

                                           

今週の聖句:マルコ14章、ヨハネ12:4~6、ローマ8:28、出エジプト記24:8、 エレミヤ31:31~34、ゼカリヤ13:7

                                           

今週の研究:今週の研究は、マルコ14章に焦点を合わせ、5番目の「サンドイッチ物語」から始めます。それは、イエスに関して二つの相反する行動を結びつけています。そのあとに「最後の晩餐」が、さらにゲツセマネの園での苦悶が続きます。イエスはそこで逮捕され、指導者たちの前に連行され、裁判を受けられますが、その裁判の場面は、ペトロのイエス否認と結びついており、6番目で最後の「サンドイッチ物語」になっています。ここでもまた、二つの相反する行動が起きますが、皮肉なことに、それらは同じ真理を肯定しています。

物語全体を通して、二つの対照的な物語の構想が手を携えて進行します。マルコは歯切れの良い文体で、イエスの勝利を明らかにしながら、これらの相反する物語を読者の前に示します。

                                           

月曜日:マルコ14:12は、この日が除酵祭の第一日であり、過越の小羊を屠る日であったと記しています。その食事は、木曜日の夜に行われました。

最後の晩餐で、イエスは新しい記念の式を制定されます。それはユダヤ人の過越祭からの移行であり、イスラエルがエジプトを出て、シナイで神の契約の民となったことと結びついています。出エジプト記24:8で契約を結ぶ際に、モーセはいけにえの血を民に振りかけて言いました─「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」

イエスがここで制定された「主の晩餐」では、過越の食事の小羊が用いられていないことが印象的です。それは、イエスが「神の小羊」だからです(ヨハ1:29と比較)。「主の晩餐」のパンは、主の体をあらわしています。新しい契約(エレ31:31~34と比較)は、イエスの血によって結ばれ、杯はこのことをあらわしています。彼はこうおっしゃいました─「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マコ14:24)。

                                           

水曜日:群衆がイエスを捕らえたとき、混乱が起こりました。誰かが剣を抜き(ヨハ18:10、11によれば、それはペトロでした)、大祭司の手下の耳を切り落としたからです。イエスは群衆に語りかけ、ご自分が神殿で教えていたときには、公然と行うことを恐れていたことを、彼らが密かに行ったことを非難されました。しかし最後に、それは聖書の言葉が成就するためだと言われました。これは、「受難物語」を貫く二重の構想のもう一つのあらわれです。つまり、人間の意志がメシアを殺そうとするにもかかわらず、神の御心は成就しつつあるということです。

弟子たちはみな、ペトロも含めて逃げますが、彼は再びあらわれて、遠く離れてイエスに従い、最終的に窮地に陥ります。しかしマルコ14:51、52には、イエスに従った若者のことが書かれており、この記事は正典福音書のほかのどこにも見当たりません。マルコ自身だと考える人もいますが、それは証明できません。注目すべきは、彼が裸で逃げたことです。若者は、イエスに「従う」ためではなく、イエスから「逃げる」ためにすべてを捨てたのです。

                                           

木曜日:イエスが建物の中で裁判にかけられ、誠実な証言をしておられた間に、ペトロは外でうその報告をしています。これは、マルコによる福音書の6番目で最後の「サンドイッチ物語」です。ここでは、イエスとペトロという2人の並行する登場人物が正反対の行動を取っており、とりわけ皮肉が効いています。イエスは誠実な証言をなさいますが、ペトロは偽りの証言をします。ペトロは、大祭司に仕える女や居合わせた人々から三度声をかけられ、そのたびにイエスとの関わりを否定し、その過程でののしったり、誓ったりさえしました。

このとき、二度目に鶏が鳴き、ペトロは突然、その夜、彼が三度主を否認するだろうというイエスの預言を思い出します。彼は泣き崩れました。ここに際立った皮肉があります。裁判の終わりに、イエスは目隠しをされ、殴られ、「言い当ててみろ」と命じられました。誰が殴ったのかわからないのですから、それはイエスを嘲笑するためでした。しかし、まさにそのとき、ペトロは下の中庭でイエスを否認し、主の預言の一つを成就させています。結果的に、ペトロはイエスを否認することで、イエスがメシアであることを実証したのです。

                                           

今週の暗唱聖句は十字架の前のキリストの祈りです。キリストでさえ十字架を取り除いてほしいと父なる神にお願いしています。わたしたちのためにそれだけ苦しいことを背負ってくださいました。

月曜日の学びに書かれていますが、ここでキリストは最後の晩餐を弟子たちとともにします。ここで過ぎ越しの祭りにかわる新しい儀式を弟子たちに定められます。今日の聖餐式です。これはキリストの十字架を記念とするものです。過ぎ越しの祭りも同じことを示していましたが、大きなちがいは未来への約束ではなく、成し遂げられたことを思い起こすための式となったのです。ある意味で、ユダヤ教からキリスト教に変わった時かもしれません。またぶどうジュースと小麦粉は、おそらく世界中で比較的どこででも手に入るものでした。ユダヤの地域の宗教から世界教会へ変わるための必要な時でした。

今週の聖句にエレミヤ書31章が挙げられています。この聖句はエレミヤ書の中に新しい契約が約束されています。エレミヤの時代は、ユダ王国が滅亡して厳しい時代でした。そこへ神さまは新しい契約の希望を伝えられたのです。この希望は今日でも変わりません。苦しい時代において新しい契約は希望の光を与えてくれるのです。

今週の学びの最後は、ペトロが三回キリストを知らないと言ってしまう場面です。このことは4福音書にすべて記録されていますが、マルコによる福音書が一番多く書かれています。ペトロが宣教をしている時に、きっと神さまの深い愛を語るために、自分の経験を自分のことばとして語っていたのでしょう。その通訳としてマルコは何回も聞いていたからこそ、この場面の記録をしっかりと残したのではないでしょうか。

同じように、どんなまちがいを犯しても、戻ってくる人を神さまは赦して迎え入れてくださるのです。

 

そして神さまを信じたらなんでもできると約束されています。けれどもわたしたちの祈りが、すべてかなえられるわけではありません。それらを含めて神さまが最善のことを与えてくださる約束です。そしてそのあとに今週の暗唱聖句がきます。わたしたちがやらねばならないことを教えています。それは隣人を愛することなのです。神さまはわたしたちに愛の実践を通して、神さまの愛を伝えるように教えているのです。愛はいつまでも、まわりの人の心の中に残ります。わたしも新しい世界に入って苦闘の一週間でしたが、まわりのみなさまのあたたかな愛情に包まれて生き抜くことができました。きっとこのことは一生忘れないでしょう。