第10課 終わりの時 9月7日
暗唱聖句:そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。 マルコ13:26、27
今週の聖句:マルコ12:41~44、マルコ13:1~32、ダニエル9:24~27、ダニエル7:25、Ⅰテサロニケ4:13~18
今週の研究:マルコ13章がはっきり示しているのは、この預言が、預言者の時代から、イエスの時代、そして終わりの時、つまりイエスの再臨まで関係しているということです。この解釈は、「終末預言の歴史主義的解釈」と呼ばれるもので、これらの預言を過去やはるか未来に当てはめようとする試みとは対照的です。
この福音書のイエスの多くの教えと同様、主の教えは弟子たちの質問や誤解に答えるものです。イエスは質問や誤解を、クリスチャンの生活や経験に不可欠な真理を教える機会とされました。イエスは未来を預言するだけでなく、来きたるべき試練に備える方法を当時も今も弟子たちに教えておられます。
日曜日:この物語には、資源の管理に関する深い教訓が含まれています。神の働きのためにささげることが正当であるかどうかは、指導者の行動に左右されません。神殿の宗教的指導者は腐敗していましたが、イエスはそれによって献げ物を差し控えることを肯定なさいませんでした。これまでに腐敗した宗教指導者がいたとして、当時の彼ら(カイアファやアンナス)は最悪の部類に入るでしょう。イエスもそのことをご存じでした。
確かに指導者には、神の御心に従って資源を使用するという神聖な責任がありますが、たとえ彼らがそうしていなくても、このやもめのように、神の働きのためにささげる人は、その献げ物によって祝福されます。
一方、指導者たちが何か不愉快なことをしたときに什一や献金を差し控えることは、その献げ物が神への感謝としてなされているのではなく、彼らの行動に結びつけられていることを意味します。そうしたくなるかもしれませんが、それは間違いです。
月曜日:弟子たちは、イエスのなさったこの預言がいつ起こるのかを知りたがります。マルコ13:4では、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレという少人数のグルー プが、イエスにその時期を尋ねています。彼らは、これらすべてのことがいつ起こるのか、そしてそれが起ころうとするときに、何がそのしるしとなるのかを知りたいと思ったのです。マルコ13:5~13で印象的なのは、イエスがエルサレム陥落の描写ではなく、むしろ初代教会を設立する弟子たちの働きの中で予想されることについて、彼らを警告することにほとんどの時間を費やしてしておられる点です。それもまた、簡単なことではなさそうです。実際、彼らは迫害され、裁判にかけられ、ある人は殺されるでしょう。しか しイエスは、こういったことがすべて起きても、まだその時ではないことを示されました。彼らは騒動に惑わされてはなりません。また、たとえ家族や友人から見捨てられたときも、聖霊は彼らに適切な時に語るべき言葉を教えてくださいます。イエスの預言のこれらの最初の言葉からわかることは、神の民は騒動や試練を恐れる必要はないということです。聖霊がその困難を乗り越えさせてくださるので、彼らは目を覚ましていられます。
木曜日:しかし、もっと簡単な解釈は、「この」という言葉が「この時代(世代)」というようにマルコ13:30で使われ、「その」という言葉が「その日、その時」というようにマルコ13:32で使っていることに注目することです。マルコ13章では、「この」(ギリシア語「フートス」)という言葉が1~13節の中でさらに登場し、エルサレム陥落に結びついており、後半を特徴づけています。
したがって、「この時代(世代)」とは、エルサレム陥落を目撃した1世紀の世代を指している可能性が高いようです。しかし、マルコ13:32はキリストの再臨について言及しており、それはまだ将来のことであり、1世紀よりもずっとあとのことです。そのため、マルコ13:32は「その」という言葉を使って、1世紀よりあとの出来事について語っているのです。
今週の研究の始まりはレプトン2枚をささげた女性の物語からはじまります。この物語を現代に適用するとしたら、日曜日の学びに詳しく書かれています。献金はなんのためにするのでしょうか? たしかに現在は什一献金で牧師や教会のために働く人のために使われます。けれどもそれは働く人を通して神さまの働きを支えているのです。逆に働く人は、そこをしっかりと自覚する必要がありますが、献金はわたしたちと神さまの関係なのです。神さまを信頼しているからこそ献金をします。神さまは一週間のうち7分の1の時間を、そして什一をささげるようにと私たちを招いています。神さまはわたしたちが神さまを信頼していることを、わたしたちの行動を通して表すのです。そのようなわたしたちを祝福すると神さまは約束されています。
終末についてのキリストの預言はマタイ24章が有名ですが、マルコによる福音書にも記録されています。キリストは弟子たちの問いかけには、直接の答えをされませんでした。再臨の時よりも、その前に来る迫害の時のことを弟子たちに教えています。これはわたしたちにとっても大切な教訓です。再臨は確実にやってきます。けれどもその時を決めるのは父なる神さまです。わたしたちはそれまでは与えられていのちを生きねばなりません。未来の希望を大切ですが、今日やらねばならないこともあるのです。その積み重ねが再臨への備えでもあるのです。