第9課 エルサレム論争 8月31日
暗唱聖句:また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦ゆるしてあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。 マルコ 11:25
今週の聖句:マルコ11章、列王記上1:32~48、ゼカリヤ9:9、10、イザヤ56:7、 エレミヤ7:11、マルコ12:1~34
今週の研究: 今週研究する箇所では、イエスはエルサレムに到着され、宗教指導者たちと六つの論争を繰り広げられています。この二組の論争は、地上における主の宣教の始まりと終わりを飾るブックエンドのようなものです。それぞれの論争は、クリスチャン生活における重要な問題を扱っています。このような論争的な状況においても、イエスの教えは、信仰の基本的な問題と日常経験の実際的な問題の両方において、信者を導く助けとなります。
マルコ11章において、イエスの宣教活動は過越祭(3~4月)に向けてエルサレムでなされます。マルコ11章から16章までは、1週間ほどの期間を扱っており、物語の進行が著しく減速しています。1章から10章までは約3年半を扱っているからです。この減速は、これらの最終場面の重要性を示しています。
月曜日:翌朝、都に戻った弟子たちは(マコ11:20~26参照)、いちじくの木が根元から枯れているのを見て驚きます。イエスはこの出来事を説明する中で、祈りと赦しについての教訓を与えられます。それは何を意味するのでしょうか。
これら二つの物語は、この福音書の4番目の「サンドイッチ物語」です(3課参照)。このような物語では、並行する登場人物が正反対の行動をしたり、正反対の登場人物が並行した行動をしたりすることで劇的な皮肉が生じます。この物語では、いちじくの木と神殿が並行関係にあります。イエスは木を呪い、神殿を清められました。正反対の行動です。しかし皮肉なことに、宗教指導者たちは、今やイエスの殺害を計画しており、その行動によって、神殿での奉仕の意義は終わりを告げることになります。それは、イエスにおいて成就しました。
木曜日:時として人は、命じられて愛することができるのだろうかと思うことがあります。申命記における命令の文化的背景が、その説明に役立ちます。この言葉は、当事者間の古代の契約に由来しており、「愛」という用語は、契約の条件に忠実であること、忠実にそれを果たすことを指しています。したがって、当事者間の深い愛情の概念を排除するものではありませんが、そのような忠誠を示す行動に焦点を当てているのです。
律法学者は正直で、イエスの答えの明快さと単純さを知り、そのとおりだと言いました。この正直な律法学者がイエスの答えを正当なものだと肯定したために、他の宗教指導者たちが眉をひそめたことは想像に難くありません。イエスもまた、律法学者の正直な答えを肯定し、彼が神の国から遠くないとおっしゃいました。遠くないというのは、内側にいるという意味ではありません。 律法学者には、まだ必要なことがありました。それは、イエスが何者であるかを認識し、彼に従うこと、つまり信仰の旅において、さらなる1歩を踏み出すことでした。
金曜日:「キリストがご自分の力でつくられた木をのろわれたこの行為は、すべての教会とすべてのクリスチャンにとって一つの警告である。人に奉仕しないならば、だれも神の律法を生活に実行しているとはいえない。ところが、キリストの憐れみ深い、無我の生活を実行していない人が多い。自分は立派なクリスチャンであると考えている人々が、神に奉仕することがどんなことであるかをわかっていない。彼らは自分自身を喜ばせるために計画し、学ぶ。彼らは自分自身に関してのみ行動する。時間は自分の利益になるときだけ値打ちがある。生活のすべての点において、これが彼らの目的である。人のためではなく、自分自身のために、彼らは奉仕するのである。神は、無我の奉仕を行わねばならない世界に住まわせるために、彼らを造られた。神は、彼らがあらゆる方法で同胞を助けるように計画された。しかし、自我があまりに大きいために、彼らはほかのものは何も見ることができない。彼らは人間と接触していない。このように自我のために生きる者は、すべてが見せかけだけで実のならないいちじくの木と同じである。彼らは礼拝の形式を守っているが、悔い改めもなければ、信仰もない。口先では神の律法を敬っているが、服従が欠けている。彼らは口では言うが、行わない。
いちじくの木に対する宣告の中に、キリストは、このようなむなしい見せかけがキリストの御目にどんなに憎むべきものであるかを実際に示しておられ る。」(『希望への光』977ページ、『各時代の希望』第64章)。
今週の研究にもありますが、キリストの十字架が近づくにつれて物語の進行がおそくなります。これは四福音書に共通しています。それだけ十字架に関することが聖書の中で重要なことなのです。
今週の暗唱聖句は、キリストがイチジクの木を呪われる物語の最後の暗唱聖句です。この物語の一つひとつのみことばは有名で大切ですが、今週は一連の流れで考えてみましょう。キリストがイチジクを呪われて、その後に二度目の宮清めが行われます。その後、彼らはベタニヤに退いたあと、翌朝枯れてしまったイチジクを見つけます。ペテロが思いだしてと書かれているので、おそらく彼らも、このイチジクの前に立つまで忘れていたのかもしれません。
キリストは枯れたイチジクの前で「神を信じなさい」とまず弟子たちに言っています。金曜日の引用文にもありますが、この枯れてしまったイチジクはわたしたちへの実を実らせていないクリスチャンへの警告なのです。実が実っていないのは、わたしにつながっていなさいという神さまの招きに従っていないのかもしれません。(ヨハネ15:1~参照)神さまの導きや招きに応える姿勢を見せながら、自分の思いの実現のために働いていないでしょうか。これは一人ひとりへの信仰の問いかけなのです。
そして神さまを信じたらなんでもできると約束されています。けれどもわたしたちの祈りが、すべてかなえられるわけでありません。それらを含めて神さまが最善のことを与えてくださる約束です。そしてそのあとに今週の暗唱聖句がきます。わたしたちがやらねばならないことを教えています。それは隣人を愛することなのです。神さまはわたしたちに愛の実践を通して、神さまの愛を伝えるように教えているのです。愛はいつまでも、まわりの人の心の中に残ります。わたしも新しい世界に入って苦闘の一週間でしたが、まわりのみなさまのあたたかな愛情に包まれて生き抜くことができました。きっとこのことは一生忘れないでしょう。