安息日学校部

20240308安河内アキラ解説

2024年第3期「マルコによる福音書」

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第8課   弟子たちを教える(その2)   8月24日

暗唱聖句:人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献ささげるために来たのである。 マルコ10:45

今週の聖句:マルコ10章、創世記1:27、創世記2:24、ガラテヤ4:1、2、ローマ6:1~11、 イザヤ11:1~16

                                           

今週の研究:マルコによる福音書のこの章には、イエスに従うとはどういうことか、特に今ここで生きること、すなわち結婚、子ども、富との関わり方、イエスに従うことの報いと代償などに関連する重要な教えが含まれています。その最後は2人目の盲人のいやしであり(マコ10:46~52、同8:22~26と比較)、これは、この箇所(同8:22~10:52)を締めくくるとともに、イエスに従うことの代償と結果のすばらしい例証になっています。

これらの教訓は、2000年前の弟子であろうと、21世紀の弟子であろうと、イエスに従う者たちを、弟子としての試練に備えさせるものです。

                                           

月曜日:弟子たちは、子どものように神の国を受け入れなさいというマルコ9章のイ エスの教えを理解していないようです(マコ9:33~37)。今彼らは、祝福を求めてイエスのもとに子どもを連れて来た人々を叱責していますが、おそらく彼らはイエスにはそんなささいなことをする時間がないと考えたのでしょう。

彼らは間違っていました。イエスは憤慨しておられます。マルコによる福音書全体を通じて、イエスは人々に対して何回か際立った反応を示しておられますが、彼の強い反応の一つが子どもたちをご自身から遠ざけようとする人々に対するものであったことは、教訓的です。

イエスは、子どもたちの邪魔をしてはならないと、弟子たちに強く主張なさいます。なぜでしょうか。なぜなら、神の国は子どもたちのものであり、人は神の国を子どものような態度や考え方で受け入れなければならないからです。それはたぶん、神に対する単純で絶対的な信頼を指しているのでしょう。

                                           

水曜日:イエスは、彼らが何を求めているのか、その理解を深めようとされます。そして彼らに、主の飲まれる杯を飲み、主がお受けになるバプテスマを受けることができるかとお尋ねになりました。彼の杯はゲツセマネと十字架での苦しみの杯であり(マコ14:36と比較)、彼のバプテスマは死と埋葬です(同15:33~ 47)。そこでの出来事は、マルコ1章の彼のバプテスマと似ています。

しかし、ヤコブとヨハネには、それがわかりません。彼らは気軽に、「できます」と答えます。そしてイエスは、確かに彼らが主の杯を飲み、主のバプテス マを受けることになると預言されます。ヤコブは使徒の中で最初に殉教し(使徒12:2)、ヨハネは使徒の中で最も長生きし、パトモス島に流されました(黙1:9)。しかしイエスは、栄光の座は神によって定められると言われました。

イエスの答えに、ほかの弟子たちはどう反応したでしょうか。あまりよくありません。マルコ10:14で、子どもたちが主のところに来るのを妨げたことへの怒りに関して「アガナクテオー」(「怒る、憤る」の意)というギリシア語が用いられていますが、その同じ言葉がマルコ10:41でも使われています。

そこでイエスは一同を呼び集め、最も深い教えの一つを授けられます。彼は、異邦人の支配者が個人的な利益のために権力を用いていることを示されます。 しかし神の王国では、権力はほかの人を高め、祝福するためにいつも用いなければなりません。イエスは神の国の王として、その道を先導されます。どのようにしてか。それは、身代金としてご自分の命をささげることによってです。

                                           

木曜日:イエスは立ち止まって、盲人を呼ぶようにとおっしゃいました。重要なのは、 盲人がイエスのところに来るとき、上着を脱ぎ捨てたことです。当時の盲人は、 やもめや孤児と同様、社会の底辺にいました。これらの人々は、最低生活水準 以下であり、まさに危機的状況にありました。上着は男の安全を守るものだっ たでしょう。それを放置したままにするというのは、イエスが自分をいやして くださるという信仰を彼が持っていたことを意味します。

イエスは期待を裏切られません。実際、福音書の中で助けを求めて主のもと に来る人は、必ず助けを受けています。イエスは、マルコ10:36でヤコブとヨ ハネに尋ねたのと同じ質問をなさいます─「何をしてほしいのか」(マコ10: 51)。盲人はためらうことなく、視力を回復してほしいと願い、イエスはすぐに そうしてくださいました。盲人は、道を進まれるイエスに従いました。

この物語は、マルコによる福音書において弟子になることに関する箇所の最終部であり、最初の部分がマルコ8:22~26の盲人をいやす別の物語です。こ の二つの物語は、弟子になるということが、新しい目で世界を見ること、最初 ははっきり見えなくても、常にイエスの導きのままに彼に従うことであることを 示しています。

                                           

今週からの学びに登場する、盲人バルテマイの眼が開かれる物語の中で、他の癒しとは異なる特徴があります。それはイエスさまはたくさんの人を癒していますが、癒された人の名前がしっかりと記録されているものは少ないのです。ここからは推測ですが、バルテマイは目が開かれた後に、キリストの一行とともに歩んだと書かれています。彼はエルサレムへ行って、キリストの十字架、その後の昇天などを12弟子たちといっしょに立ち会ったのかもしれません。何よりも彼は、イエスさまは癒された人物なのです。彼がいることだけで証になりました。おそらく彼は伝道者として、自分を癒してくださった救い主のことを語ったのではないでしょうか。だから彼の名前が出ているのだろうと、わたしは推測しています。

バルテマイの癒しは、キリストの働きの後半でした。キリストが不思議な働きをされていることは、彼のもとにも届いていたと思います。けれどもそのことを信じるのは彼の役割でした。彼はキリストが近くを通られると聞いて、このチャンスを逃さないと必死になって癒しを求めるのです。現代でもキリストの導かれた不思議なことはたくさん起きていますその事実は、一人でも多くの人がキリストを救い主として受け入れるように、神さまがわたしたちを用いて語ろうとしているのです。そしてあなたも助けた必要な時に、かつて導かれたことを思い出してキリストに信頼してください。