第7課 弟子たちを教える(その1) 8月17日
暗唱聖句:それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」 マルコ8:34
今週の聖句:マルコ8:22~38、マタイ20:29~34、ヨハネ12:25、マルコ9:1~50、マラ3:23、24(口語訳4:5、6)、ルカ9:30、31
マルコによる福音書の前半は、イエスが何者であるかに焦点を絞っています。彼の力強い教えと奇跡は、イエスがメシアであるという同じことを指し示しています。この福音書における重要な転換点で、イエスは弟子たちに、自分を何者だと思うかとお尋ねになりました。
マルコ8章の後半から10章の終わりまで、イエスは弟子たちに、ご自身の旅について教えることに集中しており、これらの章の中で十字架を予告されています。そのあとに、弟子になることについての特別な教えが続きます。これらの力強い教訓は、今日でも通じるものです。
日曜日:マルコ8章のこの箇所で、この福音書の転換点がやって来ました。三つの特徴がこの主張を裏づけています。第一に、イエスは弟子たちにご自身の正体について質問なさいますが、それはこれまでになかったことです。第二に、悪霊に取りつかれていない人間としては、ペトロが初めて、イエスはメシアであると宣言しています。第三に、イエスが何者であるかというこの啓示の直後に、イエスは、ご自分がどこへ行こうとしているのか、つまり十字架へ向かっていることを説明し始められます。
なぜイエスは弟子たちに、ご自分がメシアであることを誰にも話さないようにと戒められたのでしょうか。それは、神の国を設立することとは逆のことのように思えます。しかし当時、「メシア」という言葉には、ローマの支配を打破するという政治的な意味合いがありました。イエスはそのようなメシアになるために来られたのではありません。それゆえ、ご自分の正体について黙っているように求められたのです。
月曜日:イエスは最初に弟子たちを召されたとき、彼らを「人間をとる漁師にしよう」(マコ1:17)と言われました。問題については何も語られませんでした。しかし今、弟子たちが、イエスが何者であるかを本当に知ると、主はご自分の使命の目的を彼らに明らかにされます。すなわち、イエスが多くの苦しみを受け、拒絶され、殺され、そして三日後に復活することになっていることです。
衝撃的なニュースです。イエスがメシアであると告白したばかりのペトロは、イエスを脇に連れて行き、そのようなことを言うべきではありませんといさめます。これらのことは、間接話法で記されていますが、福音書記者は、ここでイエスの言葉、ペトロが聞いたときに、彼の心に刺さったに違いない言葉を記しています。主はペトロを「サタン」と呼び、そのような考えは神の御心と一致しないので、邪魔をするな、と言われました。
イエスに従う者は、十字架を背負ってイエスに従うという、イエスと同じ目的を持つように召されています。十字架刑は、ローマ人にとって最も残酷で屈辱的で威圧的な処刑方法でした。十字架は誰もが避けたいと思うものでした。それなのに、誰がイエスに対する献身の象徴として、十字架を背負いたいと思うでしょうか。
水曜日:イエスは、この問題に二段階で対処されます。まず主は、一番先に(最も偉く)なるためには、仕える者にならなければならないという明確な言葉を口にされます。そして次に、イエスはその意味を行動で説明なさいました。どうやら子どもが近くに立って話を聞いていたようです。イエスはその子を連れて来て、集団の真ん中に立たせられました。子どもは怖かったことでしょう。しかし次に、イエスは子どもを腕に抱き、その場を和ませ、もしあなたが子どもを受け入れるなら、イエスを受け入れることになると教えられます。そして、あなたがイエスを受け入れるなら、あなたは彼の父を受け入れることになるのだと言われます。ですから、一番下の子どもが神ご自身とつながっているのです。
部外者に関するヨハネの質問に対して、イエスは、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」という重要な教訓を教えておられます。主は、クリスチャンの奉仕をしている人たちを助けることは、たとえささいなことであっても、天において見過ごされることはないと断言なさいました。
木曜日:一見すると、この箇所は、何の理由も韻もなく、イエスのまったく異質な教えを寄せ集めたように見えるかもしれません。しかし、詳しく見てみると、連続するそれぞれの教えには、前の教えと関連する要の言葉があることに気づきます。この箇所は、「つまずかせる」「火」「塩」という、教えを段階的に前に進める三つの主要な用語を中心に展開しているのです。
深刻な主題を喜劇仕立てにしているところから見て、イエスは誇張して要点を説明しておられるのだと考えられます。つまずかせるくらいなら、手、足、目を失うほうがましであるほど、罪は真剣に受け止めるべきだということです。
地獄が永遠であるというのは、その結果が永遠であるということであって、地獄の火そのものが永遠なのではありません。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハ3:16、強調付加)。失われた者は永遠に燃え続ける のではなく、永遠に滅びるのです。これは非常に大きな違いです。
今週からマルコによる福音書の後半に入ります。
最初に弟子たちに「自分の十字架を背負って従え」と教えられました。自分の十字架?なんでしょう。将来、本物の十字架を背負うことになるかもしれませんが、わたしは自分が背負わねばならない重荷と考えています。それぞれ生まれながら背負っているものもあるでしょう。また自分の弱さ、罪深さもあるかもしれません。これらを捨てるのではなく、この地上では捨てられないものを背負って従います。それら自分の弱さを認めて神さまに従うことです。
次に「仕える者に」と教えられています。若い頃、いつかは組織の責任を背負ってみたいと願っていました。けれども施設長という立場になった時に、人を動かす責任の重さと難しさを痛感しました。従わせるのではなく自分が仕える、これは責任者の姿勢ですね。このようにならないと人は指導者について来てはくれません。
最後に地獄について教えています。他のキリスト教会からは「アドベンチストは地獄を信じない」と言われています。聖書の教える地獄はあくまでも象徴で、永遠の滅びが決まってしまったら、その結果を変えることができない、それが地獄の真意です。そしていつまでも地獄が残っていて、そこでだれかが苦しみ続けている、愛の神さまがそのようなことをなさるでしょうか。
地獄の教えは、サタンが巧みにローマ法王権を使って誤謬を教会の中に入れました。地獄があれば、そこで練られて煉獄へ、そして時間はかかっても天国へと救いの道があるように見えるのです。リベンジできるかもという人間の想いを巧みに組み入れた教えなのです。それは最後の裁きに関してまちがった考えを教えるためでした。