第3課 論争 7月20日
暗唱聖句:そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」 マルコ2:27、28
今週の聖句:マルコ2:1~3:6、ミカ6:6~8、サムエル記上21:2~7(口語訳21:1~6)、 マルコ3:20~35、ルカ12:53、ルカ14:26
今週の研究:マルコ2:1~3:6には、宗教指導者たちの教えとは対照的なイエスの教えを説明した五つの物語が含まれています。これらの物語は一定の型を成しており、話題の類似性という意味で、連続するそれぞれの物語が直前の物語とつながっています。そして最後の物語は、一周して最初の物語と再びつながります。
一つひとつの物語は、マルコ2:10、17、20、28の言葉に例示されているように、イエスが何者であるかという側面を説明しています。日曜日、月曜日、火曜日の研究では、これらの記事とその中におけるキリストの発言の意味をさらに深く掘り下げます。水曜日と木曜日の研究対象は、マルコ3:20~35です。
私たちがこれから目にするのは、この福音書記者が使用する「サンドイッチ物語」と呼ばれる手法の一例です。この物語のパターンは、マルコによる福音書の中に少なくとも6回登場します。いずれの場合も、イエスの本性とメシアとしての役割、あるいは弟子であることの本質といった、いくつかの重要な側面が焦点になっています。
今週、私たちはイエスに関するいくつかの記事を読み、そこから何を学べるかを考えます。
火曜日:またもやイエスは、安息日をめぐって宗教指導者たちとの論争に直面されます(ただし、この論争は安息日そのものをめぐるものでないことに注意してください)。 宗教指導者たちは、イエスが安息日に病人をいやされるなら、彼を告発しようと思います。イエスは彼らと対峙することをためらわれませんでした。彼は、善を行うか、悪を行うか、命を救うか、命を殺すかの対比を提示されます。彼の質問に対する答えは明白です。善を行い、命を救うことは、安息日の活動として、はるかに適切なのです。
さっそくイエスはその男をいやされますが、そのことに反対者たちは怒り、ただちにイエスを殺す計画を立て始めました。この物語の皮肉なところは、安息日を破ったことでイエスを捕まえようとした者たちが、同じ日にイエスの死を企てることによって、自らも安息日を破っていたという点です。
水曜日:この箇所は、マルコによる福音書の最初の「サンドイッチ物語」であり、ある物語が始まり、続いて別の物語によって中断され、そのあとに最初の物語は完結します。 外側の物語は、イエスの親族が、イエスは気が変になっていると考え、彼を取り押さえようとしている話です(マルコ3:21)。挟まれた内側の物語は、エルサレムから来た律法学者たちが、イエスは悪魔と結託していると告発する話です(きょうの研究では、マコ3:22~30の内側の話に焦点を合わせます)。
赦されない罪とは、聖霊に逆らう罪であり、聖霊の働きを悪魔の働きと呼ぶことです。マルコ3:28、29におけるイエスの発言の理由が、同3:30に記されていることに注目してください。その理由とは、実際には聖霊がイエスに宿っておられたのに、律法学者たちは、汚れた霊がイエスに取りついていると言ったことです。もし聖霊の働きを悪魔の働きと呼ぶなら、まともな人は誰も悪魔の導きに従いたくないので、聖霊に耳を傾けようとしないでしょう。
木曜日:マルコによる福音書のこの二つの「サンドイッチ物語」には、深い皮肉が含まれています。イエスは内側の物語の中で、内輪で争う家は成り立たないと言われます。一見すると、外側の物語の中で、イエス自身の家、つまり彼の家族が内輪で争っているように見えます。しかし、イエスは家族を再定義することによって、この難問を解決されました。イエスの本当の家族は、彼とともに神の御旨を行う人たちなのです(ルカ12:53、14:26参照)。歴史上、クリスチャンは何度も親族から疎外されてきました。それは厳しい経験です。マルコによる福音書のこの箇所は、イエスが同じ苦しみを経験されたことを明らかにしています。彼は、それがどんなものであるかを理解し、痛みを伴うこの孤独を感じている人々を慰めることがおできになります。
今週はマルコによる福音書2,3章を学びます。はじめににも書かれていますが、宗教指導者たちの教えとは対照的なイエスの教えを説明した五つの物語が書かれています。ここではキリストと当時の宗教指導者たちの教えの大きなちがいについて書かれています。ポイントは二つあります。それは「どこを見ているのか」「考えの土台が何か」です。まずはどこを見ているのか。わたしは高齢者施設の施設長だった時に、職員に仕事を見ないでご利用者を見るようにと話して来ました。先日、環境省と水俣病の被害者の対話集会で、被害者の発言時間を制限して時間をオーバーした時にはマイクを切断したと報じられました。環境省の役人は、対話集会を実施して彼らが決めた時間内で終わらせること、そのことだけを見ていたので、あのような行為をしたのです。そこには被害者の心情を聴こうとする姿勢は見えません。対話集会を実施したという事実を作ろうしただけなのです。キリストの時代の宗教指導者も同じでした。彼らの価値観で正しいという思わることを行うことだけしか考えていなかったのです。目の前で癒しを求める人がいても、それ以上に彼らが考える律法遵守を優先したのです。キリストは彼らのかたくなな心を責められました。そしてその考えの土台のちがいは、キリストは魂を愛されていて、救うためには何でもなさったのです。わたしたちも同じようなまちがいを犯してはいないでしょうか?
そして今期の学びで何回か出て来るであろう「サンドイッチ物語」について、水曜日の学びに書かれていますが、キリストの家族が彼の働きを理解していないことから始まり、律法学者がキリストと悪魔が結託していると告発、そして最後にキリストの家族とはという話しで終わっています。前後は家族について語っていて、中心には律法学者の話しが入っていますが、どちらもキリストの働きについて理解されていないという主題を扱っています。今期の学びでは、マルコによる福音書がこのような技法を用いて執筆されていると教えられています。このことを理解して読むと、内容がもっとわたしたちに伝わって来ますね。