安息日学校部

20240302安河内アキラ解説

2024年第3期「マルコによる福音書」

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第2課   イエスの宣教活動の1日   7月13日

 

暗唱聖句:イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 マルコ1:17

                                           

今週の聖句:マルコ1:16~45、ヨハネ1:29~42、マルコ5:41、ルカ6:12、レビ記13章

                                           

今週の研究:マルコによる福音書の冒頭における、この「イエスが共におられる安息日」は、イエスがどんなお方であるかを読者に教えています。今週の研究対象である箇所(マコ1:16~45)には、イエスの言葉がほとんど記録されていません。弟子になるようにとの短い召しの言葉、悪霊に対する命令の言葉、ほかの場所へ行こうという計画の言葉、(祭司に体を見せて清くなったことを証明してもらいなさいという指示とともに)重い皮膚病の人をいやされた際の言葉くらいです。行動、特に人々をいやすことが強調されているのです。福音書記者は、イエスの宣教活動のすばやい動きを説明するために、「すぐに」「たちまち」という言葉を好んで用いています。

                                           

月曜日:次に、「この人から出て行け」という命令は理解できますが、なぜ「黙れ」と、主は命じられたのでしょうか。マルコによる福音書のここから、注目すべき主題があらわれます。それは、ご自分が何者であるかについて、沈黙を求めるイエスの呼びかけです。学者たちはこれを「メシアの秘密」と呼んでいます。

当時のメシアへの期待は政治的色合いが濃かったため、沈黙を求めるイエスの呼びかけは、理にかなっていました。メシアになることは危険でした。しかし、沈黙を求める声には、イエスが何者であるかという紛れもない啓示も含まれていました。時間が経つにつれて明らかになるのは、イエスの正体を隠すことはできず、イエスが何者であるかという真実が福音のメッセージの中心になるということです。人々は、イエスが何者であるかを知るだけでなく、イエスの到来にいかに自分は応答し、それが自分にとってどんな意味があるのかを決断する必要がありました。

                                           

水曜日:イエスは日の出前に起き、祈るために人気のない静かな場所に出て行かれました。マルコ1:35は、イエスの行動の中心として祈りを強調しています。文中のほかの動詞(「起きて」「離れ(て)」「出て行き」)は、すべて動作が完結しています(ギリシア語のアオリスト時制)。しかし、「祈る」という動詞は未完了形であり、ここでは特に、進行中の過程をあらわすために用いられています。イエスは「祈っておられた」、「祈り続けておられた」のです。聖句はまたイエスが出かけられたのがいかに早かったかを強調しており、それは、彼の独りの祈りの時間が長かったことを示唆しています。

四福音書を通じて、私たちは祈りの人としてのイエスに出会います(マタ14:23、マコ6:46、ヨハ17章参照)。これは、イエスの宣教活動の原動力を知るうえで、重要な秘密の一つのようです。

                                           

木曜日:イエスは、このような場合にモーセがレビ記14章で命じる、いけにえをささげるように指示して、その男を祭司のもとに遣わされました。マルコによる福音書全体を通じて、イエスはモーセの教えを擁護し、支持しておられます(マコ7:10、10:3、4、12:26、29~31参照)。この見解は、マルコ7章、10章、12 章で、モーセを通して与えられた教えの本来の意図を破壊している宗教指導者たちと、際立って対照的です。これらの詳細は、イエスがマルコ1:44で、何も話さないようにとこの男に命じられたことを説明しています。もし彼がイエスによっていやされたことを話せば、イエスに対して偏見を抱いている祭司の判断がゆがめられるかもしれません。

しかし、清められた重い皮膚病の元患者は、そのことを理解していないようです。彼はイエスの命令に従わず、この出来事を大いに言い広め、イエスが宣教活動のために公然と町に入ることをできなくさせてしまいました。

                                           

今週はマルコによる福音書1章の後半を学びます。ここではペテロの姑の癒しから、多くの人がイエスさまに癒してもらうために集まってきます。当時医術はありましたが、多くの貧しい人たちは医者に診察してもらうことができませんでした。ところがイエスさまが命じると、たちまち癒されたのです。それも無償で!これほどのめぐみはありません。ある人は元気になったから働くことができて、貧乏からの脱出のきっかけになったかもしれません。癒されたことによって、新しい人生を歩むことができるようになった方もいたでしょう。このすばらしい知らせは、ガリラヤ全土へ広がりました。(1:28参照)

ところがイエスさまは、癒されたことを話さないように命じられます。これはマルコだけでなく、それぞれの福音書にも記録されています。月曜日と木曜日の引用文に、その理由が解説されています。けれども、苦しみが一瞬で消えた人にとっては、その喜びを黙っていることができなかったのです。福音が伝えられた時に、その人の中で大きく成長してあふれていく、それがこのことではないでしょうか。

わたしたちのあかしが少ないとしたら、この神さまのすばらしいめぐみを味わっていないのかもしれません。今日、わたしたちは文明社会で暮らしています。だから神さまに頼らなくても暮らせてしまっているのです。月曜日に祈るイエスさまについて書かれています。神さまに真剣に祈る、これは神さまの存在と力を信じているからではないでしょうか。このような祈り、救いを求めている祈りに神さまは必ず応えてくださいます。そこに信仰の喜びがあるのではないでしょうか。